司書と紅葉と秋声

 「汝に必要なのは経験であろうな」とは尾崎紅葉の弁だ。

「そうは言ってもこういったことは当世風ではありませんし、わたくしには非効率だとしか思えませんの」

 揚げたてほやほやの鶏肉を移し替えながら、名前は秋声相手に口を尖らせた。「そりゃあ、」紅葉先生のおっしゃることは尤もだと頭では分かっているのですけど。そう言いながらも手は休めない。唐揚げは続々とフライパンから掬い上げられ、秋声の持つトレーの上に並べられていく。集まった文豪はまだ数えるほどであるが、大食漢が一人いるので結構な量だ。確かに非効率的だな、と現代に馴染んだ秋声は思う。家事の一切を機械が行う、この時代では。

「でもだからこそ先生は名前に必要だと考えたんだろう」

「そう、なのでしょうね」

 トレーに移した唐揚げを、千切りキャベツの積まれた皿にまた移し、切ったレモンを添える。これで本日の夕食は完成。あとは各々好きなだけ白米を盛ればいいだけ。

「おお、やっと来たか」

 名前に命じた巨匠は、「待ち草臥れたぞ」などと宣う。あなたが命じなければ待ち草臥れることもなかったのですよ。……こう言うのは意地が悪いだろうか。
 そう考え、名前は言い回しを変えた。「待ち草臥れさせないために、現代では機械化が進んでおりますのに」でも結局、恨みがましい気持ちは隠せなかった。
 怒らせてしまったかしら、と紅葉を窺ってみるも。さすが先生というべきか。本心の読めぬ顔で笑っていた。それどころかどこか楽しそうにすら見える。「それではつまらぬだろう」――はて。何がつまらぬと言うのだろう。
 配膳を終えた秋声が最後に席に着いた。いただきます。手を合わせ、箸を運ぶ。紅葉はゆったりとした手つきながらされど優雅に食事を進める。気品ある所作。向かいに座しているから名前からはよく見えた。「うむ」ひとつ、唐揚げを嚥下して紅葉が頷く。

「悪くない。濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい塩梅だ」

「それはレシピ通りに作っているからですわ」

「いいや違うな。汝の論でいくと機械が作ったものも美味であるはずだ。だが我が食したあれはとても食べられる代物ではなかった」

「そう……でしょうか?」

 名前には紅葉が来る前の食事も来た後の食事も違いがあるとは思えなかった。まして自分が作ったものの方が美味であるなど、到底。

「ああそうさ。なにせ心がない」

 紅葉は箸を置いた。彼はまだ半分も食べていない。というのに、茶を啜り、居住まいを正す。食事より話を優先する態度。――長くなるのかしら。名前は隣を窺った。このテーブルを囲むのは三人。名前と紅葉と秋声。紅葉が来るまではここに独歩がいたのだが、今の彼は別のテーブルで藤村と文学談義を楽しんでいる。
 秋声はといえば。黙々と箸を進めていた。食事中はあまり話そうとしない彼は、隣で名前が紅葉に説かれている今も無関心な様子であった。とはいえ何も聞こえていないというわけではなく、彼は彼なりに考え、名前を紅葉に差し出したのだろう。こう考えると、この話は実のあるものだということが見えてくる。つられて、名前も居住まいを正した。それを認めて、紅葉もまた口を開く。

「我が常々言っていることを忘れたか。喜怒哀楽、これがなくてはつまらぬ。つまらぬものは不味い。しごく自然な話だ」

 そもそも――と紅葉は腕を組んだ。

「我が調理を任せなかったら汝はまたあの不味いものをひとりで――しかも仕事の片手間に――食べていたろう?」

 名前は目を逸らした。図星だった。「不味いものなどではありませんわ。栄養調整食品というのです」その口答えも弱々しい。
 「でも不味いじゃないか」加えて、これまで沈黙を守っていた秋声までもが参戦してきた。それも、紅葉を援護する形で。「秋声さんまで!」やはり彼は紅葉の弟子なのだと実感する。
 形勢不利。態勢を整えるべく名前は咳払いをした。ごほん。

「美味い不味いの話ではないのです。いかに効率よく生活するか、そのために生み出された食品なのですから」

 短時間でバランスよく、それを目的に作られたブロック状の食品を名前は愛用していた。特段不味いとも思わなかったし、何よりその手軽さには抗えなかった。そも、食事という行為自体を名前は重要視していない。あくまで生きていくための手段であり、目的ではないのだ。ならば手軽であることに重きを置くのは当然であろう。
 「だから不味いと言っているのだ」しかしその考えを紅葉は一蹴する。

「食事は何も摂取するばかりではない。こうして机を囲むことこそ食事であろう?少なくとも、我も秋声もそう考えておるぞ」

 言いたいことだけ言って、紅葉は食事に戻った。名前はまたちらりと秋声に視線を向ける。秋声も名前を見た。静かな目だった。彼は紅葉の言ったことに否定も肯定もしなかった。けれどそれが答えだと名前には分かった。
 孤立無援。紅葉に言われたことを反芻しながら、名前もまた食事を再開した。

「確かに効率的ではないけど、名前に必要なことだと僕も思うよ」

 夕食後。皆が散会し、名前と秋声しかいなくなった台所で。洗いたての皿を拭きながら秋声は唐突に言った。効率的。その単語で、なんの話題かすぐに理解した。
 「それに先生は名前の腕も買ってるんだ」不必要なほど丁寧に片づけていく秋声を、いつもながら真面目だと思う。そんな彼の言うことだ。嘘はないだろう。
 それでも。

「そうでしょうか」

 先生と慕われたひと。名前とは最初から最後まで違うひと。尾崎紅葉が名前の腕を買ってるだって?卑屈な名前には到底信じられない。
 それを見抜いた上で、秋声はやれやれと溜息を吐いた。僕の言うことが信じられないの、と名前の丸まった背を叩く。

「じゃなきゃ先生は食べすらしないって」

 食事にはうるさい人だからね。そこまで言われても名前の目からは疑いの色が消えなかった。むしろ紅葉の不可解さに拍車がかかる。食事にうるさい人が好むほどの腕を名前は持っていない。我慢して食べているのだとしたらもっと分からない。たとえ調理や食事といった経験を名前にさせたいのだとしても――どうして紅葉がそこまで手を尽くすのだろう。名前は紅葉の家族でも弟子でもないというのに。
 秋声はそれ以上口にしなかった。「様々な経験、人との交流――そうしたものが名前の欠落を埋めるだろう」老婆心だがな、と紅葉が言っていたことも――胸にとどめておいた。言葉を重ねたところで名前のためにならないことは目に見えていたからだ。