フーゴ√【海の話】
大団円後。両片想い設定。
開いたページの上に、すっと影が差す。
「こんなとこでも読書?」
それと共に落ちた声。顔を上げなくても誰だかわかる。でもぼくは反射的に視線を動かし──すぐに目を逸らした。
けれどそれも無駄な行為だった。そうしたってぼくの視界には彼女の白い肌がちらついた。芽吹いたばかりの幹の如くしなやかで、鮮やかな春の色。剥き出しの膝が目に眩しかった。
名前は口許に微笑を湛えたまま逃げを打つぼくを覗き込んだ。さらりと肩を打つのは結び目から零れた金糸。ぼくにはせせらぎの音さえ聴こえた。芳しい香りまでもが匂い立つようだった。
「泳がないの?気持ちいいわよ」
「嫌ですよ。こんなとこまで来て疲れたくないですから」
「あはは、確かに」
名前はやっぱり笑った。それはごく親しげな笑い方だった。出会ったばかりの取り澄ましたようなのじゃない、ほんの数少ない身内に向けたみたいなものだった。
聖母というより少女みたいなそれ。でもその奔放さにぼくは憧れた。彼女の後ろには広大な海が広がっていて、真夏の白い日差しをヴェールのように被っていた。ぼくには彼女がひだ飾りのあるローブを着飾っているようにすら思えた。明るい反射がぼくの元に差し込んでいた。
ぼくにはその他の人々がひどく遠くにあるように思えた。ぼくたちの世界はこの小さなパラソルの下だけ、砂浜にあるそれ以外はすべて影でしかなかった。海ではしゃいでいるナランチャやミスタまでもがぼくにとってはどこか遠い世界のことだった。
名前は「あなたらしいわね」と言った。呆れや嘲りというものはなかった。温かな愛情のようなものがあった。そうしたものを纏いながら、彼女はシートの上に腰を下ろした。
「……って、なんで隣に」
「ちょっと一休み。それにひとりじゃ寂しいかと思って」
「別にそんなことないです」
「そう?」
名前は膝を抱えた体勢で座った。膝の上に頬を押し当て、覗き込むような格好でぼくを見た。……その意味ありげな眼差しに、心臓が高鳴った。
「でも私は寂しいな、フーゴがいてくれないと」
「えっ……」
ごくり、と音がする。唾を飲み込む音。或いは血液が逆流する音か?ぼくの心臓は早鐘のようだった。期待と不安と……それから歓喜の予感があった。
ぼくは名前を見つめた。彼女は薄らとした笑みを刷いていた。見るものに切なさを齎す笑い方だった。
この時ぼくは初めて彼女の目が濡れたように光っているのを知った。唇が赤く色づいているのも、頬に紅が散らされているのも。でもそれがこの暑さのせいなのか、……はたまたそれ以外の──至極都合のいい──理由によってかまではわからなかった。
「それ、は……」ぼくは唇を震わした。──それは、どういう意味ですか。そう訊ねるつもりだった。
「やっぱり一緒がいいじゃない、せっかくみんなで来たんだもの」
「……、そうですか」
けれどぼくが問うより早く、彼女は笑みを悪戯っぽいものに切り替えた。
──からかわれたのだ、きっと。
ぼくはなんとも言いがたい気分で視線を外した。空しいような、やるせないような……そんな大事ではないのだけれど、でも落胆したのは紛れもない事実。そこまで繕うことはできなくて、ぼくはぼんやりと地平を眺めた。
「……なんて、うそ」
──しかし、そんなのも長くは続かない。
呟きに視線を巡らす。隣に座ったままの名前。肩が触れ合うほどの距離。ぼくには彼女の唇の動きひとつさえ手に取るようだった。その些細な空気の震えすらぼくの膚に伝わった。
「ちょっと嬉しかったりもする。あなたとふたりきり、……実は狙ってみたりして」
名前は笑っていなかった。真剣な眼差しをぼくに投げかけていた。
「……それも嘘なんじゃないですか」
ぼくは掠れた声で答えた。瞳の奥までもを浚うように、ぼくは彼女を見つめた。それはもう彼女が焼け焦げてしまうんじゃないかってくらい。見つめると、同じだけの熱を伴って名前は視線を返した。
「じゃあ確かめてみて」
そして彼女は手を伸ばす。カラカラに乾いたぼくの手に。それを掴んで、引き寄せた。
その力は決して強いものじゃなかった。でもぼくは抗えなかった。ただ彼女の目を──真摯な眼差しを──見つめ返すことしかできなかった。
「私の心臓、触ったらすぐわかるよ。……いま、すっごくどきどきしてるもの」
ぼくの手は彼女に触れる寸前で止まった。そこまで導いたくせ、彼女は一歩を自分から踏み出すことをしなかった。委ねるようにぼくを見た。ぼくの思考はその菫色の瞳に支配されていた。
目眩がしそうなほどだった。それは日差しにあてられたみたいな感覚だった。視界が歪み、熱がかけ上るのを感じた。目の奥がくらくらした。汗ばんだ掌や乱れそうになる呼吸や、……鼻先を掠める吐息なんかがいやに気にかかった。そういった器官だけが異様に鋭敏になっていた。
「…………、」
ぼくは彼女の名を呼んだ。……たぶん、きっと。名前、と囁いた。そのはずだ。
でもぼくにはもう聞き取れなかった。聴覚も触覚も視覚も、すべてが彼女に繋がっていた。
──だから、
「お〜い!そんなとこで何ボサっとしてんだよォ〜!!」
「おいフーゴ!勝負しようぜ勝負ッ!」
ナランチャとミスタの呼びかけに、大袈裟なほど肩を震わした。ぼくも、名前も。ぼくたちは互いに顔を見合わせ、直前までの何やら奇妙な空気がすっかり霧散してしまったのを理解した。そしてそれをほんの少し……寂しく思った。
「……呼ばれちゃ仕方ないわね、さすがのあなたも断れないでしょう?」
「まぁそうですね、その方が面倒な予感がします」
肩を竦め、ぼくらは小さな日陰の元から眩しい日向へと歩き出した。
ぼくは隣を歩く名前を見下ろした。その白い肌を、見慣れぬ水着姿を。それを褒める言葉さえ思いつかなかったことを情けなく思い、……しかしすぐに思い出すのは先刻触れられる距離にあった温もりのことだった。
「……っ、」
思考を振り払おうと、内心で首を振る。その横で、名前は「あーあ、残念」と呟いた。
「もうちょっとだったのに」
何が、とは聞けなかった。思い上がりなら手の施しようがない。
それに何より明確な言葉にしたら、もう後戻りはできなくなってしまう。ぼくはまだ彼女を清らかな芸術品に留めておきたかった。……ぼくの元にまで引きずり落とす覚悟ができなかった。
「でもいいわ、ちょっとでも独占できたもの」
その思いさえ見透かしたように。ぼくの歩幅に合わせて、彼女は微笑んだ。その冗談めかした語調、イタズラな笑みにも──くらりとする。ぼくは自分が思う以上に堪え性がないのかもしれない。
ある種の予感を抱いて、ぼくは溜め息を吐いた。それでも胸の内にあるのは甘やかな感覚だった。熱病は酷くなる一方でしかなかった。