司書と独歩

 人は人を好ましいだとか好ましくないだとかに分類する。段階があったり差異があったり、程度はそれぞれだがそうするのがごく自然なことである。名前だって御多分に洩れずそうだ。
 けれど、国木田独歩に対してだけは例外が生じた。
 彼のことは好ましいと思う。客観的に見ても、主観的に見ても。明朗闊達。気さくな態度。仕事においては真面目で、敵の情報を集めることに余念がない。彼の報告書は分かりやすく、かつ有意義なものとして期待されている。そんな彼を、名前は好ましいと思う。
 しかしそれ以前に。
 ――苦手だ、と思う。

「今日も一日よく頑張ったな!」

 国木田独歩、中野重治を新たに迎え、図書館はようやく本来の業務――つまりは文学書の保護に着手できるようになった。とはいえまだまだ人手は足りない。彼らが有碍書で戦っている間、名前はアルケミストとしての研究や特務司書としての雑務に加え、図書館の整備にも手を出していた。

「皆さんの方こそお疲れ様です」

 けれどそんなもの、体を張って戦っている文豪に比べればどうということはない。独歩に褒められても据わりが悪いだけだ。
 だから思ったままを名前は口にした。皆さんの方こそ。この『こそ』という部分に重きを置く。
 しかし独歩はそれを簡単に切り捨てる。

「なーに言ってるんだよ。どっちが大変かとかそんなの関係ないし比べようがないだろ」

 大切なのは今ここにいる『自分』だ。自然主義ゆえか、独歩はこういったものを殊更重要視したがる傾向があった。それも名前が苦手だと思う要因のひとつだ。
 そしてもうひとつは。

「アンタはよくやってるよ、えらいえらい」

 ――こういうところが、ダメなのだ。
 宵闇が遠ざかる春の夕刻、名前は図書館内に設けられた司書室という名の事務室にいた。上司にあたる館長の業務はお偉方との交流を主としているので、事務作業は名前の仕事となっていた。それを苦とは思わない。むしろ館長と役割を交代された方が困る。そんな日には胃を悪くしてしまいそうだ。そういった方面の才が名前にはとんとない。悲しいことに、祖父や父にはあった才能が名前まで流れてこなかったのだ。
 新たに発見された有碍書をまとめていると、就業時間の終わりを告げる鐘の音が響いた。手元の端末を見るとぴったり午後5時を回ったところだった。――もうこんな時間か。しかし書きかけの報告書を翌日に回すのもなんだか気が引ける。というより落ち着かない。
 考え、名前が座り直したその時。

「邪魔するぜ」

 開け放したままのドアに手をかけ、独歩が顔を覗かせた。「やっぱまだ残ってたか」言いながら、名前に歩み寄る。彼の手には紙の束があって。それで彼の訪問の意図は理解できたから、名前は慌てて立ち上がった。

「ほら、今日の報告書。気になったこととかこうしたらいいんじゃないかとか書いてたらなかなか時間かかっちまってな。わるい」

「いえ、独歩さんの報告書にはいつも助けられていますわ」

「そっかそっか、そう言われると俺もデータをとった甲斐があるってもんだ」

 からりとした笑顔。だのに彼は一向に書類を渡してこない。「あの」報告書、と名前が手を伸ばしても、ひょいと逃げてしまう。
 ――なぜ。
 困惑しきりの名前に、独歩は頭を掻いた。「俺だって意地悪したいわけじゃないんだが」言葉とは裏腹に、背中に隠される紙の束。

「今渡したら、アンタはこれも片づけようとするだろ。そいつは困るんでな」

 「困る、って」彼の意図が掴めない。だのに独歩は自分こそ困るのだと言う。困っているのは名前だって同じなのに。ちらりと目を走らすと、秒針が名前を急き立てるように円を描いているのが見えた。就業時間はとうに過ぎている。独歩だって、夕食を摂りたくないわけないのに。
 焦れる名前に、独歩はやれやれと零した。その目は聞き分けのない子どもを見るようだった。「俺がアンタの助手に怒られちまうってことだよ」

「頼まれてるしな、アンタを仕事場から引き摺り出して来いって。じゃねーと飯も疎かにするからってさ」

「秋声さんは過保護がすぎるんですわ。わたくし、自己管理くらいはできますのに」

 まるで、名前が駄々をこねてるみたいだ。
 でも食事についてまで心配されてはますます立つ瀬がない。心配されるのは嬉しい。良くないことではあるけれど、でもそれは嫌われていないという証だから。しかし名前が何もできない子どもだと喧伝されるのはたまらない。手を煩わせたくないし、何より呆れられるのが、見放されるのが怖かった。
 だから反論した。なのに独歩は名前の逃げ道を塞ごうとする。

「そう言ってるけどさ、今日も叱られたんだろ?一人で仕事片付けちまったって聞いたぜ」

「それは、その、皆様が戦いに出ている分、わたくしも仕事をと」

「だからって約束を反故にしちゃいけないだろ」

「それは」

 『人が集まったら掃除しましょうね』――そう言ったのは名前だ。そして破ったのも、また。

「そう、ですわね……」

 俯いた名前に、独歩は言葉を重ねる。

「アンタはさ、俺達を偉人だなんだと押し上げようとする。正直悪い気分はしねえ。認められるってのは嬉しいからな。でもアンタの”それ”は根本的なところがない。”そう”だから敬う。そこにアンタはいるのか?いや、いないだろう」

 ――その通りだ。
 名前は彼らを尊敬している。敬っている。でもそれは名前が始めたことじゃない。ずっと以前から”そう”だから。偉人として、彼らが世間に認められているから。歴史に刻まれているから。根拠とするところに、名前個人は存在しない。

「……おっしゃる、通りです」

 わたくしは、とても空虚なのです。告白しても、独歩は驚かなかった。彼は、(――いや、彼らは、)とうに見抜いていたのだ。
 「責めてるわけじゃないんだ。つーか、こういうのは俺の領域じゃないしな」そろそろと目を上げる。独歩は、眉尻を下げて微笑んでいた。怒っても、蔑んでも、いなかった。

「俺はさ、アンタの真面目なとこ嫌いじゃないって思う。でもな、俺たちはアンタよかずっと年上なんだ。頼ってもらわねーとメンツが立たねえ」

 名前の頭が撫でられる。穏やかに、柔らかに。「俺達の顔を立てると思って、な?」ほんとうに、子どもを相手するように。
 でも今度は抗おうとはしなかった。そうする気も起きなかった。ただなぜだか胸が締め付けられて。ひどくせつない(――たぶん、そう表すのがいちばん適切なのだろう)気持ちになった。子ども扱いを受けているというのに。おまけに、独歩は父でも母でも兄でもないのに(そう、すこしも彼らとは重ならない)、不思議だ。

「……はい、わかりました」

「約束だぞ」

「はい、」

 1度目は頼りなく、2度目ははっきりと。答えると、独歩は満足げに頷いた。「よしよし、」今度は先ほどよりも荒っぽく頭を撫でられる。ぐしゃぐしゃと髪が掻き混ぜられて、地面がぐらぐらする感覚。不快ではない。
 けれど。

「今日も一日よく頑張ったな!えらいぞ!」

 こんな風に臆面も衒いも何もなく、まっさらに人を褒める国木田独歩は眩しすぎて。
 ――苦手だ、と名前は目を伏せた。