生存IF友情√【原作後U】


 空港に着くと、職員や警備員なんかはオレの顔を見るやいなや笑顔で声をかけてくる。「お疲れさまです、ブチャラティさん」「どうだい調子は」「何か事件でも?」……そんな具合にだ。
 そのひとつひとつにオレは答えていく。「お疲れさま」「上々だよ」「いやただの見送りだ」……そういうのはもう殆ど反射のようなもので、特別思考した末のものではない。
 相手だってそうだ。オレに親しみを抱いてくれてはいるが、それ以前にあるのは『パッショーネ』という組織の存在。オレがパッショーネに属するブローノ・ブチャラティだからこそ彼らはオレに敬意を示す。そう、この街で役人以上に権力を持つのがパッショーネという組織だった。
 しかし名前は──この街のどこにも属さない彼女は──それでもなおオレに敬意と信愛の籠る視線を向けた。

「どうした?」

「ううん、なんでも」

 含み笑い。口許を覆ってみても隠しきれぬそれ。そうしながら名前は「ただ嬉しくて、」と呟いた。

「あなたって本当にみんなから好かれているのね」

 オレは曖昧に頷いた。
 そう……なのだろうか?わからない。オレはこの世界に浸かりすぎた。だからパッショーネという組織を取り除いた果ての自分というのがイマイチ想像できなかった。取り除かれた果てにあるオレを、皆がどう思うのかも。

 ──オレは、君とは違う。

 オレたちはゲートの中ほどで立ち止まった。周りには同じような格好の人々がいた。旅立つ者とそれを見送る者。ここは別れの集積所で、明るい照明の中だというのにどことなく物悲しい空気が漂っていた。

「寂しくなるな」

 オレは改めて名前を見下ろした。オレよりも一回り以上小さな体を。けれどその手が存外に力強かったのを、その温かさをぼんやりと思い出していた。それは僅か一年ほど前の出来事だというのに、何もかもが遠くに感じられた。
 この一年、組織を立て直すのに奔走させられた。その間だってオレたちは多くの時間を共有した。けれど一年前、当時のボスに反旗を翻したあの時ほどに彼女を身近に感じたことはなかった。そしてそれを寂しく思った。思い出はあまりに遠く、故にあまりに美しかった。

「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 名前は笑ってオレの背を叩いた。とはいってもそんな強いもんじゃない。励ます時にするみたいな仕草だった。気遣いに溢れた手つきだった。
 そう感じたのは確かなのに、感傷になんて浸るなと言われているみたいにも思われた。少なくとも、オレには。そう思ってから、『まさか』と内心で苦笑した。まさか、考えすぎだ。オレの知る限り、名前はそんな含みを持たせる行為はしなかった。彼女の目には優しさ以外映っていなかった。
 オレは小さく首を振り、笑みを刷いた。それから辺りに視線を走らせ……言葉を探した。
 空港の中、行き交う人々。その光景を眺め、近頃では以前より観光客も増えたのを改めて実感する。
 かつては貧しさ故に敬遠されていた土地。それがナポリ・サミットを機に治安が向上していったのはまだ記憶に新しい。オレがこの組織に入って間もない頃のことだ。それから世界遺産の登録や観光資源の再発見なんかを経て、この街も他の都市と同じ観光地として世界から再認識されるようになった。
 そして、今。麻薬を絶つ代わりとして、パッショーネはこの街を見直すことにした。ほんの一年前からのことだ。住民にとっては見慣れた古くさい街並みだが、それはそれで外から見たら価値がある。そういうことを市民に訴えかけ、観光地としての意識を芽生えさせた。
 お陰で空港の雰囲気も変わった。観光客には特別親切になったし、親しみやすい空気が流れていた。
 この街は変わっていっている。オレの望んだ通り、良い方向へ。
 それもこれもみんな──かけがえのない仲間たちがいたからだ。

「あいつらもみんな……お前を見送りに行くって聞かなくってな」

 彼らのことを思い浮かべながらオレは言った。言いながら、自然と口角は緩んでいた。
 特に直前まで不平を漏らしていたのはミスタだった。アバッキオは何も言わなかったが、今日は時計を気にする仕草を見せるのが多かった。反対によく喋ったのがフーゴだった。彼は名前を小さな子供とでも思ってるのか、色々な心配を口にしていた。そしてジョルノは……どうだったろう。オレ一人で見送りに行くと言った時、何故だか彼だけ意味ありげな目をしていた。そういえばアレはどういう意味だったのか。
 不思議といえばナランチャだ。彼と名前は特別仲が良かった。彼は名前を信頼していたし、名前も彼を大切に思っていた。傍目からもよくわかるほど。
 しかし意外なことにナランチャは見送りに行きたいと言わなかった。逆に「行ってきなよブチャラティ」と勧めてきた。
 「見送りなんていいって名前は言うけどさ。でもやっぱりブチャラティが来てくれた方が名前は喜ぶよ……」きっと、と付け足すナランチャはどこか大人びた眼差しをしていた。オレにはその表情の意味まではわからなかったが、ナランチャの一言が切欠になったのは事実だった。でなければオレはきっとナランチャに行かせていただろうから。
 仲間たちの様子を伝えると、名前は目を細めて「泣いちゃいそう」と笑った。でも「仕方ないわね」と肩を竦めて物分かりのいいことを示した。
 思えばこれまでもずっとそうだった。彼女は自分というものを強く主張する質ではなかった。頑なな態度を取ったのはパッショーネに入った時とローマに向かうと決めた時くらいだ。彼女はいつも一歩引いたところにいて、控えめに微笑んでいた。その印象が強かった。我が儘というところからは遠い場所にいた。
 それは帰国を促した時も変わらない。『もう大丈夫だ』オレが名前に告げたのはそれだけだった。それだけで名前はすべてを理解した。君に相応しいのはこんな世界ではない。言外に込めた意味までも理解し、名前は『じゃあさよならだね』と笑った。少しだけ寂しげな目で、それでも彼女はあっさりと受け入れた。それだけだった。オレたちにはその一言だけで十分だった。──良くも悪くも。

「組織はどう?立て直せそう?」

「なかなか難しいところだ。何せ薬で生まれる利益は八十億ユーロはあったらしいからな」

「……でもきっと大丈夫よ、あなたたちなら」

「あぁ、オレもあいつらを信じてる」

 オレたちは仕事の話をし、しかしそれも尽きてなんとなく互いに口を噤んだ。背後では飛行機の到着を報せる放送が流れていた。無感動な声だった。オレは時計を見た。
 ──時間はあまり残されていない。
 オレは口を開きかけ──けれど何も思いつかなかった。それでもなんだかやり残したことがあるように思えてならなかった。物言いたげな名前の目。そのどこまでも澄みきった瞳と相対していると、わけのない焦燥感が胸に迫った。そんなオレを名前はじっと見上げていた。

「私、本当は──」

 そう、名前が言いかけた。──ように、オレには聞こえた。
 だが勘違いだったかもしれない。オレたちの間を子供たちが駆け抜けていった。その後も名前が続きを言うことはなかった。自身の少年時代を思い出しながら子供たちの影を見送り、再び名前に視線を戻した時、彼女は「ううん、別に──」と緩やかな微笑みを見せた。「大したことじゃないからいいよ」それは見慣れた眼差しだった。諦念に侵された人の目だった。諦めに倦んだ力ないものだった。

「名前、」

 オレは手を伸ばしかけた。だがどうすることもできなかった。かけるべき言葉など思いもつかなかった。やはりオレは来るべきではなかったのだとも思った。
 ──オレではダメだった。たぶんきっと、ナランチャの方がずっとよかった。ナランチャかミスタかフーゴか、アバッキオでもジョルノでもよかった。たぶんその誰だってオレよりはうまくやったろう。オレには名前の考えていることなんて、ちっとも、

「……すき」

「え?」

「好きよ、ブチャラティ。あなたのことが好き。そう言いたかったの」

 オレは名前を見つめ返した。名前は静かな目をしていた。凪いだ瞳に、こんな時なのに目を奪われた。きれいだと思った。ヴェスヴィオ山から見下ろす西方一帯、その眺めの美しさを思い出した。オレはその時隣にあった彼女の横顔を、瞳に宿る輝きを思い出していた。
 しかしそうしても今の言葉が果たしてどういう意味を持つのか理解できなかった。彼女が何を言ったのか。いや、確かに聞き取ることはできた。名前の声ならどんな喧騒の中だって拾い上げられたろう。だから聞き間違えたとは思えない。となると、つまりオレが聞いた言葉は真実で──?

「あはは、ごめん。別れ際に言うことじゃないわね。でも、そうね、嘘じゃないわ。こればっかりは本当。けどだからって何をしてほしいってわけじゃないから!だから気にしないで、ね?」

「待て、自己完結されてもオレは……」

 けれどオレが何を言うより早く、名前はパッと表情を変えた。浮かぶのは苦み混じりの笑み。分別のついた大人の顔。だがどこか嘘くさい。そんな彼女に、気づけばオレは一歩踏み出していた。

「……ごめんね、」

 しかし名前はすっと表情を消し、そして、

「好きよ」

 縮まる距離。それが背伸び故であると理解したのは再びの隔たりが訪れてから。触れた温もりが彼女の唇であったということもそこでようやくわかった。
 名前は緩やかな微笑みを湛えていた。触れれば消えそうなほどに儚いそれ。歪みを形作る眉。そして──戦慄く唇。

「ま、待てッ!名前ッ!!」

「バイバイ!……忘れたら承知しないんだから!!」

 だが何もかもが手遅れだった。指先をするりと抜けていく感触。オレが追うより早く、名前はゲートの向こう側、人波の中に消えていった。その金糸が未だ視界の隅にあるにも関わらず、オレにはどうすることもできなかった。途方に暮れ、見送ることしかできなかった。

「なんだったんだ、いったい……」

 呟きながら、しかしその実オレは理解していた。本当に、今さらの話だ。けれどそんなオレにだってわかった。名前がオレを想っていてくれたということくらいは。

「──……?」

 その段になって、オレは自分の心臓がいやに大きく脈打ったのに気づいた。そう、ちょうど今、心中で名前の行動に理由づけていた時だった。走ったわけでもないのに一瞬、どくりと震えた。脳を揺さぶられるような感覚があった。
 オレは自分の胸に手を当てたまま呆然と立ち尽くした。その理由までは考えたくなかった。気づきたくなかった。今さら──今以上の望みなど、オレには必要なかった。……そのはずだったのだ。