原作前、冬の街角にて


 十二月。月を跨いだその瞬間から街の至るところにクリスマスの気配が漂い出す。通りに用意された大きなツリー。庭を彩るイルミネーション。見るだけで心が踊る景色だ、と名前は思う。
 が、しかしそれは名前に限った話ではない。

「もーすぐナターレかァ〜……わくわくするなっ!」

 そう言って笑いかけるのはナランチャ。純粋なこの少年は死にかけの名前を救ってくれただけでなく、まるで母か姉のように慕ってくれる。それが名前としては嬉しくてたまらない。なんというか、……母性本能を擽られるのだ。
 名前は「そうね」と口許を緩め、右腕に抱きつくナランチャに「当日予定はある?」と訊ねた。

「ないなら……ね、一緒にお祝いしたいわ。いいでしょう、ブチャラティ?」

 名前が問いかけたのはもう一人の同行者。共に本日の仕事を終えた仲間であり、居候先の家主でもあるブチャラティはナランチャの反対側、名前の左手を歩いていた。時折声をかけてくる住人たちに柔和な笑みで応えていた彼は、名前の問いかけに「あぁ、もちろんだ」と顎を引いた。
 その言葉を聞いた途端、ナランチャは目を輝かす。「やりぃ!」歓声に、微笑ましく目許を和ませるのは名前もブチャラティもおんなじだ。

「だがそれなら他の奴らにも声をかけないとな」

「そうね」

 ナターレ。日本でのクリスマスといえば恋人たちの一日。だがこの国では家族と共に過ごすのが一般的だ。この日のために帰省する人たちだっている。
 だがナランチャはそうではない。ブチャラティもだ。となるとチームの皆も……それぞれに事情を抱えているということだろう。第一そうでもなければこんな世界に一人、若くして飛び込むこともない。彼らに直接訊ねたことはないが、感じ取れるものが名前にもあった。

「去年はどうしていたの?」

「うーん、……どうだったっけ、ブチャラティ?」

 早々に思い出すことを諦めたナランチャはブチャラティを振り仰ぐ。そんなブチャラティもまた顎に手をやり、考え込む仕草。記憶を辿り、

「特別約束はしてなかったが……、確かなんだかんだでいつものリストランテに集まってたな」

 そう言ったブチャラティに、名前は「それじゃあ、」と手を叩く。

「今年は私が用意するわ。あなたのキッチンを借りることになるけど、」

「それを言うのは今さらだろう?もちろん構わない。助かるよ」

 微笑みひとつ。それだけで名前の胸は温かくなる。世話になっているのは名前の方だというのに、こうして何度だって感謝の言葉をくれる。そんなブチャラティは尊敬に値する人だ。とても好ましい、そう、何度だって思う。……思わされてしまう。
 そんな名前の右隣、ナランチャは「名前が作んの!?」とキラキラ輝く目を向けてきた。

「やったッ!オレさ、パネトーネが食べたい!」

「いいわよ、他には?」

「他……ええっと、トッローネもいいし、パンドーロも欠かせないよなァ……」

「やだ、ドルチェばっかりじゃない」

 指折り数え、挙げ連ねる。その様子を見守って、しかしそのいずれもが甘いお菓子であるのに気づき、名前はナランチャの鼻をつついた。なんだか母親にでもなった気分だ。
 それでもナランチャはへこたれない。「だってオレ、肉よりそういうのの方が好きだもの」と口を尖らす。その様はとても十七の男の子とは思えない。年下のフーゴが彼に対しては兄のように振る舞うのも納得だ。
 そして名前はといえば、

「しょうがないわね、特別よ」

「えへへ、ありがと」

 ──そんなナランチャに大層甘かった。
 蕩けそうなほどに相好を崩し、名前はナランチャの頬を擽る。するとナランチャもそれに応え、擦り寄せてくるのだからたまらない。どれだけでも甘やかしてやりたくなってしまう。
 そしてブチャラティはブチャラティで「たまにはいいだろう」と頷いているのだから、彼も彼でナランチャには甘いところがある。いや、もちろん仕事の上では厳しくしているのだが……彼もまた父性を刺激されているのかしら、と名前は密かに思った。

「だが肉もちゃんと食べるんだぞ。お前はただでさえ食が細いんだ」

 そう言ったブチャラティに、名前は「そうよ、ナランチャ」と続きを引き受けた。

「野菜を食べてくれるのはとっても嬉しいけど、……心配だわ」

「わ、わかってるよォ……」

 二人に言われ、ナランチャはたじろぐ。
 そんな彼に内心怯む。が、甘やかしたいと思うのと同じだけ彼には健やかに育ってほしいとも思っているのだ。名前は彼の姉でもまして母でもないが、それが偽らざる本心。
 だから「本当かしら?」とナランチャの顔を覗き込んだ。

「やっぱり今夜も一緒にご飯食べましょ。それがいいわ、ね?ブチャラティ」

「そうだな、名前としてもその方が作りがいがあるだろう」

 答えるブチャラティの目に瞬くのは悪戯っぽい光。大人びた彼ではあるけれど、本当はノリのいいところもあるのだと知ったのはつい最近の話だ。

「名前の願いを聞いてやってくれないか、ナランチャ?」

 ……彼は実に上手いことナランチャを追い込んでくれる。尊敬する彼にそう頼まれて断れるナランチャではないと知っているはずなのに。
 いや、知っているからこそブチャラティはそう言った。そしてナランチャは彼の予想通りに「うっ」と喉を詰まらせ、

「……しょ、しょうがないなァ〜」

 最後には不承不承、そういった体で首肯した。でも本当に嫌がっているわけではないと名前にはわかる。そして、ブチャラティにも。
 「……」名前はそっとブチャラティに目をやった。ブチャラティもまた、同じように。それから名前は「ありがとう、ナランチャ!」と自分とそう変わりない少年の体を抱きすくめた。

「わっ!もォ〜、いきなり飛びつくなよ〜」

「だって嬉しいんだもの。あなたがいるとね」

「そ、そう?へ〜……そっかァ〜……」

 触れ合う頬は冷たく、吐く息は白い。石畳の鳴らす足音だって寒々しく乾いている。
 でも名前には見える景色すべてが輝いて見えた。プレゼーピオの屋台、賑やかに飾りつけられた広場。そうしたもののためだけではない。隣に心から大切だと思える人がいるからだ。
 それを名前は理解していたから、ナランチャとブチャラティの手を握った。

「プレゼントも考えないとね」

「そうだな、楽しみにしててくれ」

 一瞬驚いたように目を瞬かせたブチャラティ、……であったけれど、すぐにその目は柔和に弧を描いた。とても温かな眼差しだった。冬の寒さなんて気にならない。そのくらいに温かで、穏やかで。──尊いものだと、名前は思った。