原作前、ドゥオーモにて


 アントニオ・バボッチョ作の中央扉。ネオ・ゴシック様式のそれを抜けた先、高い天井の下、礼拝堂の中には数多くの信徒が詰めかけていた。
 ブチャラティもそのひとりで、司祭の語る言葉に耳を傾けていた。そしてそれは名前も同じだ。最初は「教区の人間ではないから」と遠慮していた彼女も今ではもうすっかり慣れたもの。熱心な眼差しで司祭を見つめていた。
 やがて大司教が細かな装飾の施されたガラス瓶を取り出すと、それに合わせて群衆の目も一層熱を帯びる。期待と僅かばかりの不安。しかし司祭はそれを感じさせない顔つきで瓶をゆっくりと振り始めた。
 容器の中に入っているのは赤黒い液体。いや、元々は凝固していた血だ。だがそれは司祭の動きと共に揺れ、そして──

「あぁ、よかった……」

 溶け出し、緩く波打つ血液。ナポリの安寧を示す奇跡に、固唾を飲んで見守っていた名前も溜め息。安堵に胸を撫で下ろし、つい、とばかりに呟く言葉は敬虔な教徒らしいもの。
 ガラス瓶を持ち上げた司祭はそのまま居並ぶ教徒たちの元へと歩み寄る。迎えるのは歓声。司祭は微笑み、教徒たちの額や胸にガラス瓶のついた杖をかざしていく。祈りの言葉と共に。
 そのうちにブチャラティたちの番も回ってきた。ブチャラティ、そして名前の順に宛がわれるミラーコロの一端。目を伏せ、腕を組む名前。その額に触れるガラス瓶。司祭の紡ぐ祈りの文句。

「…………、」

 名前の唇が聖人の名を囁くのを、ブチャラティは横目で眺めていた。どこか遠くのものを見るように。……何かを懐かしむような不思議な心地で。




「やっぱり緊張するわね、私は二度目だけど……でも『もしも』って思っちゃうもの」

 ドゥオーモ通りを南へ。教会を出て、駅のある方へと向かいながら、名前は夢見がちな声音で呟いた。

「だから本当によかった。これでまた当分は安心ね」

「ああ、そうだな」

 ブチャラティは静かに相槌を打ち、隣を歩く名前を見下ろす。
 サン・ジェンナーロの奇跡。血の融解が起こらない年にはナポリに大災害が齎される、と長らく信じられてきた。
 名前もそのひとり。この街の人間ではなかったが、液状化は奇跡によるものと心から信じているらしかった。ブチャラティとしては内心思うところが──この奇跡があまりにタイミングよく起きるものだから──ないわけではなかったが、それを口にすることはない。未だ興奮の残る名前を微笑ましく見守った。
 そんなブチャラティを見上げ、名前は小さく首を傾げる。「あなたはこんな時でも冷静なのね」と。

「まぁあなたらしいと言えばそうなんだけど。でももっと有り難がってあげないとご加護をいただけなくなっちゃうかも」

 今日は特別な聖人の日。だから街に並ぶ店もその殆どがお休み。街の人間はここかしこに居たが、皆のんびりと日差しを浴びていた。彼らの顔には安堵に満ちた笑顔があって、街は信仰心で溢れていた。誰も彼もが聖人の守護を信じていた。
 だからこそ、だろう。名前のこの言葉。そう言いながらも、彼女の目には悪戯っぽい光が瞬いていた。信仰心の厚い彼女ではあったが、それを他人に強要する気はないらしい。反応薄いブチャラティを非難することなく、むしろ愉快がっているようであった。
 「……それは困るな」そんな彼女に釣られ、思わず緩む頬。笑いながら、ブチャラティは名前の頭を撫でた。

「だがオレの分もお前が祈ってくれるなら大丈夫だろう」

 言うと、パッと輝く名前の目。

「ま、任せて!ええ!あなただけじゃないわ、私、みんなの分もたっぷりお祈りしたもの……きっと何もかも上手くいくわ」

「それは頼もしいな」

 胸を張る名前に、知らず笑みが溢れる。
 彼女の言葉は清澄無比。例えるなら……そう、地平から滲み出る黎明。爽やかな風の吹き抜けるナポリ湾。キラキラと日の鱗粉を照り返す水面。空に煙るヴェスーヴィオの緑。そうした果てのない眺望を思い起こさせた。
 目を細めるブチャラティに、「……、」しかし名前はふと口を噤む。

「名前?」

 何かに思い至った、といった風。そんな彼女に今度はブチャラティが首を傾げる。
 と、「ううん……」それでもなお洩れるのは物思いに耽る声。深く考え込むように目をさ迷わせ、やがて名前はひたと真っ直ぐにブチャラティを見上げた。

「あなたがその……手放しで喜べないのはもしかして……何か他に……気にかかることがあるからじゃないかと思って、」

 ──名前は時々、恐ろしいほど察しがよくなる。

 ブチャラティが心中を明らかにしたことはない。麻薬という禁忌を他でもないパッショーネが犯していること。それが故に生まれた不信感。なのに身動きの取れない現状への煩悶。そうしたものを悟らせるような言動は取っていない、……そのつもりだった。
 なのに彼女は──確かに以前よりその兆候はあったが──明確な問いとして、いまブチャラティに訊ねていた。

「そう、だな……」

 対して口から溢れるのははっきりとしない答え。ブチャラティは言葉を探し、思考を巡らした。
 たぶん何を言っても名前は受け入れたろう。例えはぐらかしたって、彼女のことだから物分かりよく頷いてくれたはずだ。いつも通りの、変わりない笑顔で。「しょうがないわね」と大人びた微笑みを齎してくれたろう。

 ──けれど、本当にそれでいいのだろうか?

 彼女を巻き込みたくはない。もしも──もしも、だ。まだ踏ん切りはつかないでいる──組織を裏切るとして。もしも絶望的な戦いに身を投じるとして。……それになんの因縁もない彼女まで巻き込みたくはなかった。
 知ってしまったら、優しい彼女のことだ。我が事のように悲しみ、この街のために力を尽くしてくれるであろう。そう、ブチャラティが打ち明けてしまったら。──否応なく彼女は巻き込まれてしまうのだ。
 でもだからといって取り繕うのにも躊躇いがある。何故だかはわからないが──彼女には誠実でありたかった。真っ直ぐな目をした、彼女には。惜しみない信頼と敬意と愛情を向けてくれる彼女には。

「……確かに、お前の言う通りだ」

 ブチャラティは苦笑し、言葉を続けた。

「そうだ、気がかりがある。オレには、ずっと……」

「ブチャラティ……」

「それに近頃この辺りでスタンド使いが増えてるって話も出ているからな」

 それでもやはり、すべてを詳らかにすることはできない。言葉にするにはあまりに重すぎるそれ。だから代わりに口にしたのはもうひとつの懸念事項。まだ噂に過ぎないが──見逃すことのできない情報であった。
 それを告げると、名前は瞬きひとつ。

「そうなの?それって組織の人間だけじゃあなくて?」

「いや、そこのところもまだ明らかじゃないんだ。そう『らしい』ってだけでな……」

「そう……」

 名前は眉間に皺を寄せ、顎に手をやった。

「他にも『矢』を使う人がいるのかしら……」

 聞こえた呟きは憂慮に揺れていた。そしてそれはブチャラティにも覚えのある内容だった。
 『矢』と言われて一番に思い浮かぶもの。今は幹部であるポルポの手で保管され、入団試験に利用されているもの。それが資格のある者からスタンド能力を引き出す力を持つのを、ブチャラティはよく知っていた。

「『矢』はあれっきりじゃないのか?」

 だがその『矢』をブチャラティは他に知らない。ポルポの手にある今、新しいスタンド使いが生み出されたならブチャラティの元にも連絡が来るはずだ。だというのにブチャラティの関知していないスタンド使いが『矢』によって増やされているのなら──それはきっとあれ以外の『矢』によるものだ。
 そう訊ねると、名前は曖昧に笑った。「そういうことになるわね」と。

「たぶんきっと……ううん、間違いなく『矢』は他にも存在してるわ」

 名前にどうしてそんなことがわかるのか。聞きたかったが、ブチャラティにそれ以上問うことはできなかった。秘密があるのはブチャラティも同じだった。それを誰より理解していた。……理解しているのに、少しだけ胸が痛んだ。
 そんなブチャラティの手を取って、「でも大丈夫よ」と名前は笑みを晴れやかなものに変えた。ジェンナーロの奇跡を目の当たりにした時のように。果てのない信頼を瞳に湛え、彼女は笑っていた。

「心配する必要なんてない、だって幸福は約束されているんだもの……だから、ね、アンドラ・トット・ベーネ──何もかもすべてうまくいくわ」

 それはこの国では使い古された台詞だった。その言葉を名前は心から──真底からそう思っているのだという響きで──紡いでいった。朗らかで、自由で、溌剌としていた。その笑顔を知っているから、まったくの不幸になりきることが不可能だったと思わせるほどに──清らかに澄み渡っていた。

「……お前が言うならきっとそうなんだろうな」

 なんとなく、『敵わないな』と思った。彼女の選ぶ言葉ひとつひとつでこんなにも心は揺れ動く。沈みがちな心は浮上。みなれた街角、古びた石畳、そんなものさえ天国のように美しかった。胸に湧き出るのは温かなもので、心地のいい熱だった。