ジョルノの妹になるU


『やっほー、ジョルノくん。げんき?』

 電話越しに響く声は相変わらず心地よく、耳に馴染む。
 けれどぼくが気にかかったのはまったく別のこと。腕時計を見て、それからもう一度計算する。
 イタリア、カンパニア州ナポリ。それから彼女──ぼくの妹、名前が住むのはアメリカの大都市。その二つの間に横たわる隔たりの大きさを計算し、ぼくは「どうしたんです?」と彼女に訊ねた。

「こっちが昼前ってことはそちらはまだ明け方じゃあ……?」

 妹と電話を繋ぐのは初めてのことではない。ぼくから掛けることもあれば彼女から掛かってくることも。ぼくらの間には時間や空間の隔たりがあったけれど、そんなものを感じさせない気安さがぼくらにはあった。そうするのがずっと昔から決まっていたような──そうするのが当たり前のような──そんな感覚だった。
 だから不意の連絡にも驚きこそすれ不快感などはない。それに訊ねながら──ぼくははたと思い至っていた。アメリカとの時差。それを飛び越えた名前の声。即ち、答えはひとつ。

「もしかして、君、イタリアに」

『うん、そう、正解!』

 受話器の向こうで転がる鈴の音。小川のせせらぎで、梢のささめきだった。何故だかぼくには懐かしさすら感じられた。

『って言ってもローマなんだけどね』

「なんだ、ぼくに会いに来てくれたんじゃないんですね」

『あはは、ごめん。仕事だからさ』

 ぼくは目の前の書類の束を横に退け、通話に集中する。
 そうしながら考えるのは本日の予定のこと。さしあたって重要な案件はなかったはずだ。ローマまではイーエススターでおよそ二時間。往復しても明日に差し支えはない。いや、どうせなら暫く休暇を取るのも悪くないかもしれないなと思案する。
 ぼくの妹はこれで忙しい身の上なのだ。なんでも駆け出しのモデルをやっているんだとか。だからたぶん仕事というのもこれに関することだろう。
 そしてぼくはぼくでパッショーネのボスとしての務めがある。互いに自由になる時間は少なく、この偶然を利用しない手はなかった。

『……ってジョルノ、聞いてる?』

「ええ聞いてますよ、ちゃんと。聞き逃すはずないでしょう?」

『ホントかなぁ〜?』

「ホントです。……ローマのピッツァを食べたんですよね、どうでした?」

『うん、美味しかったよ。あんなに薄いとは思わなかったからびっくりしたけど』

「でも一等美味しいのはナポリのですよ」

『そこ張り合うんだ』

「そりゃあね。ピッツァはやっぱり柔らかな生地の方が美味しいですよ」

『ふーん……?そこまで言うなら食べ比べしないと、ね!』

 笑い声を聞きながら、ぼくは頭の中で自分が知る限りのピッツェリアを並べ立てた。その中から彼女に相応しいのはどこだろうかと考える、そんなことさえ楽しく、目を細めた。

「ところで名前、今どこに?」

『え?……えっと、駅、かなぁ?』

「なんで曖昧なんですか。……まぁいいです。そこ、動かないで」

 耳を澄ませば聞こえてくるのは雑踏の囁き合い。混雑しているのは確かだ。ローマの駅というならテルミニだろうと見当をつけ、ぼくはミスタを呼んだ。
 『車を回してくれ』合図をすると、ミスタはにやりと笑った。最初から──そう、そもそもの始まりから彼はこの部屋にいたのだ──聞いていたのだから、もう何もかも諒解してるって顔。それでも彼は何を言うこともなく、ぼくの望み通りに部屋を出ていった。

「ぼくもそちらに向かいます。二時間くらいかな……。テルミニならカフェも多いでしょう?ともかく待っててください」

 ローマの玄関口、テルミニ駅。明るく近代的な造りのそれは観光客で賑わっている。故にコンコースには沢山の店が並び、待ち時間を潰すのにはもってこい。衣料品なんかも売っていたから、名前が退屈することもないだろう。
 悪くはない提案だ。そう自画自賛するが、しかし名前の反応は芳しくない。

『え、え?あの、嬉しいけど……忙しいんじゃないの?』

 戸惑いがちに。窺うように訊ねてくる様は名前らしくない。正確に言うなら、いつも彼女が演じている奔放な少女には。らしくもなくいじらしい声に、自然笑みが浮かぶ。

「平気です。それに可愛い妹のためですから。時間を作るくらいなんてことない」

 そうだ、ぼくは心底そう思っている。
 ぼくの妹。今ではもうたったひとつとなった繋がり。絆は血縁によるものだけではないと知っているけれど、それでもかつてのぼくが憧れ、諦めたものに違いはない。家族への愛情。普遍的で、ありふれたもの。──美しく、尊いもの。それをごく当たり前の人間のように大切にしたいとぼくは思った。

「ローマでしたね?どこ見ました?フォロ・ロマーノやヴァチカン博物館は?それとも君にはモンティ地区の方がいいかな。……案内しますよ、任せてください」

 以前観光客相手に『アルバイト』をしていたことがあった。だから彼ら向けの場所や話には注意を払っていた。……まさかその時の経験がこんなところで役立つとは。
 電話を肩と顎で挟みながら、ぼくは時刻表を捲った。ナポリからローマ。今から出ればちょうどいいくらいだ。
 立ち上がり、階下を覗く。中庭を突っ切るようにして走る自動車道には黒塗りの車が停まっていた。脇ではぼくに気づいたミスタが手を振り、彼と一緒にいたフーゴは何か言いたげにぼくを見上げた。でも最後には諦めたのかやれやれって顔で溜め息を吐いた。
 そうしたものを認め、満足するぼくに。

『あの、……ごめん』

 名前が口にするのは思いもがけない台詞。

『嘘じゃないよ、ローマにいたっていうのも本当。でもそれは昨日までの話』

 そこで一呼吸置き、それから。

『……今は、ナポリの駅にいるの』

 もう一度『ごめんね』と言う名前の声はしおらしく、しかし驚きに支配されたぼくには彼女を気遣う言葉がひとつとして思い浮かばなかった。