ヴェネツィア√X
スクアーロが電話の前に立って、いったいどれだけの時間が過ぎたろう。
「プロント?邪魔して悪い、偶然、本当に偶然、サッカーのチケットが余ってて……いや、余ってるっていうのは感じが悪いか?用意して……じゃ押しつけがましいな、大体まだ行くと決まったわけじゃないし……いや、あいつは断らない、断らない……よな?」
ぶつぶつと呟く声は『らしくない』。いつだって直情的、良くも悪くもそれがスクアーロという男で、電話一本するのにこれほど長考する姿などティッツァーノは今の今まで見たことがなかった。
──本当に、名前と出会ってからは初めて知ることばかりだ。
痛感すると同時に、うんうん唸る友の様子に笑いを噛み殺す。何もそんな悩まなくったって。だがティッツァーノが言ったところでスクアーロの懸念が晴れるわけもなし。
──これはもう実力行使しかないな。
スクアーロが電話前を占拠して三十分は経ったろうか。それまで余計な口出しはせず見守っていたティッツァーノだが、しかしそれにしたって限度がある。大体それはスクアーロ専用のではなく、ティッツァーノだって使う電話だ。それは二人の共同空間にあって、つまるところいい加減退いてもらわないと邪魔でしょうがない。
こんなことになるならルームシェアなんかにするんじゃなかった。それなら名前の家に置かせてもらった方がずっと快適な暮らしができるだろう。『部屋を余らせている』という名前の話を思い出しながら、ティッツァーノは空想する。
彼女はスクアーロと違って家事も得意だし、庭仕事もなかなか面白いところがある。……まぁそうなったとしたらスクアーロの反応が愉快なことになるだろうが。
そんなことを思いながら、ティッツァーノはスクアーロの横から手を伸ばした。間の抜けた声を出すスクアーロを無視して、受話器を持ち上げる。
淀みなく数字を選択する指先は手慣れたもの。その番号にかけるのが初めてではない証をスクアーロに見せつけて、ティッツァーノは口角を持ち上げた。
「あんまりグズグズしてるとこうして横からかっさらわれる、これが自然の摂理ですよ」
「な……ッ!」
発破をかけるのはこれくらいでいいだろうか。
そんな思考などおくびにも出さず、ティッツァーノは受話器をスクアーロに押しつけた。
「うわっ」
泡を食った様子で、それすら取り落としそうになる彼に内心呆れる。しかし受話器の向こうから『プロント?』と柔らかな声が聞こえてきたのは確認済み。そこまでお膳立てしたからこそ電話を譲ってやったのだ。これでもう後には退けない。
『あの、どちら様?』
「ぁ、……っ、」
スクアーロは慌てた風に視線をさ迷わせた。その頭からは先刻まで考えていた原稿なんて残っちゃいないだろう。用意していた言葉なんて全部吹き飛んだ。
脳内は真っ白、そんな具合で狼狽える彼ではあったけれど、しかしすぐに顔を引き締める。それはティッツァーノもよく知る顔つきで、覚悟を決めた証拠だった。
「悪い、オレだ、スクアーロ、」
『あぁ!』
漏れ出るのは華やいだ声。スクアーロ、その名を聞いて弾む声は本当にわかりやすい。
以前なら考えられなかったことだ、とティッツァーノは静かに笑む。以前なら──ほんの少し前、彼女を夜のバールでスクアーロと二人きりにさせる前なら──きっと彼女の声は緊張に強張っていた。荒療治かと思ったが、思っていた以上の効果があった。それはティッツァーノにとっても歓迎すべきことで、電話越しだというのに相好を崩すスクアーロを微笑ましく思う。
それはローマで仕事をした日のこと。ふと思い立ち、ティッツァーノは名前をバールに誘った。断れないよう言葉を連ねて、しかしそうしたのは全て素直になれないスクアーロのことを思ったが故であった。
無事バールに入り、その後はただそっと席を立つだけ。そうして二人きりの時間を無理矢理にでも作れば、否が応でも話をしなければならないし、言葉にさえしてしまえば二人の関係は上手くいくだろうという確信がティッツァーノにはあった。
そして目論み通りに多くのことを語り合い、ティッツァーノは酔い潰れた二人を連れてホテルに引き上げた。
……その後のことは見ての通り。
『どうしたの?あなたから電話貰うなんて初めて』
「すまない、突然……」
『ううん、どうして?謝ることないわ、私は嬉しいんだもの』
「そ、うか……、それなら……いい……」
──なんというか、焦れったい。
関係が良好になったのは望み通り。しかし何もこんな少年のような顔をさせたかったわけではない。スクアーロの横顔はすっかり初恋に惑う子供の様相で、見ているこっちが恥ずかしくなる。
そう思ったから、ティッツァーノはスクアーロの背中を小突いた。──早く本題に入れ。そう促す意味を籠めて。
そしてそれはスクアーロに正確に伝わった。
「……!そ、それで、だが、」
『うん、』
「あ、明日……時間があればでいいんだ!その、サッカーを観に行かないか?」
『サッカー?』
「あ、あぁ……」
小突かれるまでティッツァーノの存在を忘れていたらしい。急かすとビクリと肩を跳ねさせ、スクアーロはようやっと目的を口にした。
怪訝そうな名前に一瞬怯んで、目を閉じて。しかしすぐに開き、唇を噛み締めて──腹を括る。
「クルヴァ……ええっと、ゴール裏の席なんだが、チケットがあって……よかったら、名前に、と思って、」
『でも私、サッカーなんて詳しくないわ。あなたを満足させられるか……』
「そんなことはどうでもいいんだ!」
思わず叫んでから、スクアーロはハッと我に返る。
「悪い、大声出したりなんかして」……大きな背を丸めて頭を下げるなんて、本当に『らしくない』。まったく、彼を知る人が見たら引っくり返るだろうな。傍観者のティッツァーノは呑気なもので、我が子を見守る心地であった。初めてのお使いだとか、そういった気分だ。
「ただ……知ってほしくて。あ、明日はオレの応援するチームがホームで戦うんだ。だからお前にも……その、楽しんでもらえるんじゃないかって」
『スクアーロ……』
名前は意味深げに口を噤んだ。何やら思案しているのは電話越しであっても伝わってくる。ただしそれはほんの僅かな時間で、けれど待つしかないスクアーロにとっては永遠にも等しかったろう。
『いいわ、あなたがそう言ってくれるなら……。あなたの好きなもの、私にも教えてほしい』
「名前……ッ!」
しかしだからこそ求めるものが手に入ったときの感動もひとしお。感極まったスクアーロは今にも泣き出しそうなくらいだ。
ティッツァーノは無意識のうちに彼の肩を叩いていた。『よかったな』『おめでとう』その気持ちはスクアーロにも伝わり、ちらりと肩越しに向けられた目には感謝の心が溢れていた。
それからスクアーロは約束のために必要なことを取り決め、電話を切った。受話器を元通りに置き直し、そうした後もしばらくは感慨に耽るようにぼうっと電話を見下ろしていた。完全に腑抜けだった。
「よくやりましたね、スクアーロ」
「ティッツ……」
が、ティッツァーノは揶揄うことをしなかった。今はただ、純粋に友を祝福したい。たったの一歩でも前進したことは確かなのだから。
「ありがとな。それと……明日もよろしく頼む」
「は?」
だから、スクアーロが続けた言葉に目を見開いた。
ごく自然に流れ出た台詞はそれが余りに然り気無いものであったから、一瞬理解が及ばなかった。……彼は何を言っているのだろう?いや、今なんと言ったのだ?
しかしスクアーロは逆に不思議そうな顔をした。
「明日、ティッツも行くだろ?いつも付き合ってくれたじゃないか」
「いやそれは……そうですが……」
やはり聞き間違いじゃないのだ。ついでに言うなら幻聴でもなかった。スクアーロは名前を誘ったその口でティッツァーノもまた同行してくれるのだと確信しきっていた。それはもう、一片の曇りもなく。
「せっかく彼女を誘ったんだ、二人きりはいかがです?」
「何言ってるんだよ。オレとお前と名前、三人の方がいいに決まってる」
……言い切るスクアーロに目眩がした。
そう、この一言だけで十分だった。十分、ティッツァーノには効いていた。
だというのに、スクアーロは晴れやかな顔で言葉を続ける。
「それに、名前もその方が嬉しいだろ?」
彼は心の底からそう思っているのだ。名前がいて、ティッツァーノがいる。それこそが自然で、必要なことなのだと彼の目が何より如実に語っていた。
「わかった、わかりましたよ……」
そしてティッツァーノにはその目に抗うという選択肢は初めからなかったのだった。