フーゴ√【悲恋end】
ボートに乗らなかったフーゴとボートに乗った主人公。
死ネタです。恥じパ要素なし。
彼女が死んだ。春の中頃のことだった。花の盛りに彼女──名前は死んでいった。
埋葬の時間は既に決まっていた。それまでぼくは手持ちぶさたにネクタイを直したりスーツの裾を伸ばしたりしていた。それから鏡の中の自分をどこか他人事のように眺めた。全身黒衣の男。血の気の失せた顔は青白く、唇は潤いをなくしかさついていた。酷い顔だった。とてもぼくのものとは思えなかった。
とはいえ喪服を着るのは初めてのことじゃない。でもなんだかぼくのことじゃないみたいだった。ぼくではないどこか、他人の不幸。啜り泣く人がいるのが不思議なくらいだった。
通夜には多くの人が集まった。中にはぼくの知らない顔もあった。でもたぶんみんなこの街の人なんだろう。彼らは名前たちの死をそれはもう大仰に悲しんでくれていた。それをぼくはおかしな話だなと横目に眺めていた。
だってそうじゃないか。彼らは何も知らない。知ろうともしない。名前たちがどんな選択をして、どんな死を迎えたのか。その結果として何が遺されたのか。想像すらしていないようだった。こんなところ──生前の名前たちにとって馴染みのないパッショーネの屋敷だ──なんかで葬儀をすること自体、疑問を抱いちゃいなかった。
……名前たちの本当の家はこんなところじゃないのに。
でもそう思っているのはぼくだけみたいだった。ジョルノもミスタもなんてことない顔をしていた。
ジョルノの元には何人もの人間がお悔やみを言うために集まった。その誰も、これまでボスの名前だって知らなかったくせに。なのに今はみんなしてジョルノをパッショーネのボスとて敬った。
中には疑念を抱く者もあったろう。でもみんな神妙な面持ちで彼をボスと呼んだ。ドン・パッショーネ。……なんて、とんだお笑い草だ。バカげてる。でもジョルノはそんな呼び掛けにも礼儀正しい微笑でもって応えていた。ぼくは以前彼に『参謀になったつもりか』と言ったが、今のジョルノを見たらどんな名俳優だって裸足で逃げ出すだろう。そんなことをぼんやりと思った。
司祭が祈りを終えると棺は墓地へ向かって運び出された。後に従うのは付き添い役の者たち。まずは葬儀の主であるジョルノ、それからミスタ、そして彼らを慕っていた人々。親族は参列しなかった。そうした方がいいと遠回しに伝えてあった。ギャングと関わりがあったなんて知れたら彼らの生活だって安全とは言えない。皆納得してくれたそうだ。
名前に関しては彼女の旧い友人──……──だったらしいポルナレフという男が手を回した。彼女の家族からは手紙を通して深い感謝を伝えられた。いずれはこちらにも来るそうだ。その方がいいとぼくも思う。きっと、名前なら喜ぶだろうから。
棺は深い穴の中に横たえられた。そしてゆっくりと土がかけられていき、徐々にその姿は遠退いていった。ぼくはそれをじっと見つめた。瞬きさえ惜しいほどだった。どんな一瞬だって逃したくはなかった。
そのせいか、なんだか目眩がした。ぐらぐらと揺れる地平。そのうちぼくは立ってるんだか転がってるんだかわからなくなった。或いは既に穴の底か?
それでもいいな、とぼくは笑った。それでもいい、彼女と一緒なら。どんな苦難だって構いやしないと思った。……何もかも、今さらの話だったけど。
そう、本当に今さらだ。ぼくは笑みを苦いものに変えた。もっと早くにそう思えたなら何か変わったろうか?わからない、ぼくはただの人間で、行き止まりに踞る惨めな囚人であった。ぼくがいるのはやるせなさの限りで、救いの聖母の光は彼女と共に眠りについていた。
ぼくは目を閉じ、彼女の姿を思い浮かべた。それはつい先刻見た寝顔ではない。いくら愛情深い手つきで整えられたってそれはもう名前ではなかった。眠る姿が彫刻のように美しかろうとぼくの知る名前とはまったく違っていた。
ぼくは彼女の思慮深い目を思い出した。菫に例えられた目。誠実さと愛情でもって応えてくれた眼差し。そして物言いからは育ちの良さが、物腰からは品性の高さが表れていた。ぼくは彼女に愛情と尊敬を抱いていた。彼女も同じだけのものを返してくれていた。ぼくたちにはひとつになる可能性だってあった。
でもその希望は失われたのだ、──永遠に。
次に目を開けた時、棺はもうぼくの前になかった。土は撫でつけられ、後には無感動な大理石が立った。そこにあるのは彼女の名前だけで、その蜜を湛えた微笑も、緩く波打つブロンドも、優しさ以外映さない瞳も、甘やかな楽の音も、その一片すら残されちゃいなかった。
「……そんなだから、わからなくなるんだ」
埋葬からひとつきが過ぎ、ふたつきが過ぎ、もう半年も経った。
それでもふと気づくとぼくの足は墓地へと向かっていた。あの日、棺を運んだのと同じように。その足跡をなぞるようにして、ぼくはまた彼女の前に立っていた。
──名前は死んだ。
死んだのだ、あの春の日に。そう聞かされた。ぼくだって確かめた。彼女の膚は冷たかった。冷たく、凍りついていた。それは明確な死だった。
けれど死んだ彼女は棺に入れられ暗い土のなか。そうして葬り去られると本当に彼女が死んでしまったのか、ふと疑念が沸いた。
遺体がないということは生きていること。かの聖人が如く地上に蘇っているのかもしれない。そんな気にさせられるのは、ぼくが彼女を神聖視しているからか。
「いいえ、彼女の魂は間違いなく天へ。それは動かしようのない事実ですよ、フーゴ」
冷たい声はぼくの新たなるボスのもの。年下の彼はぼくよりもずっと落ち着き払った顔で彼女の墓碑を眺める。
その手には白い百合の花。清廉な彼女にはぴったりだ。
そう思うのに苛立ちは消えない。
──何故、ジョルノが。
多忙なはずの彼までもがこうして彼女の墓を度々訪っているのか。どうして彼女によく似合う花を彼が供えるのか。
彼女の死を受け入れ、にも関わらず穏やかにいられるジョルノがぼくには理解できない。
「……お前に何がわかるんだ」
「フーゴ……」
彼女はぼくの光だった。ようやく見つけた救いであり、象徴だった。共に歩む未来を信じて疑わない、そんな思いを取り戻してくれたのは彼女だったのだ。
ジョルノはぼくの過去を知らない。彼女と過ごした日々のことも。ほんの一週間ほどしか彼女の魂に触れられなかったジョルノには到底理解できまい。
そう思うと、少しだけ胸がすく思いがした。
「ねぇジョルノ、ぼくはこうも思うんですよ」
気分がよくなり、口が回る。オイルでも差したみたいに陽気に。回る口はひとつの詩を紡いだ。
「『娘は森の花盛りに死んでいった。余所の木の葉がもっと青いかは誰が知ろう?』」
「『かの女は余所にもっと青い森があると知っていた』……ギイ・シャルル・クロスですね」
「あぁ、やっぱりジョルノは知ってたか」
ぼくはくつくつと笑った。随分と久しぶりに肩を震わして笑った。
けれど胸に吹くのはすきま風。死んでいく秋の冷ややかな風だった。
「ぼくはね、その通りだと思うんだ。『やがて小鳥も花も唄も忘れる娘たち……』そんなものにならないために、」
彼女は森の花盛りに死んでいった。彼女は自分の真の運命を理解していたのだ。喪われゆく美しきもの。ぼくの愛したものを守るために彼女は死んでいったのだ。確かにぼくにはもう触れられない、手の届かないところへ行ってしまった。けれどその代わりにもう誰もその花を摘むことはない。名前は永遠になったのだ。
そしてきっと今は清らかな彼女に相応しい楽園にいる。そうに違いないと笑い、ぼくはジョルノを見返した。
「……ぼくはそうは思いません」
ジョルノは決してぼくから目を逸らさなかった。挑むように、けれど凪いだ瞳で。ぼくを見つめ、はっきりとした声でぼくを否定した。
「彼女の死は幸いなんかじゃない。けれど悲しみばかりでもない。彼女が灯してくれた明かりは今も確かにここに、」
ジョルノは自身の胸を指し示す。
ジョルノの目は光輝いていた。希望を忘れぬ眼差し。どこまでも先を見据える目。澄んだ瞳は、彼女の菫色のそれを想起させた。……まったく、忌々しいことに。