原作前、夏の広場へ


 一日のうちで一番暑い時間、太陽が天高く昇りつめたその瞬間ですら騒ぐのをやめないのは、この広い世界中探したってセミくらいなものだろう。

「うう゛……」

 真夏の午後、カーテン越しにも降り注ぐ日差し。濡れたグラスから一息でジュースを飲み干し、ナランチャは呻いた。

「もー無理だって……こんなんじゃあさ、勉強なんてできっこないって……」

 ノートを押し退け、突っ伏したテーブル。微かに残る冷たさも、頬に触れた途端逃げ去ってしまう。カラカラに乾いた空気。何より、──カン高い鳴き声が思考を阻んで仕方がない。
 喧しい、騒々しくて敵わない。癇癪を起こした女よりもよっぽど理不尽な喚き声。何を考えるよりも早く脳内を掻き回す音に、ナランチャはほとほと参っていた。

「あら、でもそれってフーゴに出された宿題でしょう?明日までにやんなきゃって、あなた自分で言ったじゃない」

 ──そんな騒音に支配されてなおよく通る声。それは小川のせせらぎで、小鳥たちの奏でる甘い音楽でもあった。
 ナランチャがのろのろと顔を上げると、微笑む名前と目が合った。この暑い中、彼女は台所の掃除をしていた。彼女の眼差しに呆れや蔑みといった冷たさはなかった。彼女にあるのは六月に咲く薔薇の甘やかさだけだった。

「そーだけどさ、……だって全然考えらんないもの。こんな煩かったら勉強になんないって」

「あぁ、」

 ナランチャは口を尖らせ、窓の向こうを一瞥した。それで名前も諒解したとばかりにひとつ。頷いて、「確かにね」と肩を竦めた。
 それはナランチャの発言を肯定するものだった。だからナランチャも勢い込んで「だろ!?」と身を乗り出した。

「やっぱさ、こーいう日は外に出るのがいいよ……、ジェラートとか買ってさ、なんかもうそういう気分なんだよなァ〜〜……」

「うーん、……」

 名前は思案する素振りを見せた。
 けれどナランチャは無駄だろうなと思っていた。ダメで元々。そんな具合であったから、名前が「そうね」と呟いた時には目を丸くした。そんなナランチャに、名前は悪戯っぽく片目を瞑る。

「フーゴには内緒よ?」

「……うんッ!」




 石畳の街は見慣れない様相の人々で溢れていた。今はバカンスのシーズン、故に観光客が増えるのも道理である。代わりにイタリア人の姿は常よりも少ない。きっとみんな揃って海にでも繰り出しているのだろう。……ナランチャには縁のない話だが。

「でも意外だったな、名前がオッケー出してくれるなんて」

「そう?」

「だって名前は真面目じゃん」

 言うと、名前は「そんなことないわ」と苦笑した。

「私、そんなにいい生徒じゃなかったもの。きっとあなたより……ね」

「へえ?」

 それこそ驚きだ。でもさっきの提案を考えるとどこか得心もいく。悪巧みをする顔はどこか手慣れたものだった。たぶんきっとあれも名前の一部なのだろう。そう考えると、何故だか胸が弾む。
 ──『フーゴには内緒よ』その響きの軽やかな感じが好きだなと思った。秘密の共有は甘美だ。それに名前が自分のことを話すのも珍しいこと。もっと知りたいような気がして、けれどその横顔に言葉を呑み込んだ。
 特別わかりやすく表情が変わっていたわけじゃない。ただなんとなく──寂しげな感じがした。今は真昼であるというのに、名前のそれは夕暮れ時の空だった。或いは明け方に降りる露に似ていた。

「名前、」

「あっ!」

 伸ばしかけた手をするりと抜け。声を上げた名前が指し示すのは広場の一角。色鮮やかな看板に、並ぶ行列。それはジェラート屋だった。
 振り仰いだ名前の目に宿るのは輝き。「あなたは日陰で待ってて」買ってくるから、と駆け出す足は存外に素早い。ナランチャが待ってと言うよりも先に名前は行列へと身を投じていた。

「…………、」

 どうしようかな、と頭を掻くのは名前から言い置かれたセリフゆえ。追いかけるのもできず、さりとて彼女を一人にしておくのもなんだか心配だ。

「あぁ、もうッ!」

 名前の言う通りに日陰へと避難して。行き交う人を落ち着きなく眺め、数分を永遠のように感じながら何度も時計を見ては肩を落とし──けれどやはりと首を振り、ナランチャもまた賑やかな広場へと飛び込んだ。
 名前が先んじてから幾ばくか。しかし列は思ったよりも早く捌けていったらしい。追いついた時にはちょうど名前がお会計をするところだった。
 そこでちょっと『おかしいな』と思った。こういった店なら先払いが普通だ。コッパやコーノの値段を払ってからジェラートの種類を選ぶ。
 だが名前は既にジェラートを受け取っていた。グランデサイズのを二つ、手にしながら、店員に提示された金額を疑いもせずに支払おうとしていた。

「ちょっと待ってッ!!」

「ナランチャ?」

 どうしたの?と首を傾げる彼女の曇りなき目。反対に、ナランチャを認めた店員はさっと顔色を悪くした。簡単に言えば狼狽えていた。目が泳いでいたし、ナランチャが睨みつけるとびくりと体を震わした。
 疑いようもなかった。身に覚えがなければ──疚しいことがなければ──もっと堂々としているはずだ。
 ナランチャは名前を素通りして、「オイ」と店員を呼んだ。それで十分だった。店員は「間違えただけだ」と弁明し、受け取ったお金の半分を名前に返した。名前はぽかんとした顔のままだった。

「……早く行こう」

「えっ?」

「いいから、」

 既に店員は次の客に愛想笑いをしていた。でもナランチャたちのことを気にしているのは明らかだった。ちらちらと窺い見る視線が鬱陶しかった。なんだか腹の底がムカムカしていた。小心者っぽい態度が余計に気に障った。
 その視線を振り切るために足を早め、店の屋根が見えなくなってようやくナランチャは足を止めた。

「どうしたの?」

 声をかけられ、「しまった」と我に返る。すっかり名前を置き去りにしてしまった。が、名前の呼吸に乱れはなかったし、それを気にする素振りもなかった。ただ純粋な疑問だけがあって、ナランチャはホッと息を吐いた。同時に、そんな彼女を騙そうとした店員にまたムカつきが沸き上がってくる。

「さっき名前……ぼったくられそうだったんだよ」

「ぼったくられ……え?さっき?ジェラート屋で?」

「うん、」

 言おうか言うまいか。名前が傷つくなら……とも思ったけれど、でもこれから先のことを考えれば教えておくのが一番だ。そう思ったから、ナランチャは名前に向き直った。向き直り、真っ直ぐ彼女を見つめた。
 名前は最初目を丸くしていた。でもすぐにナランチャの言葉を噛み砕き、「そうだったの……」と頷いた。

「だからお金が半分返ってきたのね。……そういえば料金の表示がなかったわ。そういうものなのかと思ってたけど」

「たぶん人を見て選んでるんだ。この時期は観光客が多いからさ、名前もそうだって思われたんだ」

 あのジェラート屋、ナランチャには見覚えのない顔だった。たぶん向こうもナランチャのことは知らないだろう。バカンスのシーズンに合わせて来た流れ者だ。じゃなきゃこの街で、それもナランチャの前でこんな勝手はできっこない。
 まったく、卑怯なヤツだ。女子供を騙そうとするなんてまったく、許しがたい。そういう無知な人を利用するのがナランチャには一番腹立たしいことだった。
 でも騙された方の名前は呑気なもの。「気をつけなくっちゃ」とは呟くものの、それ以上はなく。それよりも、とナランチャにジェラートをひとつ手渡した。それはオレンジとピンクのジェラートが乗ったものだった。

「でもほら、ジェラートは美味しそうよ。せっかくだし食べてちょうだいな」

「名前……」

「あっ、ちゃんと反省はしてるわ!感謝もしてる。本当よ?でも……ね、溶けたら勿体ないわ」

 名前は笑い、ジェラートを一口掬い取った。そうしながらナランチャを見上げて、「あなたのはアランチャとポンペルモ・ローサ」と言った。それなら彼女の手にあるのはノッチオーラとチッコラータ・アッルアランチャだろうか。見ていると、それもまた美味しそうに見えてくる。

「ね、一口貰っていい?」

「いいわよ、……はい」

 口元を指差すと、名前はクリーム色のジェラートをスプーンに乗せた。そしてそのまま示された通り、ナランチャの口まで運んできてくれる。
 途端、口内に広がる濃厚なナッツの味。しっとりとした感覚に、ナランチャは思わず唸った。……悔しいが、美味い。ともすると思い浮かべてしまうあの店員を顔を追い出して、ナランチャは夏の色をしたジェラートを掬い上げた。

「はい、名前も」

「ありがと……うん、美味しい」

 こっちにすればよかったかしらと眉間に皺を寄せる名前。アランチャのジェラートなんてこの季節ならありふれたもの。そんなものひとつで真剣な顔をするのが面白くて、ナランチャは吹き出した。

「また買えばいいじゃん。……今度は違うお店で」

「ふふっ、そうね」

 騙されかけたのは名前なのに、何故だか彼女は楽しげだ。きらきらとした目で道行く人を眺めては足取り軽く進んでいく。いったいどうしてだろう?訊ねると、名前は逆に不思議そうな顔をした。

「あら、あなたは楽しくないの?」

 名前はぐるりと辺りを見渡した。空は蒼く、白い雲が伸びていた。人々の顔には笑顔があって、弾む足は楽しげな音色を奏でていた。そのいずれもを名前は優しい目で見ていた。にっこり笑って、「私は楽しいわ」とナランチャの手を握った。

「だって世界がこんなにも美しく見えるんですもの」

 「あなたがいるからよ」と名前はなんのてらいもなく言った。心底からそう思ってるって顔だった。それはナランチャに喜びを齎し、同じだけのものを彼女に返したいと思わせた。

「……オレがいなくちゃ簡単に騙されちゃうもんね」

 でもなんとなく気恥ずかしくて、そんな憎まれ口を叩いてしまう。
 けれど名前はそれで怒ったりなんかはしなかった。「そうね」と答えて、「それならあなたは私の先生ね」と笑った。

「ナランチャが先生になるんなら、私もいい生徒にならなくちゃ」

 いい生徒になんてならなくていいよ、とは言えなかった。ずっとそのままでいい。それでなんの問題がある?名前が困ったらいつだって助けてあげればいいじゃないか。いつまでもオレを頼ってくれれば……それで。
 でもそれはいい先生の考えとは思えなかった。正しくないことだと思った。だからナランチャは胸中に滲む霧から目を逸らした。「そうだね」なんて答えながら。