みをつくし


 親指で、ナイフの柄の中央をおさえる。強く、まっすぐ突き刺せるように。名前は深呼吸をして、ナイフを構えた。相対する透は受け身の姿勢のまま。やはり、フェイントは効きそうにない。
 名前は右足を出した。一息。それで距離はなくなる。打つように、ナイフを振るった。
 その手を、透の手首が鋭く打ちつける。腕刀部での防御方法。名前の視線が下がるのに合わせて、彼はもう片方の手を握りしめ、胴体の前で構えた。そのまま斜め前に重心移動を行い、ナイフの軌道を変えようとする。
 その前に、名前はバックステップで退いた。このままいけば顎の下に拳がめり込んでいただろう。だから腕を引いたはずみで後退した。この間も、相手の全体図から目を離さない。それはもちろん透も同じだが。
 今度は、透の方から動いた。自然な体勢から助走をつけて拳を突き出す。狙いは顎。彼が距離を詰めたいというのは分かっていたから、名前も踏み込み、入身した。そのまま体の中央めがけて足を蹴り上げる。

「……っ」

 透は倒れなかった。けれど体がよろめいたのは確かだったから、名前はナイフを逆手に持ち替えた。そのまま、上から下へななめに振り下ろす。
 ナイフが触れる、その瞬間。透は傾いた体をひねらせた。ナイフを持つ手の内側に左腕を滑り込ませ、右手で名前の衣服を掴んだ。
 折り重なるようにして倒れこみながら、名前の腹部には鈍痛が走った。透の膝蹴りが入ったのだ――そう理解した時には、既に二人は敷き詰められたマットの上に転がっていた。
 名前は透の上から起き上がり、ヘッドガードを脱いだ。それから、サポーターの類も。プラスチック製のナイフが投げ捨てられた横で、透も同じようにトレーニング用品を外していた。
 バーボンが借りたマンションの一室――トレーニングルームと決めた部屋で鍛錬するのが二人の日課である。

「今日はこのくらいにしよう」

 額の汗を手の甲で拭いながら言う姿さえやけに爽やかなのはなぜだろう。立ち上がった透を、名前はねめつけた。

「……勝ち逃げはずるい」

「じゃあもう少し続ける?昼食が遅れてもいいっていうんなら付き合うけど」

「……よくない、です」

 なんだか、試合にも負けて勝負にも負けた気分だ。
 気落ちする名前の頭に、透は手を置いた。容赦なく名前を打ったその手で、今度は労わるような優しさでもって包んだ。
 「ご褒美に今日はキミの好きなものを作ろう」こうして撫でられていると本当にペットにでもなったような感覚がする。その証拠に、名前の気分は上向いた。決してご飯に釣られたからだとか、そういうわけではない。

「まぁ、いい気晴らしになったよ」

 昨日のことか。百貨店での爆弾騒ぎとジンによる勘違い。「災難だったね」と名前は言った。本当に、災難だった。
 差し出されたペットボトルを受け取る。中身は水。水分補給はこまめに行わないと、身体が2%水分を失うだけで頭痛や疲労、血圧の低下を引き起こす。なんて蘊蓄を名前に聞かせたのもバーボンだったと思う。

「ボスもそういうことくらい知らせてあげればいいのに。もちろん、一番はジンがお伺いを立てるっていうのが筋なんだけど」

「”頭を撃ち抜いたはずの標的が生きてたんですが、いったいぜんたいどういうことなんですか”って?」

 透は鼻を鳴らした。「そんなの聞けるわけないさ」名前もこれには同意見だ。ジンがそんなことするはずもない。
 ペットボトルの中身を呷り、透は壁に背中を預けた。肩にかけたタオルで顔を拭う。名前も隣に並んでペットボトルを傾けた。

「あの方ってのはいつもあんな具合なのかい?」

 名前はごくりと水を嚥下した。「……そうだね」なんでもないような顔をしているから、名前もそれに倣う。「私もあの方に会ったことはないけど」と前置きして、記憶を辿った。

「”お父様”伝いで話は聞いたことがある。といっても、内容は既に知れ渡っているようなことだけ。とても慎重な質で、固定電話が大嫌いだとか、そんな話」

「キミの”お父様”は亡くなってたっけ」

「もう5年も前にね」

 聞きたいのはそんなことじゃないだろうに。もどかしさを堪えて、名前は答えた。

「病死って聞いてる。リブロースが大好物だったからさもありなんって感じだけど」

 真実がなんだろうと、名前に興味はなかった。
 そもそも名前に血の繋がりのある父親は存在しない。いや、いるのかもしれないが、今となっては探す手立ても意欲もなかった。
 “お父様”というのはフェンリルの生みの親――というより、実験の主導者である。犬と闘犬が好きで、いつも傍らにアイリッシュ・ウルフハウンドを控えさせていた。

「ボスとは古い付き合いだったらしい。でも目的までは一致してなくて、金以外に優先すべきものがあるなんて信じられないって言ってた」

 透は無言だった。相槌もなかった。それは関心がないようにも、一字一句逃さないようにも見えた。
 名前は俯いた。両手の汗を背中で拭う。水を飲んだばかりなのに口が乾いて仕方がなかった。

「……もしかしたら、ボスはすぐ近くにいるのかもしれない」

 そこでようやく透は反応を示した。揺れる肩。目を閉じ、ゆっくりと呼吸する姿を視界の端に捉えた。
 「……それは、日本に、という意味で?」そう言った透の声も掠れていた。だから名前も躊躇なく頷けた。

「じゃなきゃこんな極東の地で大きくことが動くはずない。ボスはボスじゃない誰かとして日本にいるように思う」

 これはあくまで仮説だ。一兵隊の妄想。
 通常なら笑うところだ。何をバカな、と。それは気にかけるようなことじゃあないと。
 だが透はそのどちらもしなかった。張りつめた空気を纏っていた。
 「キミは、」言いかけて、彼は口を噤んだ。「いや、なんでもない」その問いがなんなのか名前には分かっていたけれど。それでも口を噤むしかなかった。