フーゴ√【両片想い後編】


 ──彼はバッカスだと思う。ミケランジェロの生み出した彫刻。人に酩酊を齎す美貌の神。或いはオデュッセウス、知将と謳われた英雄。そしてパドヴァ。整然と並んだ解剖学教室と、対照的に開放的な植物園。閉塞感溢れる部屋は彼の頭脳を、生き生きとした緑は彼の優しさを。相反しながら同一のもの。そうしたものに彼──フーゴはよく似ていた。

「め、迷惑なわけないッ!」

 叫んでから、フーゴはハッと我に返る。
 しんと静まり返った室内。誰も彼もがフーゴを見ていた。静観の体勢に入っていたジョルノも、楽しげに見守っていたミスタも、いやに真剣な目をしていたアバッキオも、──言われた名前ですら、驚きに目を見開いていた。

「……別に、名前が望むなら、ぼくは、」

 フーゴは取り繕うように咳払いをした。その目は伏せられ、名前には見ることができない。けれど長い睫毛の落とす影は彼に憂いを纏わせていた。それが彼に途方もない美しさを与えているのだと名前はぼんやりと思った。
 でも本当のところを言えばその顔を真正面から見たかった。光輝くもの。その容貌を、余すことなく。

 ──主よ!人の望みの喜びよ!

 彼がそれであるのなら、名前は寄り添う聖母になりたかった。彼がオデュッセウスならペネロペイアに。
 何にでもなれるとすら名前は思った。名前のために感情を揺らしてくれる彼のためならば。名前の分も感情を露にしてくれる彼のためならば。
 ──何者にだってなってあげたかった。

「ぼくも構いませんよ、どちらでも。名前、あなたのお好きな通りに」

 思考を冷ましたのはジョルノの凪いだ声。それを受けて、名前は苦悶に唸った。

 ──ピアスを開けたいなんて、こんなところで言い出すんじゃなかった。

 恨み節はミスタへ。けれどそれは心のうちにのみ留めておく。これは逆恨みというものだし、第一名前が彼の発言に乗らなければよかっただけの話だ。
 名前はちらりと視線を走らせた。伏し目がちなフーゴ、その耳朶に宿る輝きへと。──憧憬を込めた眼差しは、瞬きのうちに吹き消した。
 憧れてしまった。なんてことない金属に。清めの光を見ることができた。喪の心は晴れ、天国を夢見ることができた。恐れるよりも早く、恋に落ちていた。

「それなら……」

 だから答えはひとつだった。名前の目に映るのはフーゴで、その思慮深い瞳だけが道行きを照らしていた。



 ──首筋を曝すことの頼りなさはいったい何ゆえだろうか?

「本当にやるんですか……?」

「やらなきゃ許してくれないもの」

 尻込みする声を背中で聞きながら、名前は震える手を膝の上で握り締めた。
 それは怯えから生じるものではなかった。もちろん穴を開けるという行為に抵抗はある。今まではどんな怪我だって治してきた。だから永続的な空白というものには不慣れだ。どうしたって足が竦んでしまう。もう後戻りはできないのだと──過去を過去として生きていくのだと──それを改めて突きつけられるから。

「……でも、決めたのは私よ」

 名前は唇を引き結んだ。
 それでも、──それでも、そうしたいと望んだ。それが真実で、唯一だった。必要なのはそれだけだった。
 名前は耳に金属の冷たさを感じていた。そして肌を掠める指先も。その微かな温もりの方がずっと印象深かった。針の冷たさよりも人肌の温もりの方が、ずっと。
 名前は目を閉じて想像した。

 ──フーゴは今、どんな顔をしてるだろう?

 室内には静寂があった。アバッキオに促されて、他の者は皆席を立った。部屋にあるのは名前とフーゴだけ。そしてその唯一の人は今名前の後ろに立っている。だから名前は何に憚る必要もなかった。自由に夢想することができた。

 ──彼は優しいから、困ったような顔をしているんじゃないかしら?

 八の字になった眉が容易に想像できて、名前は密やかに笑った。彼は名前の痛みを我がことのように思ってくれていた。

 ……そういうところが、好きだと思う。

 だから今、躊躇する彼にも愛おしさが募る。その優しさが心地いいと感じてしまう。好きになってよかった、と名前は頬を緩めた。

「やっぱり病院の方がいい。ぼくなんかじゃなく、ちゃんとした医者にやってもらった方が、」

「いいの、これで」

 引っ込められそうになった手を掴んでいたのは無意識のうち。ピアッサーを持つ彼の手、それに重ねるようにして、名前はまた自分の耳朶へと導いた。
 重ねた肌が熱かった。触れる指先は震えていた。鼓動で頭は痛いほど、知らず溢れた吐息は蒸気のよう。名前は深く息を吸い、──前を見据えた。

「いいの、私は……フーゴが、いい」

 呟いた先に彼はいなかった。名前の眼前にあるのは味気ないテーブルと壁。でも彼に届いたのはわかった。息を呑む音、空気の震え、指先の戦き、……そうしたもので、名前は諒解した。

「わかり、ました……」

 暫しの沈黙の果てに。フーゴは絞り出すようにして是と答えた。それは諦念であり、同時に深い覚悟を窺わせるものだった。

「そんな、一大事じゃないのに」

 笑うと、すぐさま「まさかッ!」と否定の語が飛んでくる。

「何言ってんです?一大事ですよ、穴開けるんですよ?あんたに、」

「だってフーゴだって開けてるじゃない」

「ぼくはいいんです」

「……なら私も開けるわ」

 名前はくすくすと肩を揺らした。先刻までの緊張感はすっかり霧散していた。それを少しばかり惜しみながら、名前は悪戯っぽく片目を瞑り、フーゴに視線を流した。

「あなたのせいよ、……ぜんぶ、あなたのせい」



 しかし結局、名前の耳にピアスが埋まることはなかった。

「ええッ!?なんでだよッ!めちゃくちゃいい感じだったじゃんかよォ!」

「うーん……」

 あれからブチャラティやナランチャとも合流し、瞬く間に時間は流れ。事の顛末をナランチャとの夕食のおかずにすると、彼は『わけがわからない』といった顔で机を叩いた。それを受け止めた名前の顔に浮かぶのはなんとも言いがたい笑み。曖昧に笑い、名前は食後のカフェを飲んだ。

「優しすぎたのね、『やっぱりあなたを傷つけるなんてできない!』って言われちゃあ……どうしようもないでしょ?」

 肩を竦めると、今度はナランチャが微妙な表情を浮かべた。

「なぁに、どうしたの?」

「いや、……なんでも」

 ナランチャとしては納得がいかないらしい。「オレの顔には容赦なくフォーク突き立てるクセになァ〜……」……それはそれで特別な絆があるようで、名前としては若干羨ましかったりもするのだが。
 皆までは言わず、名前は耳に手をやった。そこにあった温もりを追いかけるようにして、目を伏せ──

「けどもう少しこのままでもいいかなって」

 乞うる鼓動に微笑んだ。








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