ヴェネツィア√Y
ローマで朝を迎えたその日、目覚めたスクアーロの中にあったのは溢れるほどの充足感であった。酒精に焼かれた頭は痛むし、思考はさっぱり晴れ渡らない。だというのに、気分は全くの正反対。
それはいったいどうしてか。
考え、思い至り──
「…………ッ」
スクアーロは再び枕に突っ伏した。
気恥ずかしい。むず痒い。心臓を割り開いてしまいたいような気さえしたし、無性に何事か叫び出したくもあった。けれど同時にあるのは奇妙な喜びであり、途方もない幸福が胸の内には存在していた。
「……なに百面相してるんですか、スクアーロ」
聞き慣れた声が響いた。スクアーロには見覚えのない部屋の中──恐らくはホテルの一室だろう──視線を巡らし、「ティッツ!!」呆れた顔で腕を組んでいる友人の姿を認め、慌てて身を起こした。
とはいえスクアーロは未だベッドの上。目覚めたばかりであったというのに、ティッツァーノときたらすっかり身支度を整えきっている。その長い髪に乱れは一切なく、スクアーロよりもずっと早起きだったのは明らかであった。
「なんだよ、起こしてくれりゃよかったのに」
「……そうは言いますけどね、スクアーロ」
ティッツァーノは意味深長に言いながら、客室の隅にある椅子を引いた。その手にはティーカップがあって、彼好みの濃さのカフェ・リストレットが注がれていることだろう。
それを一口、勿体つけて飲むと、ティッツァーノは片方の口角を持ち上げた。悪戯っぽく、或いは意地悪く。
「君、随分楽しい夢を見てたようじゃないですか」
「な……ッ!」
言われ、スクアーロは己の顔に熱が集まるのを感じた。駆け上がる感覚さえありありとわかった。だというのに、それは抑えようがなかった。スクアーロの手の届かないところにあって、慌てて顔を背けたところで後の祭り。
そんなスクアーロを見て、ティッツァーノはくつくつと肩を震わしていた。
「本当にわかりやすい……」
「……悪かったな、単純で」
「いえ、素直なのは良いことですよ」
どうだかな、少なくとも今お前に揶揄われているのは確かなことじゃないか……そう言おうとして、しかしそれすらも阻まれる。
「それはきっと名前にとってもね」
そう、ティッツァーノが付け足したことによって。
ティッツァーノは微笑ましげに目を細め、スクアーロを見つめていた。その瞳は大いなる謎を孕むもので、この世の真理だとかを見通しているかのような輝きだった。そしてその眼差しに心底弱いのがスクアーロという男であった。
「そう、か……」
そんなだったからスクアーロは返す言葉を見失い、口ごもった。
「そうか、名前も……」
……名前。
その名を舌の上で反復し、ただそれだけで心臓は音を立てた。特別な響きだった。神聖な──そう、聖母の名のように──スクアーロには思われた。名前、名前、名前、……あぁ、何度だって口にしたい!
その度に縁取る輝きは鮮やかさを増し、スクアーロは緩む頬を抑えるので必死だった。
「ゆ、夢じゃないよな……?」
「まさか!それならたまったもんじゃない。私はもう二度とこんなお手伝いはごめんですからね」
「悪かったって、」
ティッツァーノは顔を顰めていた。しかしその目の奥にちらつくのは相も変わらず柔らかな光。
「ありがとな」
「……いえ、」
愛情に溢れた眼差しに、スクアーロは心から感謝した。しかしティッツァーノはそれすらもさらりと躱す。なんてことはない、そんな顔で。ついと目を逸らし、ティーカップを傾ける。そんな具合であったからこそ余計にスクアーロは痛感した。
失いがたい友だ、……そう、親友と表すだけでは足りないくらいに。
「さぁ、無駄話はそれくらいにして。早く起きなさい、名前だってもう起きてますよ」
「あ、あぁ、そうだな……」
促され、新しいシャツに袖を通す。どうやらそれもティッツァーノが用意してくれたらしい。
──本当に、頭が上がらない。
何から何まで世話になってしまった。これは大きな借りだ。いや、ティッツァーノは気にしないだろうが、それでも何か返さなければ気が済まない。名前に関してのことで言うなら昨晩の件だけでなく、これまでずっと迷惑をかけてしまった。
そう、名前に関しては……
「……あ、」
「どうしました?」
内心でティッツァーノに拝み倒していたスクアーロだが、ふと思い至り、手を止める。それを目敏く認めたティッツァーノに、スクアーロはそろりと口を開いた。
「さっき、……名前だって、って言ったよな?」
「え?ええ、そうですが、それが?」
「いや、あー……、もう名前に会ったのか?」
「まぁ、」
それがどうしたと言わんばかりの語調。極めつけは「そりゃあもうすぐ昼になる頃合いですからね」という台詞。
「一時間ほど前か……、様子を見に行きました。勿論その時点で彼女はいつでも出立できる状態でしたよ」
ティッツァーノが気にしているのは時計の方で、──それに関しても申し訳なく思うが──しかしスクアーロとしてもここは譲れない。
「その時……どんな様子だった?つまりその……アルコールには色々な効果があるだろう?」
『それ』をはっきりと声にするのはなんだか気恥ずかしく、言葉を濁す。と、それだけでティッツァーノは言わんとすることを諒解してくれた。
あぁ、と呼吸を一つ置き、ティッツァーノは「元気そうでしたよ」と笑う。その微笑みは慈悲深く、スクアーロには名前のそれを想起させた。
「その点に関しては君より余程才能があるんじゃないですか?体調も悪くないようですし、記憶もはっきりしていました。頻りに謝ってくれましたからね」
「わ、悪かったって言ってるだろ!?」
「誠意が足りないって言ってるんですよ」
冷たく言うティッツァーノは新たな楽しみを見つけてしまったらしい。揶揄うのが楽しくてたまらない。そういった様子で立ち上がり、彼はスクアーロの肩を叩いた。
「それで?尋問は終わりですか?」
今度こそ本当に急がなくては。
部屋を出ようという仕草はそう言いたげで、スクアーロは慌てた。
「…………」
だがしかし、懸念はまだあった。
エレベーターが下がっていくのを待ちながら、スクアーロの中には幾つもの未来が気泡のように浮かんでは消えていた。
例えば、そう。昨晩のことは泡沫の夢、素面になったらまた巻き戻ってしまってやしないかとか、そこまではいかなくともまたよそよそしい態度を取られるんじゃないのか、とか。
ともかく悪い想像ばかりが脳裏を過り、ラウンジに着くまでが異様に長く感じられた。これが拷問だったら一思いに殺してくれと懇願していたところだろう。
「……スクアーロ!」
けれど、それがただの空想であるのだとすぐに実感することとなる。
ゼロ階、バーラウンジにて。二人の姿を見つけ、弾かれたように立ち上がる娘。その顏が花開いたようであるのを見て、夢想は真実泡となり、跡形もなく弾けて消えた。その瞬間、スクアーロにわかるのは名前がそこにいるという現実だけで、その他の一切は思考の片隅にさえ存在しなかった。
「あぁよかった、具合が悪いんじゃないかって思ってたのよ、まだ眠ってるってティッツァーノが言うから……。でもそんなに酷くはないみたいね。本当、よかったわ」
駆け寄る足音すら甘美。心地よい声は小鳥の囀りであり、気遣わしげな瞳は紫水晶の輝き。九柱のムーサ。カリオペー、エラトー、ウーラニアー……そのいずれもが彼女であるのだと思う。
同時に思い浮かべるのはボッティチェッリの『プリマヴェーラ』。キューピッドに射抜かれた貞節の女神。恥じらいを捨てよと語るルネサンス期の絵画。『春は恋の季節である』と解説したのはさて、誰だったろう……
「……スクアーロ、」
「……っ、」
思索から引き揚げてくれたのはティッツァーノだった。彼に肘で小突かれ、ようよう名前の目が頼りなげに揺れていることに気づいた。
──あぁ!さっきまではあんなに生き生きとしていたというのに!
「わ、悪い、少し……そう、頭が痛むもんだから」
「まぁ、それはよくないわ!ね、もう少し休んでいきましょうか?」
「いや、そこまでじゃないんだ、本当に、」
この地を離れるのは夢から覚めるようで名残惜しくはある。だから名前の提案は甘い響きを持っていた。
が、しかしスクアーロが頷くことはなかった。一つはそこまで付き合わせるのは申し訳ないという健気な心であり、もう一つは単純に友人の目が気になったからであった。
だからスクアーロは「気にしないでくれ」と念を押した。だがそこですっかり忘れてくれないのが名前という女で、彼女は「わかったわ」と一応は納得の形を示したというのに、それでもなおスクアーロの容態を気にする素振りを見せた。
「無理はしないでね、いつでも言ってくれていいんだから」
「あぁ……」
……彼女はスクアーロを年端のいかない子供とでも思っているのだろうか。
ふと過った考えに、スクアーロは憎まれ口を叩こうとした。まさか!自分の力量くらい見極められるさ……そう言いかけて、しかし言葉は思考の中で潰えた。それよりもずっと今に相応しい台詞があるのではないだろうか?熟れた果実の眼差しにそう思わざるを得なかった。
──だから、
「……お前こそ平気なのか?」
「え?」
「体、……昨日、しこたま飲んだだろ?」
名前、と。先刻はあれほど呼びたいと思っていた名前が今はこんなにも呼吸を虐げる。その一語、一秒にも満たないであろう一瞬。たったそれだけのことなのに大いなる勇気を必要とした。
──けれど、言葉にしてよかったとたちまちの内に思い知る。
「……ええ!」
その笑顔はかつて見たいと思ったのもよりもずっと気安く、砕けたものだった。中世というよりバロックのそれ。豊かな感情は額縁の中に収まりきらない。
溢れ出る歓喜をまざまざと浴びせられ、けれどスクアーロが感じるのは落胆ではなかった。これ以上ないというほどの充足感を上回る喜びが波のように打ち寄せていくのを感じていた。