フーゴ√【両片想い前編】


原作終了後。みんな生きてる設定。両片想い。




 ──彼女はペネロペイアだと思う。誠実さと愛情深さの象徴。或いはアンゲーリカ・カウフマン。フェルディナンド四世の家族の肖像、その柔らかな筆致。そして聖母、それもラファエロの描くもの。ヒワの聖母、大公の聖母……その微笑。そうしたものに彼女──名前はよく似ていた。

「……なぁに見てんだ、よッ!」

「うわッ!?」

 突然肩をガッと掴まれ、フーゴは思わず声を上げた。
 けれどその正体を認め、……溜め息を吐く。
 揶揄いに光る黒目。にやにやと弧を描く口。そして憎らしいことに少しだけ高い目線。
 「なんだミスタか」肩に回された手を払い除け、フーゴは乱れたスーツの襟元を整えた。
 しかしそんな具合に邪険にされてもミスタは気にしない。彼はフーゴの視線の先を追いかけ、それがリストランテの一室、テーブルに着く一人の女性に向けられているのだと気づき──笑みを深めた。

「こそこそ盗み見かァ?男ならガツンと行けよ!なッ!」

「うるさいバカ!聞こえるだろッ!!」

 余計なことばかり言う口を慌てて押さえ、フーゴは彼を柱の影にしゃがませる。それから恐る恐る室内を見やり、その中の誰もがなんの反応も示していないことを知り、──ほっと胸を撫で下ろす。
 それを呆れたように見る目。フーゴの百面相を間近で眺めていたミスタは「何やってんだよ」と彼を肘で小突いた。

「お前なァ〜……せっかくオレが応援してやったってのに……」

「うるさいいらない黙っててくれ」

 ……自分でも何をしているのかという自覚はある。別になんてことはない風景だ。いつものリストランテ。いつもより遅れて着いたのだって、少し仕事が長引いたせい。ただそれだけで、入店した時にはごく普通に部屋へ入るつもりだった。

 ──けれど、目を奪われた。

 なんてことはない風景だった。名前がいた。窓辺からは穏やかな日差しが彼女の頭上にかかっていた。まるでヴェールのようだった。彼女の金糸には祝福があって、瞳は広がる黎明だった。囀ずる声のことごとくが優婉可憐、そして微笑は……あぁ、マッティルド・ド・モーテ!彼女に出会った瞬間のヴェルレーヌ、その気持ちがフーゴには痛いほどよくわかった。
 だから言葉を失った。後先のことも忘れてひたすら見とれた。そう、ミスタに声をかけられるまで、ずっと。

「はいはいそうかよ。……そんならオレはジョルノに賭けようかなァ〜……」

「……は?」

 にべもなくはね除けると、ミスタは肩を竦め、意味ありげに呟いた。その台詞、唐突に現れた名前に驚き、フーゴはミスタへと目を移す。

「だってよ、……いい感じじゃねぇか?話も合う、ツラもいい、いざって時の決断力もある……オレのカンは当たるんだよなぁ〜〜」

 彼は顎をしゃくった。その先、いるのは名前と……控えめに笑い合うジョルノの姿。今の今まで視界に入らなかった、青年の笑み。その柔らかさに、思いもがけず衝撃を受けた。
 気にしたことなどなかった。でも、ミスタに言われて否が応でも考えさせられる。ジョルノ・ジョバァーナ。パッショーネの新たなるボス。彼が笑みを見せるのはそう多いことではない。けれど名前には……名前やナランチャには笑いかける回数が多いような気がする。そう思い至り、──フーゴは立ち尽くした。

「……やれやれ」

 それを置き去りにし、ミスタは部屋に入る。室内には名前とジョルノの他にアバッキオもいた。彼は我関せずといった体で、ひとり音楽を聴いていた。
 だからミスタもアバッキオには声をかけない。代わりに名前とジョルノの肩に手をやった。

「よぉお前ら!盛り上がってるか?」

 それに二人が驚くことはない。……フーゴとは違う。名前もジョルノもにこやかにミスタを迎え入れた。

「やぁミスタ、相変わらず元気ですね」

「違うわジョルノ、こういうのは調子がいいって言うの」

 交互に話すジョルノと名前。それをフーゴは遠くから眺めた。なんだか深い隔たりがあるように思われた。ジョルノと名前。二人は並んでいると姉弟のようだった。面差しが特別似ているというわけではなかったが、それでも二人の纏う空気には何か特別なものがあった。他の誰にも不可侵な、何かが。

「で?なんの話してたんだ?」

 ミスタが無邪気に訊ねると、名前は「……なんだったかしら?」と首を捻る。さらりと流れる金の髪。胸元に落ちるそれは清らかなせせらぎだった。

「近頃の環境問題についてですよ」

 ジョルノが優しく助け船を出すと、名前は「ああ、そう、そうだった!」と手を叩く。子供のような純真さでもって。

「ほら昔狩猟に関する国民投票があったでしょう?あの時のロビー活動のせいでどれだけの資源が失われたことか……」

「ええ、大変嘆かわしいことです。確かに我が国の資源は限られていますが、だからといって対策せず狩り続けるのは愚の骨頂。この点に関しちゃ国民の無関心さが問題ですね」

「それから公害問題ね。かつてはアドリア海も深刻な被害を受けたわ。うちも世界遺産の件以来観光客が増えるのはいいけど……、浄化装置や処理施設の増加を急がないと」

「それに大気汚染も……。ミラノのスモッグはそれはもう酷いものらしいですね」

「スモッグで視界は真っ白って言うわね。……環境問題は難しいわ。ECからも色々言われるし」

「ニコシア憲章もありますからね、あれは二十五年までにだったか……。ミスタはどう思います?」

 名前、ジョルノの順で二人は喋った。二人は塞き止められていた水が溢れ出すみたいに次々言葉を連ねた。
 ミスタはそれを黙って眺めていた。やがて口を止めた二人、その静かな二対の目が自分に向くのを受け止めた。受け止め、そして──

「うーん、……そういうのはお前らに任せるわ」

 受け流した、何もかもを。彼は笑って二人の肩を叩いた。その頭には二人が話していたことの一欠片も残っちゃいなかった。
 名前とジョルノは顔を見合わせた。そして名前は溜め息を吐き、「なぁにそれ、少しは考えなさいな」とミスタの鼻先を指で弾いた。

「そうですよ、ミスタ。この街をより良くしたくないんですか?」

「いやいやいや、だってよぉ……こんな気持ちのいい昼下がりだぜ?そんな話じゃなくて……もっとこう……なんかあるだろッ!映画とか車とかおしゃれとか……」

 二対一。形勢は不利。しかしミスタは怯まない。彼は両の拳を握り締め、力説した。

「はぁ……?」

 しかし結果は散々たるもの。ジョルノは『わけがわからない』といった顔で首を傾げた。そんな彼に名前は「ほっときましょう」と声をかける。「ミスタの奇行は今に始まったことじゃないわ」と。
 それでもミスタは気にしなかった。名前の眼前に指を突きつけ、叫びをひとつ。

「特に名前ッ!お前は女なんだから色気のねぇことばっか話してんな!」

「差別ですよミスタ、時代が時代なら非難ごうごうですよ」

「うるせぇ!」

 吠えるミスタを宥めるようにジョルノが背を叩く。
 ──まったく、何を熱くなっているのやら。耳をそばだてていたフーゴも柱の影でひとり
呆れる。

「おしゃれ、ねぇ……」

 しかしその必死さに心打たれるものがあったらしい。
 名前は反芻するように呟き、「それならあるわよ」とミスタを見やった。

「おっ!なんだよ、言ってみろよ」

「いやそんな大した話じゃないんだけど……」

 思いの外の食いつきよう。きらきらした視線を向けられ、名前はたじろぐ。保険をかけるように言い置いて、それから名前は口を開いた。

「私、ピアス開けてみようかと思ってて。さっき買ってきたんだけどね」

 鞄の中を探り、取り出したのはピアッサー。まだ新品未開封のそれを振り、名前はジョルノに視線を流した。

「ほら、ジョルノもつけてるじゃない?」

「それにフーゴもな」

「……そうね。だからちょっと気になって」

 名前は「痛くなかった?」とジョルノに訊ねた。彼女の目には不安と恐れがあった。それはフーゴにも見て取ることができた。できることなら自分がその翳りを取り除いてやりたいと思った。
 でもそれはジョルノによって果たされた。

「大丈夫ですよ」

 そう言ったのはフーゴではない。彼女の隣に座っているのはフーゴじゃなくジョルノだ。彼は優しく労るような手つきで名前の手の甲を撫でた。フーゴには唇を噛むことしかできなかった。
 そんなフーゴを嘲笑うみたいに事態は進行していった。ミスタは「いいじゃねぇか!」と目を輝かせ、ドカリと腰を下ろした。

「いま開けてみろよ、ほら、……それともオレが開けてやろうか?」

「嫌よ、怖いもの」

 名前がミスタに示したのはひどい顰めっ面。驚くべき頑なさで名前は首を振り、ミスタから顔を背けた。が、しかし、それでもミスタは追い縋る。名前が頑なになればなるほど面白いのだと楽しげに笑いながら。

「痛くしねぇって。安心しろ!ほれッ!」

「嫌、絶対いや。だったらジョルノにやってもらうわ」

「ぼくですか?」

 突然に話を振られ、ジョルノは瞬きをひとつ。でもすぐに目元を和らげ、「いいですよ」と名前に笑みかけた。
 そのささやかな優しさすら、フーゴにはしこりとなる。どろりとしたものが心の内壁に垂れ籠め、なんとも嫌な心地。気にするほどのことじゃない、そう己に言い聞かせたって。

「ほーう……。まぁそれでもいいけどな、オレ的には」

 ミスタはちらりと視線を走らせた。個室の入り口、フーゴの隠れる方へと。含みのある目を向け、しかしすぐに名前へと向き直った。

「じゃあ今開けてもらえよ、ジョルノに。ジョルノなら怖くないんだろ?」

「そう、だけど……」

「なら今思いきってやっとけって」

「ちょっと!待って、急かさないでよ。まだ心の準備が……」

「そう言ってるからなかなか踏ん切りがつかねぇんだよ」

「でも……」

 名前とミスタの攻防は永遠に続くかと思われた。
 でもそうはならなかった。名前が言い淀んだところで、音がした。それは椅子を引く音だった。

「アバッキオ?」

 不意に立ち上がったのはアバッキオだった。彼はヘッドホンを外し、テーブルに置いた。そしておもむろに名前へと歩み寄り、彼女を見下ろした。

「……フーゴにやってもらえ」

「何言って、」

「ミスタは引っ込んでろ。……いいから、フーゴにしとけ。あいつのがまだ安心だ」

 彼はジョルノと名前の間に割り込むようにして立っていた。
 そこにはなんともいえない威圧感があった。笑みのひとつもない。真面目くさった顔でミスタを退け、「ほら、来いよフーゴ」と入り口に──正しくフーゴの隠れる柱へと──視線をやった。

 ……気づかれていたのか。

 背筋を伝うのは汗。まさか、アバッキオにバレていたとは。さすがだと賞賛する傍ら、生まれるのは焦り。とうにバレていたのなら一体何を言われるのか……

「あら来てたの?」

「え、ええ、まあ……」

 恐る恐る部屋に入る。が、アバッキオがフーゴの行動を皆に明かすことはなかった。フーゴが隠れていたこと、それに関して触れることさえしなかった。
 フーゴは人知れず息をつき、名前へと曖昧な笑みを返した。

「さぁどっちにするんだよ、名前。ジョルノか、それともフーゴか」

 それよりも重大な問題があるとばかりにアバッキオは名前へと迫る。ぐいと体を折り、覗き込む目。その鋭さに困惑するのは何も名前だけではない。

「ま、待ってください!ぼくはやるなんてまだ一言も……」

「そうよ、フーゴは今来たところなのよ?そんな迷惑……」

「め、迷惑なわけないッ!」

 叫んでから、ハッと我に返る。
 しんと静まり返った室内。誰も彼もがフーゴを見ていた。静観の体勢に入っていたジョルノも、楽しげに見守っていたミスタも、いやに真剣な目をしていたアバッキオも、──名前の菫色の瞳ですら、驚きに見開かれていた。

 ──しまった。

 なんてことだろう!フーゴの頭は真っ白だった。いつもは淀みなく回転しているはずのそれが、今や?錆びたみたいに上手く噛み合わない。どくどくと脈打つ心臓。彼女に関わるといつもそうだ。いつもいつも動揺させられる。常とは違う種類の激情が臓腑を駆け巡る。

「……別に、名前が望むなら、ぼくは、」

 フーゴは取り繕うように咳払いをした。それからようやっと。口ごもりながら言葉を続け、しかし目は伏せられたまま。まだまともに名前を見ることができなかった。途方もない羞恥が肌の上には広がっていた。

「ぼくも構いませんよ、どちらでも。名前、あなたのお好きな通りに」

「う、うう……」

 ジョルノの凪いだ声を聞いた。それを受けて、名前が苦悶に唸るのも。
 でも顔を上げることはできなかった。ただ祈るような気持ちで名前の答えを待った。判決を待つ罪人の心地だった。

「それなら……」

 そして彼女が躊躇いがちに呼んだのはフーゴの名前だった。