冬は終わりに


 ローマ近くの漁村は闇に閉ざされたように静まり返っていた。岸に向けて打ち寄せる波の音がある他は何もない。その船着き場にボートを寄せ、ミスタとナランチャは素早く辺りに視線を走らせた。

「くそ……今夜は宴会でもあったのかッ!あそこにも酔っぱらいが寝てるぞ」

 周囲のことは亀の中からではわからない。けれどミスタの苦り切った顔は名前にも見て取ることができた。

「酔っぱらい?そんなに?」

「うん……進行方向に二人、ベンチにも二人……、まったく、家でやってろって話だよなァ〜……」

 名前に答えたのはナランチャで、その内容に名前は笑った。
 確かに、彼の言う通り。ナランチャも特別酒に強いというわけでもなかったが、彼は己の分というものをよく弁えていた。そんな彼からすれば我を失うほどの酩酊なんてものは遥か対岸。それもこんな時であればなおさら、鬱陶しいとばかりに顔を顰めるのも当然だった。

「……ッ!!」

 ──しかし、不意に。その顔が強ばった。苛立ちに溢れていた表情。それが霧散し、後に残ったのは──焦燥。

「ナランチャ……捜すんだ……!!『本体』だ……捜せ……『本体』を!」

 ミスタは双眼鏡から顔を上げた。代わりに手にしたのは使い慣れた拳銃。それを前方に構え、彼は叫ぶ。

「待ち伏せされているぞ、敵だッ!」

 ──その瞬間だった。

「何だよッ!ミスタそれはッ!いつつけられたんだッ!?」

「よくわからねえ!本体を捜せナランチャ!どこにいるのか敵を捜すんだッ!」

 拳銃を握る右手、その甲から親指にかけて『吹き出ている』のは──なんだろう?泥のようにも胞子のようにも見える。青みがかった灰色。それはジュグジュグと嫌な音を立ててミスタの腕の方まで侵食しようとしていた。

「状況を説明しろッ……ミスタッ!」

「いきなり吹き出しやがった……!!くっつけられた瞬間は見えなかったッ……」

 ブチャラティに答えるミスタ、その頬には汗が伝い、膚は青ざめていた。彼は亀の中からも見えるように右手を掲げた。
 ──酷い状態だった。爛れているというより崩れている。それはさながら腐り落ちゆく果実のようだった。
 ──そしてそれは、名前にも覚えのある傷だった。

「カ……『カビ』みてえなものが……肉がグズグズになるものがッオレの皮膚の下から出てきたように見える!!既にやられてる村人も同じものが吹いて体が崩れているッ!」

「カビ、……まさか、」

 ジョルノの視線に名前は頷きでもって返した。
 彼にはもう話してある。名前が出会った敵のこと。知る限りの情報。そのすべてを彼には打ち明けてあった。
 名前は腕を伸ばした。亀の中から外へ、岸辺へと身を乗り出した。飛び移る先、踏み締めるのは固い地面。塩辛い海辺の空気を吸って、名前は叫んだ。

「走ってミスタッ!ナランチャッ……ここから先は上に進むしかないわッ!!」

 名前は手早くスタンドを発現させた。ミスタの右腕は重要だ。左手でも彼なら十二分に戦えるけれど、この『敵』相手には用心するに越したことはない。
 「進むったって……」治ったばかりの右手を閉じたり開いたり試しながら、ミスタは言う。

「こいつは村中広まってんだッ!しかもまだ敵の姿をオレたちは見ちゃいねぇッ!」

「そうだぜ名前!沖に人はいねえッ!いま上陸すんのはヤバすぎるッ!!」

 ナランチャはレーダーを見つめていた。振り返った先、夜に沈む海は村とは対照的に平穏。そこでくっきりとした国境が引かれてるみたいに、……おいでと手招かれているみたいに。

「……いいえ、ナランチャ」

 これは罠だと名前には察しがついていた。
 それは名前が特別利口だからではない。ただ知っていただけだ。生物にカビを発生させるスタンド使い。腐り落ちる体に恐れおののく人々。──それを見守る男の歪な笑み。名前には何もかも鮮明に思い出せた。

「このカビは今いるところから下へ向かうと発生するわ。だから上へ進むしかないの。……私みたいに散々な思いをしたくなければね」

 名前は苦笑して、二人を見下ろした。
 この話を知っているのはジョルノとトリッシュだけだ。流れからそうなったが、こんなことならもっと早くみんなに打ち明けるべきだった。
 亀を掴んだナランチャは今にもボートに飛び移ろうというところだった。けれど名前が言うのを聞いて、「それって、」と言い淀む。

「……よーするに、お前はコイツを知ってるってことだな?」

 だがその後を引き継いだのはミスタだった。彼は単刀直入に、言葉通りの真っ直ぐさでもって名前を見た。それ以外には何もなかった。深い色の瞳、その深淵には何一つ浮かんじゃいなかった。澄み渡るそれは黒々とした夜空。星ひとつないのに、きれいだと思った。

「……ええ」

 名前はそっと顎を引いた。目の前に立ちはだかるは因縁の相手。青空は未だ不在。頬を切るのは冬と見紛うほどの冷気。足許には広大なる無が広がっていた。
 しかしミスタは──ニッと口角を上げると、銃を構え直した。

「了解だ、名前。オレたちはお前に従う……どうすりゃいい?」

「『車』に乗れ、ミスタ……村の外へ出るんだ」

 答えたのは亀の中のブチャラティだった。いや、亀の中にいると思われていたが、彼は既に半分身を乗り出していた。そしてそのまま降り立つと、稜線の連なりの方へ指を向けた。

「村の外には明かりがある。あれは車だ、まだあそこまでカビは広がってない……」

「車でローマへ?先回りされたら、」

「それより早く目的を果たせばいい」

 名前の懸念をばっさりと切って、ブチャラティは言う。彼の目にもまた一片の曇りさえなく、冴え冴えとした穏やかさがあった。躊躇いといったものは少しも感じられなかった。彼のその表情に、ナランチャも顔を引き締めた。なんだってやれると思った。そう、名前ですら。

「敵はたぶん二人組よ、少なくとも私の時は」

「なるほど、覚悟しておいて損はないな」

 頷いた三人に、名前は簡単な説明だけを伝えた。彼らがどういったスタンド使いか。どんな性格で、性質があるのか。そうしたことを亀の中の仲間にも伝え、──それから駆け出した。