原作前、真夜中の窓辺にて


 辺りの物音は死に果て、気だるい風ばかりが頬を撫でる。真夜中、名前は窓辺から夜空を見上げていた。
 月光は鉛の色、灰色の朧に霞む。街に残る灯りはといえば疎らに点在するばかり。殆どが宵に沈み、地上はおよそ廃墟。或いは石塊の荒野。その寂しげな様子は名前に遠い昔を偲ばせた。古代ローマを、ギリシアを、……十年前の輝かしい旅路を。

「眠れないのか?」

 声と共にパッと広がる光。眩さに、名前は目を眇める。

「ブチャラティ、」

 振り仰いだ先、居間の入り口に立つのはこの家の主。照明をつけた彼は、そのまま名前の元まで歩み寄った。歩み寄り、立ち止まり、名前の顔を覗き込んだ。

「ううん、……いえ、そうね、少しだけ」

 ほんの少しひそめられた眉。それは気遣わしげで、だから名前は否定するのを諦めた。
 ──聡明で、心優しいひと。そんなひと相手に取り繕ったところでなんの意味もない。きっと彼は看破してしまうだろう。
 そう察しがついたから、否定しかけて考え直し……名前はちいさく髪を揺らした。苦々しげな、或いは自嘲を含んだ笑みを添えて。
 するとブチャラティは「そうか」と軽く顎を引いた。でもそれだけだった。彼がそれ以上を問うことはなく、静かな目で名前を見ていた。

「カモミッラでも淹れようか、それとも話し相手の方が?」

「……うん、そうかも」

 固辞する言葉は容易に浮かんだ。そうするのが自然で、今までの名前ならそれが当たり前だった。ブチャラティのことは尊敬していたし信頼も厚いが、同じだけの申し訳なさも抱いていた。
 でも、と思い直し名前は素直に頷いた。でもきっと、彼ならそんな考えすら見透かしてしまうだろう、と。思い、つ、と視線を天に投げた。
 いつの間に──だろう。雲は流れ、月が顔を出していた。仄白い明かりは天鵞絨。ほんのりと浮かび上がる地上。対照的に曇りの晴れた空は華美。先刻までは見えなかった星座たちが輝かしく鎮座していた。

「きれいな夜空ね」

 思わず。呟いたのは先ほどまではそうとは思えなかったから。一人きり見上げた空は陰鬱で、閉塞感に溢れていた。
 昔は──十年前に見た星空は、あんなにも美しく感じられたのに。
 けれど一人きり見上げた空は寂しく、寒々しいばかり。そう思い、過ぎ去った時に焦がれた。美しいものを美しいと当たり前に思えたあの頃を。
 なのにそれがどんな形をしていたのか、声の響きはどんなだったかすら今ではもう薄れてしまったことに気づいて──泣きたくなるほどの痛みを覚えた。

「あぁ、だがオレはもっと澄んだのを知っている」

 隣に並んだのは十年前には出会っていなかったひと。
 「もっと?」名前は静謐な横顔を見上げた。眸は湖面。星屑を閉じ込めた目は天にも引けをとらない美しさ。彼のそれは広大な海原のようで、果てのない遠空でもあった。
 その目を緩め、彼もまた視線を落とす。穏やかな眼差しは天球の主のごとく。仄白い幕紗が己の元にもかかるのを名前は感じた。それは祝福のようだった。

「故郷の漁村からはここより遠くまで空を見ることができた」

「……私はあんまり」

 名前はちいさく笑い、首を振る。

「そうね、一時はそういう時もあったけど……ほとんどが星空とは縁がなかったわ」

 いつだって思い出すのはあの美しい日々。甲板から仰いだもの、砂漠から見上げた夜空。そうしたものだけが名前には必要で、それ以外のもので思い出を薄めたくなかった。美しい日々を美しいまま、永遠に閉じ込めておきたかった。

「それは勿体ないことをしたな。……いや、かえってよかったのか」

 そんな考えをブチャラティは知らない。知らないけれど、でも彼は名前を否定しなかった。慈しみに似た微笑で名前を、夜空を、そして眠りに就いた街を見下ろした。

「よく見ておくといい、ここは本当に……いいところだから」

 なんて温かいひとだろう、と名前は思った。世界をこんな風に見るひとを他に知らない。まるで神のような、なのに尊大さのない──清らかな眼差しだった。月も星も見惚れ、彼の前では従者のようだった。

「……いつか、お前にも見せてやりたいな」

 そのささやかな囁きすらも、宿るのは眩いほどの煌めき。息を呑み、目を奪われ──名前は夢想した。……夢見ずにはいられなかった。

「……それは、とても素敵な提案ね」

 名前は口許を緩めた。ブチャラティも笑っていた。その笑顔がこの先もずっと守られることを名前は星に願った。
 叶うなら──例えばそう、サンタ・ルチアにて。それはヴォメロの丘、遠くに望むのはヴェスーヴィオとナポリ湾。棕櫚の植わった通りを、彼と共に。港から見る夜空はどんなに透き通っていることだろうか、と名前は思った。

「そうだ、眠れないなら絵本でも読んでやろうか。オレも幼い時は母に読み聞かせをしてもらったものだ」

 ふ、と笑みの形を変え。揶揄いと懐古の混ざり合った顔をするブチャラティに、釣られ名前は破顔する。

「あなたが?……たとえばどんな?」

「そうだな、……エルマーの冒険とか」

「それ、名前だけは知ってる」

 確かそれはタイトル通り、エルマー少年による冒険譚だったはずだ。並んでいるのは図書館で見かけた記憶がある。

「読んだことは?」

「ないわ、たぶん」

 でもそれはどちらかというと少年向けで、買い与えられた覚えがない。たぶん父も母も名前が『やんちゃ』になるのを避けたのだろう。
 「私が小さい時は……そうね、」答えながら、記憶を辿る。小さい時、子供の頃の私はどうだったろう?穏やかな気持ちで過去を思い出すのは随分と懐かしいことだった。

「そういえばウォーターシップダウンのウサギたちを読んでもらった記憶があるわ」

「そっちは名前しか知らないな。イギリスのだったか?」

「そう。ちょっと宗教的な話よ」

 「へぇ?」と興味深そうに瞬く目。理知的な面差しに、名前はくすりと笑む。

「そういえばあなた、主人公に似てる気がする。なんとなくだけど」

「オレが?ウサギに?」

「勇敢でとても賢いのよ?」

 ウォーターシップ・ダウンのウサギたち。やがて訪れる災害から逃れるため、新たなる安住の地を求め、戦いと逃亡を重ねるウサギたちの物語だ。
 その主人公、ヘイズルは統率力が高く、判断力に優れたウサギだった。皆に慕われるブチャラティならぴったりだ。
 そう言うと、ブチャラティは擽ったそうに目を細めた。

「つまりお前にはオレがそう映っているということか」

「……そうね」

 名前は否定しなかった。ヘイズルが皆を導いたように、名前にとってのブチャラティもまた標の光だった。
 最初はただ己の目的──友人を探すことだけを考えていた。でもブチャラティに救われ、今の名前はある。ならばせめてその恩は返さなくてはならない。そう考えていたから、彼の望みは叶えたかった。彼が時折痛ましげに人々を見るのが切なくて──

「だから私にはなんでも言って。命令だって、なんだって」

 自分にできることならなんでもしてあげたかった。彼の手助けができる、それが名前にとって救いでもあった。
 ──そう、真っ直ぐに見つめると。

「……じゃあまずはベッドに入ってもらおうか」

 一瞬の暇をおいて。驚いたように目を見開いてから、それからブチャラティは悪戯っぽく片方の口角だけを持ち上げた。

「夜更かしは体によくないだろう?ほら、あんまりオレを心配させるんじゃない」

「……はーい」

 ……そういうことを、言ったんじゃないんだけど。
 はぐらかされたのがわかって、名前は密かに唇を尖らせた。その仕草がまた子供扱いを加速させるのだとわかっていたけど、でももう今さらだ。ブチャラティにとって名前はそういう存在なのだろう。

 ──もっと、頼りになるところを見せなくては。

「……ありがとな」

 決意に拳を握る名前の横。風に紛れるほどの囁きが落ちる。
 「……っ、」振り仰ぐ、けれどもうそこにあるのは深い微笑だけ。口は閉ざされ、聞き返すこともできやしない。

「……それは、私の台詞」

 だから名前はそれだけを答えた。問うことはせず、ただ静かに。笑いかけ、星に願った。

 ──どうかこの優しいひとの元に幸福が齎されますように、と。