原作前、日暮れのナポリ湾にて


 水平線に沈む陽。ナポリ湾の黄金時代。鮮やかな反射は海面に伸び、名前たちの元へも。海岸線を歩く足元、見上げた先にあるブチャラティの横顔、その深い色合いの瞳までもを染め上げている。

「『ナポリにくると皆気がふれるというのも無理ならぬ話である』……」

 その姿、光景に、思わず口をついて出たのはとある紀行文の一節。
 『沈みかけた太陽が反対側から差し込んでいるところであった』、『人々が何と言おうが語ろうが、また絵に描こうが、この景観の美はすべてにたち超えている』……彼が初めてナポリ湾に立った時もこんな気持ちだったのだろうか?そう考えずにはいられなかった。
 そんな名前の呟きに、ブチャラティは「ん?」と小さく首を傾ぐ。
 さらり、音を立てて流れる黒髪。その絹の如き色艶。輪郭を彩るのはけざやかなる夕陽であり、瞳に宿る煌めきは宝石に等しい。黒真珠、黒曜石。そんなものの化身であるように思われ、名前は目を細めた。

「ゲーテよ、『ナポリに思い焦がれていたために全く不幸になりきるということが不可能であった』……って。今なら彼の気持ちがよくわかるわ。……とてもきれい。それしか思い浮かばないくらいに」

 ──或いは、それ以上に。

 だってゲーテの傍らに彼はいなかった。だからもしかすると名前が今見ているのは彼が見たそれよりもずっと遥かに尊く、美しいものであるのかもしれない。そう考えるとなおのこと愛おしさは募り、胸が熱くなる。
 そんなこととは露知らず。でもブチャラティは名前と同じように口許を綻ばせた。静かに、けれど鮮やかに。

「……ありがとう」

 囁きは秋風に浚われていった。でもいつまでも名前の心に残った。
 その微笑は慈愛溢れる聖母に等しかった。少なくとも、名前にとっては。彼はまるで我が子を想うかのような目で、声音で、名前に応えた。母のような深い愛でもって、この街への賛辞を受け止めた。
 それを名前は噛み締めた。耳で、心で。噛み締め、味わい、しかしそれを悟らせぬよう──この静謐な安寧を壊すことのないよう──名前は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

「あら、お礼なんていいのよ。むしろ私の方こそ感謝しなくちゃ」

 荷を抱え直すと、紙袋がかさりと音を立てる。
 細やかなそれすら日常の彩り。詰め込まれた思い出の尊さに、緩む頬は抑えられない。それはもう、腕にかかる重力すらも気にならないほど。
 袋には摘んだばかりの葡萄が詰め込まれていた。葡萄園で収穫の手伝いをした帰り道、お土産にと渡された紙袋は二人で抱えてやっとという量。それほどの厚意を人々が向けてくれるのは、ひとえに相手がこのブチャラティであるからであろう。
 漂う芳しい香りに、名前の足取りは軽かった。

「だがお前には別の道もあった。……だろう?」

 しかしそれとは対照的なのが当の本人である。彼はとても冷静で、そして他人を自分以上に思いやれる人だった。
 だからこそ名前は彼の言葉に否と首を振る。

「そんなことないわ、あなたに拾われなきゃ私、野たれ死に確実だったもの」

 ナポリの経済状況は決していいとは言い難い。それは名前のように身寄りのない者ならなおのこと。その日の宿さえ手に入れることは叶わなかったろう。
 そんな名前を損得勘定抜きに拾ってくれたのがナランチャであり、その身を引き受けてくれたのがこのブチャラティである。──慕わしく思うなという方が難しい話だ。

「あなたはヒーローよ、ナランチャが憧れるのもよくわかる」

 名前は微笑み、隣を歩く彼をひたと見据えた。
 すると返されるのは仄かな笑み。

「……オレは止めたんだけどな」

「ならいいじゃない。それでも私たちはここにいる、それってつまりナランチャも私も自分で決めたってことでしょう?例えあなたに止められようとね」

「……まったく、困ったやつらだ」

 その言葉通りに下げられた眉と、けれど瞳は「仕方ないな」といわんばかりに柔らかなもの。彼は父であり母であり兄であり──そのいずれも正しくはなかった。
 名前の手は知らずうちに胸元のロザリオを手繰っていた。無意識のうちに唱えるのは尊き主の名……ではない。なんじは我が愛しむ子なり、我なんじを悦ぶ──名前には彼以上に相応しい者が思いつかなかった。
 しかしそんなこと口には出せない。名前は彼の腕を軽く叩いて、その手に抱かれた荷を指し示した。

「帰ったら早速ワインを開けましょうね。楽しみだわ。あぁ、これもあなたのお陰ね。あなたがいなくちゃこんな美味しい葡萄だって食べられなかったわ」

「大袈裟だな」

 冗談とでも思っているらしく、ブチャラティは名前の言葉に笑みを溢した。彼はとても聡明であったけれど、同時に自分のこととなるととことん鈍感にできているらしい。
 人々の尊敬の眼差し、愛情に満ちた声、向けられる厚意。そのすべてを彼は己の背後にある組織によるものだとでも思っているのだろうか?──まさか!他の誰だって彼ほど『名誉ある男』ではいられなかったろう。
 鈍いひとね、と名前は内心呆れた。鈍いひと──でもだからこそこんなにも愛おしく思えるのかしら、と。

「ねぇちょっとつまみ食いしてもいいかしら?いいわよね?ね?」

「少しだけだぞ」

 レディらしくない、と思ったけれど、風と共に鼻孔を擽る芳醇な香りに喉が鳴った。日本のより大粒で、鮮やかな緑色。
 ねだると、ブチャラティはやっぱり「仕方ないなぁ」って顔をした。でも名前はその表情が好きだった。彼の前では子供のように振る舞うのが心地よくてたまらなかった。甘えているのだと自覚していても、それすら彼なら受け入れてくれるのだとわかっていた。

「ん〜!モルト・ブォーノ!」

 歯に感じるのは瑞々しい弾力。それから弾けるのは深い味わいと甘やかな果肉。食むというより味わうといった方が適切な日本のそれも大変好ましかったが、この国の歯応えある葡萄もなかなかに美味である。

「さすが摘みたて!あぁでも皮が固いのは難点ね、こんなとこで食べるんじゃなかったわ」

 剥いてから、指に残る皮の存在に気づき。どうしようかと暫し悩んでから名前はそれを「えい」とばかりに口に放り込む。
 舌に残るのはざらりとした感触。渋味に、自然寄るのは眉である。でも吐き出すわけにはいかない。そんなのはレディ以前の問題。人間として如何なものかと思ったから、名前は無理矢理に嚥下した。
 すると、その様がよほどおかしかったのか。ブチャラティは小さく吹き出し、「ついてるぞ」と名前の頬を指の腹で拭った。
 本当に彼の子供にでもなった気分だ。それはさすがにと名前でも思う。思ったから、羞恥に頬が熱くなった。なんだか彼の前でだと調子が狂う。心までずっと昔に巻き戻ったようだ。
 そんな名前を置き去りにして、ブチャラティもまた房から一粒摘まみ上げる。そしてそれをそのまま口の中に放り込んだ。

「皮ごと食べればいいじゃないか。みんなそうしてるぞ?」

「ええ?こんな固いのに?」

「栄養あるからな」

 ごくりと動く喉。皮を剥くことさえしなかった彼はそれが当然といった顔。なるほど、この国ではこれが当たり前なのか。そんな些細な発見に名前は唸った。

「う〜ん、これが国境ね。面白いわ」

「そう言う名前の食べ方は上品だな」

「それだって私のいたとこじゃ普通よ、普通。みんなそうしてたわ」

「ふぅん?……さて、どこだろうな」

 彼の背後には沈みかけた陽があった。それは彼の輪郭を縁取り、彼という存在を際立たせていた。あまりに眩しく、美しく──けれど目を逸らすことができなかった。後光の中の聖人。ラファエロの描いたその人。名前は彼を取り囲む預言者や、空より見守る神や天使の姿さえも幻視した。
 そして名前に生まれたのは、己が白い光の中にあるのだという確信であった。

「日本よ、日本……生まれも育ちもね」

 言うと、ブチャラティは目を瞬かせた。──意外そうに、或いは虚を突かれたといった風に。
 それは名前の答えが信じがたいものであったからなのか、それとも名前がなんの躊躇いもなく真実を語ったからであるのか。……もしくはその両方か。
 ともかく感情を露にするのが珍しくて、名前は笑いながら人差し指を立てた。

「でもみんなには内緒よ?あんまり話せるようなことはないから」

「……ああ、わかった」

 彼は静かに顎を引いた。

 ──どうして真実を語ったのか。

 今まで核心に迫るようなことは一度だって口にしなかった。それが最善であり、彼のためでもあると思った。
 でも今、名前の唇は自然と真実を紡いでいた。偽ることなんて頭から抜け落ちていた。最初から思いつきさえしなかった。そして後悔もまたどこにも存在しなかった。彼に何もかもを打ち明けたいと思うのと同じだけ、彼のことも知りたいと思っていた。

 ──今はまだ、問うことはできないけれど。