ヴェネツィア√V


喋るモブ(名無し)が出てきます。






 初めて彼女を見たのはコミュニティーセンターでのことだった。
 そこでは地域のクリスマスパーティーが開催されていて、彼女はボランティアとして手伝いに来ているらしかった。

「……もし、」

 きびきびと働く彼女を呼び止めたのは恰幅のいい初老の男だった。彼女はひとりだった。男は脂下がった笑みを浮かべていた。それをスクアーロは冷めきった目で見ていた。男は今日のターゲットだった。
 スクアーロは娘を哀れんだ。
 美しい娘だった。穢れのない眼をしていた。咲きそめの薔薇のようだった。けれどそれ故に摘み取られるのが娘の運命なのだとスクアーロは理解していた。男は権力者で、娘のひとりくらい手籠めにするのはわけのないことだった。
 スクアーロからは二人の会話は聞き取れなかった。だがこの後の展開などわざわざ見なくとも容易に想像がついた。嫌なものを見てしまったとさえ思った。同時に、最期の夢を存分に楽しむがいいさとも思った。
 しかし意外なことに事はそれ以上進まなかった。
 娘は笑いながら男の元を離れ、男は名残惜しそうに娘を見送った。
 どうやったのかは知らないが、一先ずのところ娘は男を煙に巻いたらしかった。

 次にスクアーロが彼女を見かけたのは、年が明けた後の日曜日だった。今度は教会で、習慣を終えたばかりの娘を呼び止めたのは件の男だった。
 その後ろで機を伺っていたスクアーロは、まだ諦めていなかったのかと呆れた。色に溺れる男のなんと醜いことか!ああはなるまいと誓い、スクアーロは中庭へと消えていく影を追った。
 二人はベンチに腰掛けており、男の方が何事かを語っているらしかった。下らない、使い古された睦言か。そう見当をつけていたスクアーロであったが、その予想を裏切り、男の声にはかつての甘さなど存在しなかった。
 男は怯えていた。深い嘆きがそこにはあった。沈んだ目は頼りなくさ迷い、忙しなく指を組んだり離したりしていた。

「……死ぬことが怖いというわけではないのです」

 柱の影に隠れたところで、男の声は輪郭を持った。

「こんな稼業をしているわけですからね、それを気にしちゃやっていけないでしょう」

 男は唇を戦慄かせた。それは色を失い、凍えきっていた。スクアーロには蒼ざめた馬さえ傍らに見ることができた。男の周りには死の気配が漂っていた。

「……では、あなたは何を恐れているの?」

 その時初めてスクアーロは娘の声を聴いた。
 娘の声は一足早い春を纏っていた。涼やかな風によって奏でられる木の枝の歌であり、透き通った日差しが照らす雨の雫であった。子供の歌う讃美歌でもあり、柔らかな草笛の音色でもあった。
 娘は震える手に自身のそれを重ねた。赤子の背を撫でるようにして、男の目を覗き込んだ。

「私、は」

「ええ、」

「私は……」

 うろうろと宙を掻く眼差し。しかし娘は忍耐強くその続きを待った。慈しみ深い微笑みを浮かべたまま、男が語るのをただひたすらに待ち続けた。
 やがて男はがくりと頭を垂れた。「あぁ……」男は罪悪にまみれた手でその顔を覆った。吐き出される息は今際の時のそれに似ていた。

「私は、何より審判が怖い。親愛なる主に扉を閉ざされるのが、今になって怖くてたまらないのです……」

 男は堰を切ったように言葉を連ねた。自分には最早資格がない。それはずっと前から受け入れていたことのはずなのに、今では主に拒絶されるのが恐ろしくてたまらない。罪に穢れ、不実を重ねたこの身が悲しくてたまらない。
 語りながら、男は涙を流していた。血も涙もないと言われていた男が誰に憚ることもなく静かに泣いてた。
 娘は黙したまま男の懺悔を聴いていた。スクアーロには娘がセラフィムにさえ見えた。神の玉座に侍るという六翼の天使はきっとこの娘のような姿をしているのだろうと思った。

「……何も案じることはないわ」

 やがて口を噤んだ男に、娘はそっと囁いた。その後で娘はスクアーロには聞き取れない言葉を続けた。たぶん異国の言語だったのだろう。口ずさんだ娘に、男は顔を歪めた。

「私の行いすらも、と言うのですか。こんな私でもその身を口にする資格があると」

「ええ、きっと」

「……あぁ、主よ──」

 男は感極まったように細く長い息を吐いた。男は天を仰ぎ、目を閉じていた。組んだ指は敬虔な信徒らしく、祈りを捧げる姿は真実のものであった。
 その様子を娘は柔らかな目で見つめていた。スクアーロにはその身を被うものがオフィーリアの白衣の如く映った。染みひとつない白い花だった。清らかな匂いさえも感じ取れた。その花びらに触れたいとさえ思った。
 己が問いかけたとして、果たして娘は同じ答えを与えてくれるのだろうかとも思った。男にしたのと同じように、今度は自分のためだけにその微笑みを向けてくれるだろうか、と。


 ──だから彼女が『親衛隊』に入るのだと紹介された時、スクアーロは言葉を失ったのだった。

「……すみません、こういうの、不慣れなもので」

「いえ、私も緊張していて、」

「あぁ、ええ、そうですよね」

 スクアーロは言葉を交わす二人をぼんやりと眺めた。
 無二の友、ティッツァーノに控え目な微笑を返す娘。彼女の名が名前というのさえ今日初めて知った。スクアーロにできるのは遠目から娘を見つめることだけで、その瞳が己に向けられていることすら決まりが悪かった。
 だから「どこかで会ったことは?」とティッツァーノに訊ねられた彼女が、不思議そうに首を傾げるのは当然のことだった。

「たぶんそれは……私ではないんじゃないかしら」

 名前は曖昧な笑みを浮かべていた。それはスクアーロが見たいと願ったものとは異なっていた。眼差しも表情も、求めているものではなかった。それが無性に腹立たしく、スクアーロは唇を噛んだ。


 何も語らずとも、友はスクアーロの心中を察していた。だから彼が名前に優しくするのはスクアーロを案じているからであり、彼にそれ以上の感情がないのはスクアーロとて承知していた。
 けれどティッツァーノに向けられた柔らかな微笑が、スクアーロを認めた瞬間強張るのや、物言いたげであるのに多くを語ろうとしない彼女に苛立ちは募っていった。
 そうこうする内に彼女はすっかりティッツァーノに心を許し、ティッツァーノもまた彼女を評価するようになっていった。今まで何も言ってこなかった彼が、ある日を境にスクアーロを諌めるようになったのだ。それはこれまでにないことだった。

「そんな態度では彼女が勘違いするのも致し方のないことでしょう?その仏頂面を早くなんとかなさい」

 ティッツァーノは彼女の肩を持つようになった。彼女はどうやらスクアーロの態度に憂いを募らせ、心を痛めているのだと言う。
 「なんとかって……」でもそう言われてもスクアーロにはどうしようもない。「オレにどうしろと言うんだ」
 今さらティッツァーノのように優しくなどできやしないし、そもそも彼女を前にすると言語が奪われてしまうのだ。最早手の施しようがない。

「いいだろ、別に。ここは仲良しクラブじゃねぇんだ。どうせあいつだってすぐに音を上げるさ」

 言いながら、けれどスクアーロは理解していた。彼女がか弱い少女ではないことくらい。何故こんな組織に、と思ったのが過去になるほどに、彼女はよく働いていた。

「……そうですか」

 ティッツァーノは何事か言いたそうにスクアーロを見た。だがそれ以上嗜めることはせず、彼女のことも口にしなかった。
 それでもスクアーロの頭から彼女の影が消えることはなかった。それは常日頃見ている顔ではなく、かつて覗き見た慈悲深い微笑を浮かべた娘の姿をしていた。