ヴェネツィア√W


 名前の前では一人の男が酒精に呑まれていた。
 野性味溢れる眼差しや健康的な膚は見る影もない。熱に潤む瞳、朱に染まる目元。完全に酔いの回った顔で、しかしスクアーロは未だグラスを空にするのを良しとしなかった。

「あの、そろそろ止めにした方がいいんじゃないかしら」

「……うるさい。お前には関係ないだろ」

 ……まるで取りつく島もない。
 いったいどうしたらいいのかしら?どうしたら穏便に収められるのかしら?
 名前は内心頭を抱えていた。そしてその苦悩はやがて事の始まりへと向かっていった。

 そうだ、バールになんか寄ったのがそもそもの間違いだったのだ──と。




 『親衛隊』と聞いた時、名前が最初思い浮かべたのは秘書や運転手といった仕事であった。いくら存在を秘匿されているボスといえど、親衛隊にさえ入ればその存在の一端くらいには触れられると思っていた。
 考えが甘かったと知ったのは入隊してすぐのこと。ボスは親衛隊にすら隙を見せなかった。連絡はどこかの公衆電話からかけられるもので、その声は当然加工されていた。
 その上親衛隊に課された大きな仕事というのは裏切り者の始末であった。それはファミリー内であったり、ファミリーと縁のある政治家や判事であったりした。
 そのどちらにせよ一仕事終えた後に残るのはどうしようもない虚しさであり、もどかしさであったから、ティッツァーノに「バールにでも行きませんか」と誘われても躊躇が初めに立った。
 この日はヴェネツィアを離れ、ローマにまで足を運んでいた。だから、とティッツァーノは言う。「どうせなら、と思うのですが」その言葉の最後の方はスクアーロに向けられていた。
 けれど彼は答えなかった。ピクリと肩を揺らしただけで、後はむっつりと口を引き結んでいるだけだった。それが名前の躊躇の一端を担っているとも知らずに。
 そう、スクアーロはきっとほんのちらりとも思い至りやしなかったろう。
 けれどティッツァーノは違う。彼は聡明で、恐ろしいほどに察しがよかった。彼はとても優しい微笑を──それこそ聖母もかくやといった様相で──名前に向けた。

「今からヴェネツィアに帰ったとして、夜ももう遅いでしょう?それに女性であるあなたを一人にしておくこともできません。ですから……ね?」

 それは甘ったるいとすら言える語調であった。けれど、だというのにどこか有無を言わせぬ響きがあった。
 それに何より、その言葉には説得力があった。この他にも選択肢はあったはずなのに、名前には彼らとバールに行くか行かないかの二択しかないように思われた。
 それでも名前はもう一度スクアーロを見た。それは確認のためであり、もしも彼から不快の一片でも感じ取れたなら名前はすぐさま否の答えをティッツァーノに返していたろう。

「…………」

 けれど名前に向けられていたのはそういった類いの眼差しではなかった。快だとか不快だとか、そのどちらもが名前には伝わってこなかった。
 向けられていたのは──燃えるような眼。焼きつくさんとする目に、名前は息を呑んだ。
 いや、真実呑まれたのは名前自身だ。その瞬間、間違いなく名前は彼に喰らわれていた。スクアーロ、その名の通りに。
 何かを乞うる眼差し。切望に喘ぐ瞳。そうしたものに、気づけば名前は首を縦に振っていた。


 ──しかし、それこそが罠だったのだ。


 名前は深い後悔に襲われながら、何か手立てはないものかと店内を見回した。
 「ちょっと失礼」と言ってティッツァーノが席を立ったのは果たして何分前のことだったか。もう随分経つように思われたが、名前にはその姿を認めることができなかった。
 ──きっと彼さえいればスクアーロも深酒することもなかったろうに。
 名前は責任を感じると同時に、悲しみとも寂しさともつかない感情に胸を痛めていた。
 スクアーロがこんなにも酒を呷ったのは偏に隣にいるのが彼の心許す友でないのが原因であろう。ティッツァーノの代わりにいるのが気に食わない女であったから、彼も居心地の悪さを紛らわすのに酒に走らざるを得なかったのだ。
 そう考えればますます身の置き場がない。かといってこの状態のスクアーロを一人にすることだって無論考えられないこと。八方塞がりだ。
 そう、名前が思わず溜め息を吐いた時だった。

「……おい、」

 這うような声に、名前はパッと顔を上げる。
 射抜くのはさめざめとしたブルー。アドリア海よりもずっと深い色はしかし業火の如き熱を孕んでいた。
 その目をくしゃりと歪め、スクアーロは口を開く。

「お前、そんなにオレが嫌いかよ」

「え?」

 聞き返したのは言葉を拾えなかったからではない。確かに休日前のバールは仕事終わりの人々で溢れていたが、聞き逃すほどに騒がしくはなかった。
 なのにそうしてしまったのは単に名前の思考が追いつかなかったからだ。今まで占拠していたのはどうやってこの無自覚な酔っ払いからグラスを奪うかといったことで、つまり彼の言うことに注意を払ってはいなかった。
 しかしスクアーロは『そう』とは思わなかった。名前の反応を「すっとぼけやがって」と毒づき、「バカにするなよ」と怒り、「それくらい、オレだってわかってる」と吐き捨てて──傷ついたように唇を噛んだ。

 ──傷ついたように?

 そう思ってしまったことに引っ掛かりを覚える。何故そのように感じたのか。しかしその答えに辿り着くことはなく、名前の思考はスクアーロが鼻を鳴らしたことで霧散した。

「わかってる、わかってるさ、オレだって……。けどしょうがないだろ、わからないんだ、どうすればいい?オレはどうすればよかったんだよ」

 いつだって不服そうな顔をしていた彼が──そのスクアーロが、今は啜り泣くようにして声を詰まらせていた。「クソッ」と舌を打ちながら、しかしその手は力なくテーブルの上に投げ出されている。車に轢かれたみたいに。或いは?……何にせよ、それは見る者に痛みを齎すもので、名前にとっても例外ではなかった。
 名前は『どうすればいいのだろう』と思った。先刻のと同じ悩みで、なのにその時よりずっと焦燥感を帯びたもの。焦っている。どうにかしなくてはと思っている。どうにかしたいと、彼を苛む苦しみを取り除きたいと思っている。思っているのに、名前の手はまごつくばかり。結局多くの人にそうするように躊躇いがちに背中に触れ、そして拒絶がないことにほっとして──当然触れた瞬間は炎に指を突き刺したみたいな反応を返されたが──労りを籠めて自分のよりずっと大きなその背を撫でた。

「嫌いなヤツにでもこうするのか」

 お優しいこと、と皮肉っぽく釣り上がる口角。その表情に今さらながら胸が痛む。そんな顔をさせてしまっている、その事実が名前を苛む。違うわ、そんなんじゃない。そう言ったはずなのに、言葉は明瞭としない。
 嫌いなんかじゃない、そうじゃない、そうじゃなくて──

「あなたの方が、嫌いなんでしょう?」

 言ったのは名前だ。名前の方だ。常々抱いていたものを、半ばぶつけるようにして吐き出していた。それはらしからぬものだった。傷ついた──その理由は定かではないが──様子の人間にかける台詞ではない。そう理解しているのに、名前の口は言うことを聞かないし、言ってしまった言葉は取り下げられない。

 ──たぶんきっと、私も酔いが回っているんだわ。

 名前は視界の隅にヴィン・サントの注がれたグラスを捉えながらそう思う。ビスコッティを浸していた記憶も今は彼方。けれど酒精が回ったのでなければ行動の説明がつかない。そう、すべてはアルコールのせい。全部全部……、だから、

「嫌いなんだわ、私のこと。いいえ、悪いとは思わないの。そんな大それた人間じゃないもの、私。ダメなのよ、わかる?ねぇ、わかってるのよ、それくらい、私だって、」

 もう何を言っているのかわからない。そんな要領を得ない話し方、『レディ』らしくないわ。そう冷静に批判する自分は最早頭の片隅に追いやられて消える寸前。残っているのは酩酊した思考。視界がぐらぐら揺れるのも、目の前の男が目を見開くのだって、ぜんぶ、幻だ。

「おい、泣くなよ。なぁ、なんで泣くんだ、泣きたいのはオレの方なんだって。ふざけるなよ、くそ、」

「泣いてないわ、全然、どうして?泣く必要なんてないもの。あなただってそうよ、いいわ、私、もうあなたの前に顔出さないから。それでいいでしょう?泣かないでよ、もう」

「なんでだよ、なんでそうなるんだ」

 意味がわからない、とスクアーロは頭を掻きむしる。橙色がぼうとした灯りに照らされてちりちりと揺れる。沈んでいく陽は別れの象徴だ。橙は秋の色。やがて訪れる冬の色。そんな考えにまた名前の目は熱くなる。鼻の奥がツンと痛んで、手で顔を覆う。そうやることで沸き上がる正体のわからない何かを抑えようとした。

「おい、逃げるなよ」

 なのにそれを阻むのだ、この男は!
 そんなちっぽけな願いすら封じられて、名前はスクアーロを睨み据えた。捕らえられた腕の痛みなんかどうだっていい。そんなものよりずっと痛むのは心の方だ。ずっとずっと、少しずつ切り開かれてきた心臓はもう手遅れ。すっかり朱に濡れそぼり、今なお鮮やかな血を流し続けている。

 ──もう、堪えられない。

 名前は何事かを叫ぼうとした。それは助けを求めるものであり、振りかぶられたナイフでもあった。恐らくはきっと、そうだったのだろう。無意識下のうちに名前は自分を拘束する腕を切り落とさんとしていた。
 けれど、それは成し遂げられなかった。

「なんで、あなたがそんな顔するの……」

 ダメだった。その顔を見た瞬間──彼の赤くなった目だとか苦しげにひそめられた眉だとか歪んだ唇とかを認めただけで──今の今まで言いかけていた言葉を失ってしまった。

「泣かないで、って言ったじゃない」

「泣いてない」

「うそ、嘘よ、赤いわ。それに頬が……ほら」

 濡れている、と証明するために名前は空いている方の手を伸ばした。指の腹で流れる雫を掬い取り、しかしそうしたところでその手もまた囚われてしまった。

「なんで、」

 けれど今度は反抗しようとしなかった。頼りなげに揺れる瞳とぶつかり、すべての力が抜けていくのがわかった。

「なんで、こんなに優しくするんだ」

 彼は喘ぐように言った。その目は名前を責め立てるようで、しかし同時に何かを切望するものでもあった。彼には望みがあって、求めている答えがあるのだと察しがついた。
 それでもそれ以上のことはわからなかった。何かを求められている。そう諒解しても、では具体的には何かとなると名前にはとんと見当もつかなかった。
 だから、これが正解かどうかはわからない。

「そんなの、あなたに好きになってもらいたいからに決まってるじゃない」

 好きになってもらいたいから優しくするんだし、好きになってもらえないからこんなにも涙が溢れて仕方がないのだ。
 それは余りに単純な答えで、言ってから名前も『そうだったんだ』と得心がいった。何もかもがそのためで、ただ名前は彼と本当の仲間のようになりたかったのだ。偽りしかないというのに、その偽りすらも取り払ってしまえたらと願うほど、名前は彼を尊敬していた。その実直なところだとか勤勉なところだとか、挙げたらきりがないほどに好ましいと思っていた。

 ──例え、嫌われていたのだとしても。

 そう言うと、スクアーロは大きく目を見開いた。そうするとただの青年のようで、そんな顔すらも名前は初めて見るのだと驚いた。
 今日は初めて知ることばかりだ。彼が酒に弱いのも、酔うと口数が多くなるのも、

「……オレだって、自由にあんたの名前を呼びたかった。普通に話して、それで……」

 「名前、」と呼ぶ声が蕩けそうなほどに甘いのも。
 彼に関するあらゆることが名前には眩しくて──

「あんたに、笑いかけてほしかったんだ」

 目を細めた彼が春の日溜まりのように口許を綻ばせるものだから、自然名前も相好を崩した。涙の痕を残しながら──けれどそれすら彩りのひとつにして、名前は彼に応えていた。