アバッキオ√【後日談】
──朝目が覚めた時、傍らに愛しい人の温もりがあることのなんと幸福なことか。
「…………、」
名前は健やかな寝息を立てるその人の顔を覗き込んだ。
鋭い眼差しも今は緞帳の向こう。緩やかに閉ざされた瞼。その長い睫毛が落とす影さえもどこか温かみがある。
名前は「ブォンジョルノ」と秘めやかに囁いた。その吐息でもって白磁の肌を撫で、それからそっと頬に口づけを落とした。
「今日は私の勝ちね」
名前もそうだが、彼もまた朝には特別強い。それまでの習慣からか、彼はいつも夜明けと共に目を覚ました。だから寝顔を拝めるのは五分五分といったところ。
でも今朝は名前の方が一歩早かった。彼の眠りは未だ深く、身動ぎひとつない。
名前は腹這いになってじいっとその顔を眺めた。存外に繊細な造りをした顔を。化粧という殻を忘れた膚を。それをいったい何に例えようかと名前は思案した。
この思いを表すとしたら?
──いいや、何に例えようもない。
薄い唇が震わす空気や、僅かに上下する喉仏や──そうしたものに名前は途方もない幸福感を覚えた。そしてそれを言い表す頃には最後の審判が下るだろうと思った。それだけの時間を費やしても構わないとさえ思ったのだ。
名前はふと窓の向こうに視線をやった。朝靄に煙る庭。露を含んだ草木が朝のかそけき呼吸に揺れていた。それらを認め、名前はするりとベッドを抜け出した。
やがて戻った名前の手にあったのは花束。赤はアネモネ、紫はフリティラリア・オブリクア、白はセイヨウキョウチクトウ、黄色はブーゲンビリア……といった具合に中身は様々。手折ったばかりのそれらを抱えたまま、名前はベッドに戻り──そしてその花束、花一輪一輪でもって眠りのただ中にあるその人を彩っていった。
銀の髪に差すのは紅、それとも月光の方が似つかわしいかしら?そしてその鼓動を守るのは白、高潔なる魂の色。それからオレンジは標の灯、ならば右手が相応しい。
そんな具合で散りばめられた花々。やがてはそれも尽き、太陽はほんのりと地平に滲む。そんな頃合いになって名前は欠伸をひとつ。鼻孔を擽るは甘美なる芳香。名前は彼の胸に頬を預け、ゆっくりと目を閉じた。
とくりとくりと時を刻む鼓動。耳を傾けると体全体が鼓動に支配された。それ以外の音は耳に入らなかった。穏やかな静けさ──それはやがて名前のものとも重なった。重なり、混じり、境目はなく──その瞬間、間違いなく二つは一つであった。そうしたことが幸福なのだと名前は微睡みの中で思った。
「願わくば──」
麗しの君が瞳に、これら美しとのみこそ映れ。
引き裂きたもうことなかれ──
アバッキオが次に目を覚ましたのは瞼に日差しの眩しさを感じたからだった。
「…………?」
その次に知覚したのは──噎せ返るほどの花の香り。お陰で一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。
しかし目を開けてみても頭上にあるのは見覚えのある白い天井。そして傍らには──いや、己の胸の辺りに寄り添うようにして眠るのは──アバッキオが生涯ただひとりと決めた人だった。
あどけなさの残る寝顔。長い睫毛の落とす影は濃く、作り出すのは神秘的な色合い。日差しは薄い襞となり、彼女の体をヴェールのように飾り立てていた。彼女の頭上に暗雲は不在、天さえも浮かれ調子。窓の向こうでは花々が咲き揃い、どこからか小鳥たちの囀ずりも響いていた。すべてが祝福であり、恩寵であった。少なくともアバッキオにはそう思えた。
アバッキオはそうっと手を伸ばした。彼女の眠りを妨げぬよう、細心の注意を払って。そうして腕を回し、彼女の髪に触れた。それはひどく艶やかな感触だった。朝目覚めた時、こめかみに感じるシーツの爽やかさに似ていた。そこには安堵と安息があった。
「…………、」
それからふと思い立ち──辺りに散らばった花の一輪を彼女の髪の一房に差し込んだ。
それはまるで誂えたみたいな有り様だった。金糸に一点の赤。遠い地平にほんのりと浮かぶ希望の光に似ていた。それは両手を炎で満たした女、ナポリの聖女をも想起させた。それか或いは──コレッジョの手で描かれた女たち。優雅さと瑞々しさ、そうしたもので彼女はできていた。
「……んん、」
だがしかし、他の色も捨てがたい。紫も白も橙も……どれもが似つかわしく、それと同じだけ物足りなかった。
取っ替え引っ替え、そうこうするうち、名前の唇からはむずがるような声がひとつ。溢れ出て、震える瞼。ゆっくりと持ち上がる幕の向こう、澄み渡る菫の色。瞬き、焦点を結び──そうして覚醒した彼女の眼には、広野のごとき快活さがあった。
「……どうだった?」
「何が?」
「きれいだったでしょう?」
彼女は主語を口にしなかった。けれどアバッキオには伝わった。彼女の言葉が指し示すもの、それが今ベッドを鮮やかに染めている花々なのだということを。理解し、アバッキオは「あぁ、」と頷いてやった。
「素晴らしい目覚めだったぜ」
本当のところ、自身を飾るように置かれた花を美しいとはとても思えなかった。そこまで自分のことを評価しちゃいない。ただ気分のいい目覚めであったのは真実だった。
アバッキオは紫の花を彼女の指に巻いてやった。まるで指輪みたいに。そうしてやると、名前はふにゃりと相好を崩した。ただそれだけのことなのに、心底「嬉しい」と呟いて、彼女は指輪に口を落とした。
その様子をアバッキオは見つめた。
自身を飾り立てる花に興味はない。ただ目覚めた時、傍らに変わらず温もりがあること、それ自体がささやかな喜びを齎した。子供騙しみたいな指輪でも、それを美しいものとして瞳に映す彼女に安らぎを覚えた。
名前は目を細めた。
「今朝は私の勝ちよ、ねぼすけさん」
何が楽しいのか、名前はどちらが早く目覚めるかの勝負をしているらしい。アバッキオとしては参加したつもりはない。ないから、彼女が得意気に笑うのを見ても悔しさなんて微塵もない。
そもそも──だ。そもそもアバッキオは一度だって名前より後に起きたことはない。だいたいが夜明け前、浅い眠りの中身動ぐ彼女の気配に目を覚ました。それからこれまでの『結果』を思い出し──二度寝するか否かを決めていた。五分五分なのは全部アバッキオの計らいによるものだった。
……まあさすがに今日は朝寝坊が過ぎたと反省してはいるが。
「まったく、先に目覚めたんなら起こせばいいだろうに」
しかしそれを彼女に明かすつもりはない。真相は朝靄の中、アバッキオは殊更不機嫌そうに眉を寄せ、名前の額を小突いた。
「これじゃ朝の礼拝に間に合わねぇ」
「あら、たまにはいいじゃないの」
今朝は日曜日、『主の日』である──。が、既に太陽は天高く、この日をこんな怠惰に過ごすことに仄かな後ろめたさを覚えるのも事実。
けれど名前はあっけらかんとしたもの。敬虔な教徒らしからぬ気安さで彼女は笑い、「人間の考えた天国でさえ、この世にある最上の幸福は存在しないんだわ」と微睡みを含んだ声で囁いた。
「永遠の命や喜びの保証だっていらないの。だってこんなにも世界は美しいんですもの」
「……罰当たりめ」
くしゃくしゃに頭を掻き回してやっても名前にはてんで効果はない。喜びの声でさざめき笑い、名前は「だってそうでしょう?」とアバッキオに抱き着いた。
「『あの方』には半分も人間の血が流れていたわ。だからきっと人間はただそれだけで楽園を築くことができるのよ」
「そしてその証拠があなた」と名前は悪戯っぽく笑った。
「あなたがいる、それだけで私は幸せ」
だからもう『救い』は必要ないのだと名前は続けた。その目は夢見がちで、けれど同時に穏やかさがあった。何もかもを見透すような、そんな静けさがあった。
アバッキオはもう一度「罰当たりめ」と呟いた。でも今度は先刻よりも力ないものだった。照れ隠しなのだと名前にもわかったろう。彼女はくすくすと笑い、その身をアバッキオへと預けた。──彼女の信じる唯一へと。
「もう少し、……このままがいい」
名前の囁きにアバッキオは答えなかった。
代わりに彼女を抱き寄せ、その心音に耳を馳せた。規則的な鼓動。それに併せて打つのが己の心臓である。まるで彼女にのみ焦がれて逸るように。しばしの微睡みを赦すように。主からの苦言はなく、清浄なる安寧がそこにはあった。
──これを楽園と言い表そう。
名前の言葉を思い出して、アバッキオは彼女を抱き締める力を強めた。そしてそうとはわからぬよう、頭のてっぺんに口づけた。彼女からは草花の匂いがした。美しい自然からは神の息吹が感じられた。
──だからつまり、……そういうことなのだろう。
アバッキオが思い浮かべたのはコレッジョの聖母像だった。慈愛に満ちた眼差しを思い出していた。それから名前の言葉を反芻し──口許を緩めた。
「名前、お前こそがきっとオレの──……」
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アンケートよりアバッキオです。
ポール・ヴェルレーヌ『グリーン』
ウォレス・スティーヴンズ『日曜の朝』より引用。