ミスタの妹になるU


 居並ぶ書棚。ページを捲る音。古びた紙の匂い。心地のいい静寂。図書館、その空間を構成するものたちに共通するのは程よい距離感。遠すぎず、近すぎず。他者に対して無関心ではあるけれど、しかし冷徹なのでもない。
 その隔たりが好ましいと。片隅で思いながら、ぼくは書棚を眺め歩く。背表紙に走らす視線。それはほんの一瞥ではあったがなんの問題もない。ギリシア哲学、ゼノンのパラドクス、アキレスと亀……そうしたものを瞬時に読み取り、手早く取捨選択していくその手。

「ぁ……っ」

 そこに自分のより一回り小さな指先がぶつかったのとほぼ同時。隣から響いたのは驚きと動揺。自然、声と手の主を探して目を落とし──「君は、」ぼくもまた目を丸くした。
 ぼくと同じ本を求めていたのはひとりの少女だった。白い膚と透き通った眸が印象的な娘だった。

「あの、……こんにちは」

 そう、吐息の合間に囁く声も、遠慮がちな微笑も記憶と寸分違わない。ミスタの妹。名前は名前。
 ただ一度きりの邂逅だった。あれは二週間ほど前のことだろうか。その彼女が今、ぼくの前に立っていた。

「ああ、えっと……どうも、」

 ──彼女のことが嫌いなわけではない。
 ただなんとなく気まずさを覚え、ぼくは曖昧に笑んだ。辺りは相変わらず静まり返っていて、遠くで学生たちの走らすペンの音さえ聞こえてくるようだった。そのくらいぼくの外側には隔たりがあって、なのに知らぬ間に彼女はすぐ傍に立っていた。そう、同じ本を目指して指先が触れ合うほどに。
 名前もまたぎこちない表情を浮かべた。口許だけのそれは歪で、なのにひどく『それらしい』。手慣れたもので、きっとこれが彼女にとっての当たり前なのだろうと推察。……したところで、生まれるのは同情だとか哀れみだとか、その程度の無責任な代物でしかないのだけれど。

「……ごめん、お先にどうぞ」

「いや、ぼくは特別読みたかったわけじゃないから」

「わ、私も……今すぐ必要とまでは、」

「あぁ、うん、……」

 そこでぼくらは顔を見合わせ小さく吹き出した。互いに譲り合っても埒が明かない。下らないやり取りだ。でもそれがおかしくて、愉快で──ぼくは抜き取った本を彼女に手渡した。

「『お先にどうぞ』」

 同じ言葉を返すと、ぱちりと瞬く瞳。それからすぐに相好を崩し、彼女は「ありがとう」と言って本を抱き締めた。
 ぼくとしても悪くはない気分だった。なんとなく、……純粋な反応が心地いいとさえ感じていた。
 だから気紛れを起こしたのだろう。席を取っていると言う彼女に、ぼくは相席をしてもいいかと訊ねた。他にも空きはあるというのにだ。
 とはいえ深い理由があるわけでもない。彼女に躊躇う素振りがあれば潔く引いただろうし、それで特別気を落とすつもりもなかった。
 でも彼女が「どうぞ」とあっさり頷いた時には内心安堵していた。……それだって深い理由はないはずだ。たぶん、きっと。
 ともかくぼくは彼女の隣に腰を下ろした。辺りには疎らに人影があった。恐らくは学生ばかりだろう。ペンを走らす音、密やかに交わされる言葉。その中でぼくは隣の少女に目をやった。暇潰しに選んだ本は脇に置いて。

「君、そういうのにも興味あるんですか?」

 彼女が手にし、かつてはぼくも手を伸ばしたそれは『亀に追いつけないアキレス』や『飛びながら静止している矢』について詳細に記されたものだった。
 実のところぼくも既に目を通した過去がある。だから余計にその本を選んだ彼女が気にかかった。以前ぼくが一方的に語った時には困った風であった彼女『らしからぬ』選択であったから。
 そう考え、問うと、彼女は「うん、最近は」と小さく顎を引いた。相変わらず秘めやかで葉擦れに似た響きの声だった。

「最近は?」

「あなたに……その、教えてもらったから、」

 そこまで言って、彼女は目を伏せた。
 図書館の照明は書物の保存を考えてか最小限に絞られていた。一等明るいのは手元にあるデスクライトくらいで、──それでもそこより上、浮かび上がる少女の横顔に散る朱はさしものぼくにも認めることができた。
 羞恥の滲む膚。手持ちぶさたにさ迷う指先。はにかみながら、彼女は「ありがとう」と言った。
 ──なぜ?

「あなたに教えられて、そういう見方もあるんだって知って。視野が広がった……っていうのは大げさかもしれないけど、……でも、少しは賢くなった、気がする」

 「気がするだけだけど、」と口早に言い添えた名前を、ぼくはただ凝視することしかできないでいた。
 以前のぼくが語ったのはひどく自分勝手な内容だった。ただ知識を挙げ連ねただけ、そこに彼女への配慮などはなかった。自分の気まずさを解消するのが目的で、だから彼女が恩義を感じる必要などありはしないというのに──

「そう、ですか。それなら……よかった」

 ぼくは机に積まれた本の背表紙に目を落とした。エレアのゼノン。ゲオルグ・カントール。集合論に無限の種類。数冊、どれもその手の本である。それだけで彼女が何を知ろうとしていたのかぼくには理解することができた。理解し、どうしてだろう──面映ゆさを感じていた。
 「勤勉ですね」……他に言うべき言葉はあるような気がするというのに、結局のところぼくが口に出したのはそんなつまらない台詞。
 今度はぼくの方が目を伏せる番だ。彼女を真っ直ぐ見ることができなくて、ぼくは頭の片隅で素数を数えた。そうしながらも目につくのは折れそうに細い指だとか硬質なまでに白い膚ばかり。自分の声すらどこか遠いものだった。

「そっ、そんなこと、ない……」

 対して名前は動揺も露。口ごもり、爪繰る指先が忙しない。迷いがちな唇は数度開いては閉じを繰り返し、「あの、」とやがてはおずおずと窺ってくる。

「少し、確認したいことがあって、」

 いいか、と言外に訊ねられ、ぼくは目線で続きを促した。ホッとしたような名残惜しいような、不思議な感覚が足元には残っていた。

「例えば無限のピストルズがいたとして」

「うん、……うん?」

 でもそれも続く彼女の語に容易く霧散する。
 ぼくはまじまじと名前を見た。底無しに広がる黒。兄譲りの眸はぼくの知るそれ以上に静かで、軽い失墜感さえ覚えるほど。覗き込むと足元は揺らぎ、問いかければ音さえ呑み込まれる。そんな具合に遠く澄み渡る眸は捉えどころがない。
 冗談を言っているのか、それとも真剣にか。判然としないまま躓くぼくに気づくことなく、彼女は薄氷のささめきめいた声を紡いでいく。

「彼らにそれぞれ部屋を与える。部屋は無限で、常に一部屋余分に用意しておくとする」

「……なるほど、」

「No.1にはゼロの部屋、No.2にはウーノの部屋、No.3にはドゥエの部屋……。そうするとアレフゼロのピストルズとアレフワンの部屋が存在する。どちらも無限だけど、部屋の方が大きな無限だってことになる。でもどちらも無限だから、結局は同じ、イコールで結べる……ここまでは合ってる?」

 そこまで聞けば彼女の言いたいことも理解できる。以前交わした言葉。今も机上に積まれた本。それから──不安げに揺れる眼差し。諒解し、ぼくは口許を緩めた。安心させるように、殊更柔らかく。

「ええ、大丈夫ですよ」

「そう。……よかった」

 笑いかけると、同じく綻ぶのは薄紅色の唇。
 硝子細工めいて繊細な、同時にどこか物悲しさを感じさせるのが名前という少女の容貌だった。寂寥だとか諦念だとか、そうした静けさを纏っているのが印象深かった。
 しかし、いま。花開いた顏から滲むのは同じ静寂ではあっても、温かみのあるそれ。陽の光の元にある石膏像のようだ、とぼくは思った。見た目には冷たく、けれど触れれば温かい。そんな気がした。……触れたことなど一度だってないというのに。

「でも私に理解できたのはここまで。……先は長い」

 呟き、名前が吐いたのは深い深い溜め息。嘆息は深刻げで、それがおかしくてぼくは笑った。

「わからないことがあったら聞いてください。ぼくだったら、いつでも」

 既に気紛れは起こしている。だというのに続けてこれだ。普段なら面倒ごとなんて御免、わざわざ他人と関わろうなんぞ思いもしないのに、彼女はぼくたちとは違うというのに──だというのに、気づけばぼくはそんなことを言っていた。
 相手がミスタの妹だからだろうか。名前がナランチャより真面目な生徒だからだろうか。──どちらも正しく、けれどそれだけがすべてじゃない。それだけは今のぼくでもわかっていた。

「本当……!?」

 ただひとつ。──歓喜に輝く貴石はやはり美しいものだと思う。

「こんなつまらない嘘はつきませんよ」

「わからない、明日には忘れちゃってるかも」

「そんなバカに見える?」

「見えない、見えないけど……」

 疑り深いのは自己評価の低さゆえか。「でも」「だって」を繰り返す彼女はひどく生きづらそうだ。ぼくは何とはなしに己の学生時代を思い起こした。理由は違えど、あまり愉快な思い出は残っていない。たぶんきっと彼女もそうなのだろう。そんなことを思った。

「じゃあ一週間後、同じ時間にここで」

 無理矢理に締め括ると、彼女は慌てて頷いた。だがまだ完全に信じたって風ではない。勢い任せに承諾しただけで、瞳には不安だとか疑念だとかが渦巻いているのが見て取ることができた。
 それでも嫌な感じはちっともしなかった。今はそれで十分だった。