生存IF友情√【原作後V】


 名前がいなくなっても月日は変わらず過ぎていく。一週間が過ぎ、一ヶ月が経ち、やがては美しいばかりの思い出となるのであろう。そんな予感がした。
 パッショーネは相変わらず多忙を極めていた。街の住人は組織の『友情』をあてにしていたし、その階層には上も下もなかった。犯罪者だって組織の顔色を伺っていたし、議員だって組織に手助けを求めることがしばしばあった。この街の経済を支えるのはパッショーネであり、パッショーネなくてはこの街は成立しなかった。
 だから麻薬という資金源を絶ったパッショーネとしてはここが正念場というわけで──

「……ブチャラティ、それはさすがに入れすぎでは?」

「…………そうだな」

 ──それ以外のことなど考える必要はないはずなのだ。

 だというのにオレはまた──思考の海に沈んでいたらしい。
 ジョルノの呼び掛けで我に返る。と、手元にはひとつのティーカップ。注がれたカフェには砂糖だけ入れるのが基本だ。

 だがこれはさすがに……やりすぎだろう。

 ジョルノがやんわりと制止したのも納得だ。釣り合いが取れていない。
 スプーンで掬い取ると、溶けきらなかった砂糖がその上に積もっていた。カフェを飲んでいるというより砂糖を啜っているといった方が正しい。じゃりじゃりとした食感を飲み下し、オレは眉を下げた。……失敗した。そう、自責の念に駆られながら。

「悪い、それでなんの話だったか」

 記憶の最後はなんだったか。ジョルノに『そろそろ昼食でも』と誘われたのは覚えている。それで馴染みの店に入ったのだ。ここは月に三百ユーロ、『ピッツォ』としてパッショーネに金を払っている。信頼に足る店というわけだ。
 そして注文したものが届くまでの間、ジョルノと話をしていた。近頃警察の取り締まりが厳しくなっていること、今年行われる総選挙のこと──これからの『在り方』について、ジョルノと意見を交換していた。
 ジョルノはかの首相が再選を果たすのに一票を投じた。オレも同意見だった。そうしながら……そうだ、昨年ベストセラーになった自叙伝を思い出したのだ。
 昨年の地方選挙に併せて刊行された『イタリアの歴史』。その内容についてはバカバカしいとしか言えなかった。組織内にも配られたが、ナランチャはその日のうちに無くした。フーゴの分は彼がキレた時にコーヒーを被ってお釈迦になった。ミスタとアバッキオはその場でゴミ箱に捨てた。まともな扱いをしたのはオレやジョルノ……それから名前くらいなものだった。
 それで彼女との記憶が甦った。そう昔の話ではない。でも今思い返してみても何故だか懐かしい。オレの中では何事もなかった少年時代と同列だった。
 名前は楽しげにその本を読んでいた。『結構面白いこと書いてあるのよ……』どれが嘘でどれが真実か、そういうのを事実と照らし合わせて読むのが存外に楽しいのだ、と名前は言った。彼女はそういう人だった。どんな小さなことにも楽しみを見出だす人だった。

 ……あぁ、何もかもが懐かしい。

 けれどそんな感傷、ジョルノには関わりないもの。だからオレは苦笑し、言い訳を並べた。
 「昨晩はあまり眠れなかったから……」オレは一度眠ると微動だにしないらしいが、ジョルノはそんなこと知る由もない。尤もらしい言い訳だった。使い古された台詞だ。でもこれでジョルノは退くはずだった。彼は聡明で、嘘であれ本当であれオレの意図を察してくれる男だった。
 予想通りジョルノは「そうですか」と小さく顎を引いた。眼差しは静かで、これといった感情は乗っていなかった。オレはホッとした。ジョルノの冷静さが今は有り難かった。

「あなたでもそういうことがあるんですね、……まぁ、それだけのものが名前にはあったということですか」

 ──けれどジョルノは。彼は何でもないような顔で続けた。何でもないような顔で、警察や政治家のことを語るのと同じ静けさで──名前の名前を出した。
 オレはティースプーンをカップの中に落とした。その後には沈黙があった。オレはまじまじとジョルノを見つめた。ジョルノもまた、カップを置いてオレを見た。彼の目は眩しいほどに清々しかった。

「……どうしてそこで名前の名前が出てくるんだ」

 今度は視線を落とした。オレはカップを脇にどけ、出来立てのグリーチャにフォークを入れた。黒胡椒がきいた、リガトーニ・アッラ・グリーチャ。豚肉とチーズが染みていて美味しい、……そう、それに違いはない。だというのにオレが思い出すのは名前のこと。彼女の家庭的な料理を思い出していた。
 ジョルノが頼んだのはアマトリチャーナだった。彼はフォークにくるりと巻きつけながら、僅かに首を傾げた。……何を言ってるんです?彼の目つきは呆れるようなものだった。

「自分で気づいてないんですか、ブチャラティ?あんた、名前が帰国して以来様子がおかしいですよ」

「そんなことは……」

「『ある』、とぼくは思いますがね」

「………………」

 ジョルノは頑なだった。オレは取り繕うようにカップを傾けた。そうするとカフェを吸い込んだ砂糖が喉にへばりついた。
 ざらついた感覚にオレは眉を潜める。なんだか落ち着かない気分だった。ジョルノの目は何もかもを見透した。初めて出会った時、奥底に仕舞い込んだはずのオレを叩き起こしたように。

「告白でもされましたか?」

 だからジョルノが見事言い当ててもオレが動揺することはなかった。もう十分だった。ジョルノが名前の名前を出した段階で、彼がすべてを諒解しているのだと理解した。何故、それをジョルノが知っているのか。……そんなのは些末事だ。推理と想像だけで看破することは、彼にとってそう難しいことではなかった。

「そしてあなたは返事をしなかった。いや、できなかったのかな、だから『こんな有り様』なんだ」

「……すごいな、ジョルノ。お前なら警察でも探偵でもやっていけそうだ」

 拍手を送るとジョルノは薄い笑みを刷いた。「大したことじゃあないですよ」彼はついと視線を流し、「ぼくよりもナランチャの方が、」と続けた。

「『この手』のことは彼の方が。たぶんぼくよりずっとよく知っているでしょう」

「……そうだったのか」

 何も知らなかった。オレは、何も。ジョルノのことも、ナランチャのことも。……そして、名前のことさえも。
 ──だからこそ、なおのこと思う。

「……お前か、ナランチャだったらよかったのにな」

 思わず溢した台詞は真実だった。オレは心から彼女の幸福を願っていた。その隣にあるのはオレではない、他の……もっと全うな男が相応しい。オレではダメだ。オレは相応しくない。そう、それだって本当だ。本当に、心からそう思う。
 なのに、言ったのはオレであるはずなのに──他でもないオレ自身が傷ついていた。
 ジョルノは「そういうのは言わない方がいいですよ」とたしなめる調子で言った。

「結末がどうであれ、その時の彼女の気持ちを否定することだけはよした方がいい」

 ジョルノは大人びた表情だった。経験豊富な大人のそれ。
 だがオレは黄色い声を上げる女性たちに対する彼の対応をよく知っていた。彼は冷静で、浮かれるということがなかった。そういうところは昔風のマフィアらしい。
 そんな彼が名前を庇う言葉を紡いだ。彼の言葉には名前への気遣いに溢れていた。つまるところ彼にとっての名前は、その辺の浮かれ女と違うところに定義されていた。オレはなんとも言えず、曖昧に笑んだ。そうしてから、──「結末?」ジョルノの選んだ言葉に疑問を抱いた。

「どういうことだ、ジョルノ」

 ジョルノの言い方には引っ掛かるものがあった。まるでこれっきりとでもいうみたいな。確かに名前は組織を離れ、遠い異国へと帰っていった。けれど縁は続いている。もう二度と会えない、なんてことはないはずだ。だがジョルノの言い方では……永遠の別離が約束されているようだった。
 オレが訊ねると、ジョルノは微かに片眉を上げた。「ご存じなかったのですか?」そう言った彼は、オレに驚くべき『結末』を与えてくれた。

「彼女、結婚するようですよ」

 ジョルノはその後も詳しいことを話してくれた。なんでも親族である空条承太郎氏から伝え聞いたとのこと。その結婚は彼女の両親の強い意向によるもので、彼女もまたそれに応えるつもりであるということ。そうしたものを彼は教えてくれた。なのにすべての言葉がオレの中を上滑りしていった。ひとつとしてオレの心を捕らえることがなかった。オレには最初の一文だけで十分だった。それだけがオレに大いなる衝撃を齎してくれた。