原作前、冬の朝


 立ち上る寒さに目を覚ます。カーテンを透かして届くのは早朝の仄かな白色。窓の外にあるのは、木立のささめきや生き物の微かな気配。聴こえてくるのはそれくらいで、後は透き通った静けさだけがあった。
 ナランチャは欠伸をひとつ溢し、ベッドから身を起こす。足許にまとわりつく鋭い冷気。時計を見やればまだ起きる時間には早い。でも覚めてしまった目はどうしようもないし、まず何より用を足したかった。
 蛇口から流れるのはしんと冷えきった水。肩を竦めながら手を洗う。慌ててタオルで拭い、そこでふと漏れ出る光に気づいた。

「あれ……?」

 灯りを消し忘れたか。最初はそう思い、居間を覗く。
 けれどそれが全くの見当違いであるとすぐに気づいた。
 居間にはひとり分の影があった。ぼんやりとした暗がりの中にひとり分の影だけがあった。ナランチャに背を向け、じわりとも動かない人影が。
 ナランチャは一瞬誰だろうかと考えた。考えて、すぐに『おかしなことだ』と疑問を打ち消した。それは名前だった。この家にいるのはナランチャの他に彼女しかいない。だから今、ナランチャの前にいるのもそれ以外に考えられなかった。
 彼女は窓辺にいた。窓辺に立って、どこかを見ていた。
 ……それはどこだろう?
 考えたけれど、わからなかった。それは数メートルの距離があるからというだけではない。ナランチャは名前のことを知らなかった。彼女が何を想い、空を見上げるのか。そういったことを何一つ知らなかったのだ。
 ナランチャは知らずうちに呼吸を抑えていた。息を潜め、まるで敵から身を隠しているみたいに神経を使っていた。そんなこと、する必要はないと頭では理解しているというのに。それでも本能的に何かを察していた。彼女をひとりにしておくべきだと考えていた。
 ──でもそんなこと、長くは続かない。
 それにナランチャは同時に違うことも思っていた。……ひとりにしておくべきだって?そんなのは正しくない。そっとしておくべきだと思う傍らで、今の彼女をひとりぼっちにしてはおけないとも思った。そんなのは寂しすぎると思った。

「……名前?」

 だからナランチャは壁を叩いた。居間の入り口、そこの壁をノックするみたいに叩いて、彼女の名前を呼んだ。ひどく控えめな声で中の様子を窺い見た。
 名前は振り返った。──とても、静かな目だった。霜が降りた真っ白な花。透徹した瞳。それだけはよく見えた。それ以外のものはヴェールで覆われていた、……ように思えた。

 ──それが、少し怖い。

 ナランチャはたじろいだ。自分でも理解しないうちに恐れを抱いた。それは名前に対してではない。二人の間に横たわる隔たりに対してだった。その深さ、冷たさを感じた。感じて、怖くなった。──まるで、名前がそこにもういないように思われて。

「ナランチャ、」

 でも名前はすぐに表情を和らげた。目許を寛げ、口許を緩めた。瞳には親愛の情が滲み、声はごく親しげであった。いつもの名前だった。出会った時から変わらない、優しい微笑。
 それにほっとして、ナランチャも笑った。「ブォンジョルノ、」まだぎこちなくはあったけれど、不十分なものではなかったはずだ。ナランチャは居間にそっと足を踏み入れ、名前に歩み寄った。拒絶の気配はなかった。……安心した。

「早いね、名前。いつもこんななの?」

「ううん、まさか」

 名前の隣に立ち、彼女がしていたように窓の向こうを見やる。辺りにあるのは相変わらずの薄曇り。道の脇には、霜や雪の皮を被ったイシマツやトキワガシがあった。後はまばらに見える人影。石畳の街はまだ眠りに沈んでいた。

「少し、目が覚めたの。だからぼうっとね、外を眺めてただけ」

 名前はふうっと息を吐いた。白々とした息だった。
 なんとなく、それだけじゃないんだろうなとナランチャは思った。たぶん、それだけじゃない。それだけだったらあんなに寂しそうな空気は生まれない。嘘を吐いているわけではないけど、真実だけでもないとナランチャは直感した。それこそが名前のキズなのだとも。

「寒くない?」

 ナランチャが訊ねると、名前は目を瞬かせた。そんなこと思いもつかなかったって顔だった。夢から覚めたって具合だった。こんなにも青ざめた膚をしているというのに、本人にはちっとも覚えがないらしかった。

「そうかもしれない。……うん、でも、あなたが来てくれたから」

 「寒いわね」と名前は呟いた。
 吐息が空気を震わした。瞳は氷の割れた湖のようだった。その声は吹き抜ける木枯らしだった。氷で毛羽立ち、溶けかけの雪が混じる声だった。──ひどく寂しげな、ちいさな微笑だった。
 ナランチャは名前の手を取った。驚く彼女を無視してその手を握り、膚を寄せた。

「……こうすれば、少しはあったかくなる?」

 寄り添う膚は未だ氷のよう。じくりと鋭さが身を苛む。まるでイバラ。そしてそっと深まる微笑は、雪の中に沈むバラのつぼみだった。綻びかけたつぼみだった。
 名前は「ありがとう」と目を細めた。それから「あたたかいわね」と噛み締めるように言った。──本当に、あたたかい。
 ナランチャはともすると泣き出してしまうのではと思った。雨の降り出す前の匂いが立ち上っていた。氷の割れた瞳はいつ溢れてしまうかわからなかった。

「あなたがいると、こんなにもあたたかい」

 でも名前は泣かなかった。
 どころか、心底から幸福だというような顔でナランチャを見た。冬の鋭さは溶け、雲間からは光が差し込んでいた。朝露を含んだ花は盛りの季節を迎えていた。

「ねぇ名前、目を閉じて」

「え?」

「いいからいいから」

 戸惑う名前を促して、ナランチャも一緒になって目を閉じた。
 瞬く間に訪れる暗闇。ぼんやりと浮かぶ光は朝の気配。代わりに鋭敏になるのはその他の感覚で、ナランチャは声を潜めて言う。

「壁に耳を当てて、じっと澄ませてみて。……ね、聴こえてくるでしょ、色んな音が」

 早朝のネアポリスは未だ半分眠りの中。けれど起き出す者はある。微かな衣擦れの音。或いは葉擦れ。風に浚われる大地の鳴き声。それから──革靴のコツコツという音。

「この音が一番好きなんだ。ベッドに横になって耳を当てて、そんでこいつを聴くのが一番……きれいな音だって思うんだ」

 抑えた声のままナランチャは囁く。秘密を打ち明ける調子で。ゆっくりと目を開くと、同じようにしていた名前と目が合った。
 鼻先が触れ合うほどの距離だった。先刻感じたような途方もない隔たりはなかった。二人の間に横たわるのは深い川などではなく、ガラス一枚ほどの空気で、それさえもナランチャ次第なのだということ理解した。

「名前には特別に教えてあげる。……他のヤツには内緒だからな。ガキっぽいって言われるのが一番ヤなんだ」

「……うん、約束する」

 名前は笑った。じきに降り出しそうな空を背にして、真昼の日差しの如く微笑んだ。絡めた指先は溶け合い、もう冬の鋭さは残っていない。穏やかな温かさがそこにはあった。

「『どちらを向いても私たちには奇跡があり、祝祭があった』……」

「……なんだって?」

「あなたでよかった、って言ったのよ」

 名前ははぐらかすような笑みを寄越し、身を翻した。「名前?」呼び掛けると答えはすぐに。振り返り、名前は柔らかく口許を綻ばせた。

「朝食の準備をするわ。飲み物は……そうね、カフェ・コッレットにしましょう。寒い時にはこれが一番よ」

 そう言い終えてから、名前は少し考える仕草をした。「ううん、そうじゃなくて……」首を傾げるナランチャだったが、続く言葉に目を輝かす。

「私はこれが一番好き。冬の朝には、ね」

 名前はナランチャの言い方に倣った。秘密を打ち明ける調子で言って、だからナランチャも「うん!」と元気よく答えた。
 ナランチャは冬の朝が好きだった。どこからか響く革靴の足音。澄み渡る風と空。透明な空気の感触。そうしたものが好きだった。
 ──そして、今日からは朝食に飲むカフェ・コッレットも。
 ナランチャは胸中で書き加え、名前の後を追った。もう寂しさはどこにも感じられなかった。