原作前、晩秋の頃
晩秋に差し掛かるとそれに従い雨量も増えるのがこの世の常。ナポリ郊外も同様で、昨晩は特に酷かった、……らしい。生憎と熟睡していたナランチャは雷の音ひとつ記憶に残っていないが。だが山間部の被害は実際目にしたし、落雷で倒れた樹木の片付けを手伝ったのはつい先程のこと。
「あ〜疲れたァ〜〜……」
ぐるり。首を回しながらハンドルを切る。普段使わない筋肉を酷使したが故の疲労感。ぶどう畑で収穫の手伝いをした時も中々だったが、これも結構な重労働だった。
先々月に行われたぶどう摘み。ヴェンデミアを経たぶどう畑はいたく寂しげな様相。けれどそこで出された昼食は本当に美味しいものだった。それはもう、指にできたマメの存在も忘れるほど。
「ふふ、お疲れさま」
けれどそんなナランチャ以上に楽しげだったのが、今助手席に座る名前である。
彼女の背後、走り去る景色は曇り空。峰の頭の部分は未だ煙のような靄で覆われている。そして再来月になればこれが雪に変わることだろう。秋の風は啜り泣き、太陽の輝きも陽気さを失っている。
曇天続きのこの季節、そりゃあ誰だって気が滅入るもの。例外と言えばオペラのシーズンを心待ちにする人々くらいだ。楽しみなんてまるでなし、『死の季節』と呼ばれるのも納得である。
だがこの名前ときたらどんな時だって楽しむということを忘れない。今だって道の片隅に落ちる影を目敏く見つけ、目を輝かせた。
「ねぇナランチャ、」
「なに?車止めろって?」
「そう、よくわかったわね」
──そりゃあね、もうすぐ一年もの付き合いになるんだから。
そんな意味を籠めて肩を竦めてみせる。でも実際のところはちっとも嫌な気分はない。どころか、彼女の見る景色はナランチャにとって珍しく、雲の合間から光が差したような具合。
路肩に車を止め、先に降りた彼女の後を追った。
「あらあら随分大きな栗ね」
名前が見つけたのは言葉通りのもの。まだ殻に覆われたままのものもあれば、落ちた時に零れ出たものもある。けれど等しく共通するのはそれが見慣れた風景であるという点だ。
「まさかソレ持って帰る気ィ?」
なのに名前はしゃがみこみ、いそいそとハンカチを広げている。何をしているかなんて自明の白。
「ダメかしら」眉を下げる名前。その目は純粋無垢、まるで子供そのものといった始末。いつもは彼女の方が大人びた風であるのに、こういう時だけは自分よりもずっと子供らしい。
そうナランチャは思い、「ダメっていうかさぁ……」と頭を掻いた。
「全然美味しくないよ、そんなの持って帰ったってなんにもなりゃしないって」
勿論食べられないことはない。ただ道端に落ちている栗というのは水っぽく、味という味がないだけで。だから無理矢理でも食べれば多少腹は満たせるだろう。そう、かつてのナランチャのように。
でも今は違う。リストランテのゴミ箱を漁らねばならないほどだったのは過去の話。そんな美味しくもない栗をわざわざ食べようという気にはなれない。
「……なるほど、そういう考えもあったのね」
顰めっ面のナランチャに、しかし名前は瞬きひとつ。そんなの念頭になかったって顔で頷き、それから肩を震わした。
「そう、そうよね、栗は食べ物だものね……」
「な、なんだよォ〜……、オレなんか変なこと言った?」
「ううん、……ただ私はそういう見方をしてなかったから、」
名前はイガの取れた栗を幾つか拾い、腰を上げた。からころと音を立てる茶色の実。手中のそれを楽しげに眺め、名前は言葉を続ける。
「秋にはね、こうして木の実拾いをしていたの。昔、子供の頃……公園とかでね、友達と一緒に……。何に使うってわけでもないんだけどね」
だから懐かしくて、と細められた目。その横顔はどこか遠く、ナランチャは返す言葉に迷った。
さっきまでは子供みたいだと思った。今だって彼女が語るのは幼少期の思い出だ。でもその眼差しはひどく静かで、石造りの像だとかそういうものに似た温かな冷たさがあった。
そしてそれは彼女特有のものではなく──そうだ、この目を知っている。ブチャラティだ。ブチャラティも時々こんな目をしていることがある──
「ナランチャ?」
「エッ!?な、なに!?」
「なにって……、」
困惑と疑問。馳せられた目はナランチャの元へ、そしてその視線は名前の服の一端を掴むナランチャの指先へと──
「わっ、ご、ゴメン……」
「ううん、別に……」
──これじゃホントに子供みたいだ。それも赤ん坊くらいの歳の子供じゃないか。
離れていく母親を寂しがる仕草に似ている。それに気づいた瞬間にナランチャの頬は熱を帯びた。
──なんだってこんなことをしてしまったのか。あるのは混乱と後悔で、その慌てっぷりにむしろ名前は不思議そう。「どうしたの?」と首を傾げ、それからすぐに「ああ!」と手を打つ真似。
「あなたも拾う?沢山あるから好きなの取り放題よ」
今度は名前がナランチャの手を引く。「これなんかピストルズに似てない?」転がる実をひとつ。拾い上げ、「帰ったら顔を書いてあげましょう」と声を弾ませる。
「ピストルズって……あんなの米粒と変わりないじゃん。それ言ったら……ほら、これだって似てるんじゃない?」
その無邪気な様子に思わず緩む頬。先刻のことも忘れ、ナランチャも名前に合わせて膝をついた。
「じゃあそれはNo.2にしましょ。私のが1ね。だから、えーっと……、あと4つ、4個見つけないと」
「ええー……、そんな同じ大きさのあるかなぁ?どれかだけ小さいとか大きいとか差別あるとスゲー怒りそう」
「確かに。目に浮かぶわ」
二人して同じものを思い浮かべ、二人して声を上げて笑う。
季節は晩秋。風は冬の気配を帯び、落日の輝きもどこか沈みがち。晴れ間は少なく、曇り空の日が続く今日この頃。
でもちっとも悲観的な気分にはならなかった。隣には名前がいて、彼女はいつだってナランチャの知らない景色を見せてくれた。
──そしてそれは、彼女にとっても同じだといい。
「栗拾いもいいけどさァ〜……やっぱ秋は柿だよ、柿」
「柿!いいわね、私も好きよ」
ナランチャがぽつりと溢すと、名前もにっこりと満面の笑み。そんな彼女に、ナランチャは行きがかりに見つけた柿の木のことを話した。
「キレーに色のついた柿が幾つも木になってたんだ。でも農家って感じじゃなかった」
「へえ、いいわね。なんだか食べたくなってきちゃったわ」
「これから通るし、ちょっと頼んでみようよ」
気のいい人が多いから、たぶん少しは分けてもらえるはずだ。
経験から言うと、しかし名前は遠慮がち。「いいのかしら」と躊躇いを覗かせる彼女に、ナランチャは続ける。
「平気だって。イヤなら向こうも断るし」
「そう、……そうよね」
目的の分だけ栗を拾い上げ、車に乗り込む。
その足取りすら軽く、労働で得た疲労など既に彼方。車を発進させながら、ナランチャは沈みかけの太陽に目を細めた。
優しい焔を美しいと思った。美しいと思えることこそがナランチャにとって嬉しいことだった。近づく夜闇の気配さえ今は楽しみに変わっていた。