ヴェネツィア√Z


 夢現にベルが鳴るのを聞いた。

「……ええ、……はい、わかりました…………」

 ……どうやらそれは現実のものだったらしい。廊下から漏れ出る声に促され、名前は重たい瞼を持ち上げた。
 瞬きひとつ、ふたつ。それから欠伸を逃がし、身を起こした名前が見たのは己に寄りかかったままの寝顔。肩口に埋もれた頬。不安定な体勢だというのに安心しきった顔はあまりに無邪気で名前は頬を緩めた。
 まさかこれほどまでに彼──スクアーロと親しくなるなんて思いもしなかった。こんな風に休日の朝を一緒に迎えるなんてこと、かつての名前が知ったら引っくり返るだろう。まさかそんな『あり得ないわ』って。だって彼は私のことが嫌いなんだもの……そう考えていたことも今ではもう懐かしい。
 名前は体を伸ばそうかと微かに身動いだ。ソファで眠っていたせいで、体は随分と固まってしまっていた。おまけに居間のテーブルは映画鑑賞の名残でカップやお皿が散乱している始末。
 そう、昨日は夜遅くまでティッツァーノの映画鑑賞に付き合わされていたのだ──。彼が持ってきたのはナポリが舞台の古い映画で、それはそれは素晴らしい出来だったのだけれど、その後でカードゲームを始めてしまったのが不味かった。お酒が入っていたせいもあり、いつの間にやら眠ってしまったらしい。
 お陰で一晩ソファの世話になってしまった。なんとも『レディ』らしくない。せめてもの救いはスクアーロには寝顔を見られずに済んだということくらいだろう。

「ん、んん……」

 だから名前としては早急に身支度を整えたかった。だが支えを失ったスクアーロがむずがるような声を洩らしたせいで、名前の動きは止められた。
 見下ろした先、ひそめられた眉。むにゃむにゃと動く口。それに何より……温もりを求めてか、ますます身を寄せようとする仕草に──胸を打たれた。

「うっ……」

 ──かわいい。
 そう言って、抱き締めたかった。そんな衝動に駆られた……けれど、寸でのところで名前は踏み留まった。
 可愛いは禁句だ。この年頃の男の人には言ってはいけない単語。特にスクアーロのような性格の人が聞いたら絶対に拗ねてしまう。それがわかっていたから、名前は言葉を呑み込んだ。

「……起きて、スクアーロ」

 そして名前は迷った末に彼の肩に手をかけた。
 起こすべきか安眠を守るべきか。どちらが正しいかはわからないが、ティッツァーノが起きていて、名前も彼に倣ったなら、スクアーロだけこのままというわけにはいくまい。まず間違いなく文句を言われる。『オレばっかりを除け者にして』と口を尖らせるのが容易に想像できたから、名前は前者を選んだ。
 しかしスクアーロの眠りは強固なものだった。彼は頑是なく首を振り、ますます腕の力を強めた。すっかり抱きすくめられ、名前は身動きひとつとれない。その間も頬を軽く叩いてみたり、肩を揺らしてみたりしたのだけれど……まったくの無力。

「ね、起きて、せめて眠るならベッドを使うべきよ。こんなところじゃあ全然休めないわ、ね?」

「んんん……いやだ……」

「いやだ、って、」

「うるさい……まだここにいる…………」

 ──さて、どうしよう?

 名前は困り果てた。無理矢理引き剥がすのは気が引けるし、それではもう手立てはない。肩に寄せられていた顔がずるりと下がり落ち、それがやがて胸元に落ち着こうと、顰めっ面がほどけ、穏やかな寝息が漏れ聞こえてこようとも、名前にはどうすることもできなかった。

 ──となれば救いはひとつ。

「……なに遊んでるんです?」

「ティッツァーノ、」

 いつの間にやら通話を終えていたらしい。名前はぐるりと首を捻って声の主へと目を向けた。
 ティッツァーノ。性別を感じさせない美貌を持つ彼は、呆れ顔ひとつとってみても息を飲むほどに美しい。逆にその人間らしい表情が、整いすぎた目鼻立ちに鮮やかな息吹を吹き込んでいるくらいだ。何度見ても目を奪われてしまう。とくにこんな爽やかな朝なんかには。

「こら、スクアーロ。いつまでも甘えてるんじゃあない」

「……っ、」

 ティッツァーノのそれは子供を叱るような口振りだった。彼は駄々をこねる子供を相手にするみたいに、名前からスクアーロを引き剥がした。それからこつりと拳骨をひとつ。

「ぁ、ティッツ……?」

 軽く、ではあったが、その衝撃はスクアーロを現実に引き戻すのに十分な力があったらしい。
 スクアーロは目をぱちぱちと瞬かせ、不思議そうな顔でティッツァーノを見上げた。ティッツァーノを、それから名前を。見て、──それでもなお彼はわけがわからないといった表情で首を傾げた。

「無自覚、ですか……」

「ふふふ、可愛いわよね」

 やれやれと溜め息。額を押さえたのはティッツァーノで、名前は抑えることなく笑みを溢した。
 どうやらスクアーロは先刻までの自分の行いをすっかり忘れ去ってしまったようだ。それは即ち彼にとって夢と同じということで──。無意識のうちに、であったからこそ、名前は嬉しいと思った。それほどに気を許されているのだと実感できて、嬉しい。

 ──そんな資格、ありはしないのに。

「なんだよティッツ、まだ早いじゃないか」

 思考を停止させたのはスクアーロの非難の声だった。
 彼は大きな欠伸をし、窓の向こうが白々としているのに目を止めた。街はまだ穏やかなもので、小鳥が鳴くのさえ聞こえるほどだ。急いで起きることもないだろう──スクアーロはそう言外に込めてティッツァーノを見やった。
 彼は電話が鳴ったのすら気づいていないのだ。理解し、名前はスクアーロにその旨を囁いた。

「電話?こんな朝っぱらから?」

「うん、だからティッツァーノが出てくれたの、ね?」

「ええ、まぁ」

 二人が目を向けると、ティッツァーノは歯切れ悪く答えた。なんとも珍しい。存外にすっきりとした性格の彼にしては『らしくない』反応だ。

 ──そういえば、電話の主は誰だったのだろう?

 名前が住むのは組織から与えられた一軒屋。こじんまりとした、けれど独り身には些か広い家に引かれた電話はひとつ。とはいえ殆ど意味を成していない。番号を教えたのは仲間である二人くらいで、私的な付き合いを自宅にまで持ち込む気は一切なかった。
 しかしそのうちの二人は今ここにいる。それ以外の些末な電話であるなら──勧誘だとかそういう類いのものなら──ティッツァーノが気にかけることはないだろう。

 ──となれば、答えはひとつしかない。

「……残念ですが仕事です。二人とも急いで支度をしてください」

「なんだよ、急な話だな」

 ティッツァーノは手を叩いた。それに促され、スクアーロは立ち上がる。
 けれど名前は動けない。

 ──嫌な、予感がした。

 なんだろう。なにか、そう、自分の預かり知らぬところでなにかが動き始めた。そんな予感がした。

「名前?」

 「どうした?」とスクアーロが訊ねてくる。「具合でも悪いのか?」覗き込む目が、こんなにも温かい。案じる眼差し。純粋で、無垢で、穢れのない──尊い光。いつからかその光を喪いがたいと思うようになった。いつからか──どうしてだろう?こんなにも不安が募る。急な命令。親衛隊に直接の命令。誰も知らないはずの電話。知っているとしたらそれはきっと──

「……命令の内容は?」

 名前は固い声をティッツァーノに向けた。冷え冷えとした声だった。スクアーロが驚いたように名前を見て、そしてティッツァーノを見た。ティッツァーノはそれを静かに受け止めた。こうなるのがわかっていた、そんな顔だった。彼は名前の動揺すらも諒解していた。すべてわかった上で、ティッツァーノはゆっくりと口を開いた。

「『裏切り者』の始末です。ブローノ・ブチャラティ、それからジョルノ・ジョバァーナ……生死は問わないと、ボス直々の命令です」

 名前はその名前を知っていた。ブローノ・ブチャラティ。ポルポの部下。そして彼亡き後幹部の座を引き継いだ青年。──ボスの娘、トリッシュ護衛の任に就いているはずの人。

「あぁ……」

 名前は深い息を吐いた。
 どうして、なぜ。頭を駆け巡るのはそんな言葉ばかりだった。どうしてブチャラティはボスを裏切ったのか。ボスの娘は無事なのか。いったい彼らに何があったというのか。

 ──何もわからないままに殺さなければならないのか。

 名前は己を呪った。浅はかな自分を。元よりボスを裏切る予定であった自分が、こんなにも『彼ら』と深く関わってしまったことを。
 『任務』を考えれば最善はひとつだった。『彼ら』を裏切り、スタンド使いであろうブチャラティたちと合流する。そしてボスへの反逆の機会を窺う。きっとブチャラティたちなら名前より多くの情報を得ているだろう。反対に、名前の方が知っていることもあるかもしれない。協力することはボスを倒す上で必要不可欠だった。

 そう理解しているのに、名前は動けなかった。今ならスクアーロを仕留め、それからティッツァーノを始末することだってできるだろう。そう、今ならまだ。
 なのに名前は動けなかった。それが答えだった。偽ることのできない真実だった。