ミスタの妹になるV


 彼女を信じていなかったわけではない。けれど一週間後、約束の時間に図書館を訪うぼくの心臓は強ばり、奇妙な緊張感が体を縛っていた。
 そんなだったからあの日と同じ席に座る少女の影に自分でも驚くほどの安堵が溢れた。

「……よかった、来てくれたんですね」

 声をかける。と、勢いよく振り返る彼女。どこか冷たさを感じさせる容貌。うすらいの張った湖面のような、或いは朝露を含んだ草花のような。それがぼくの姿を認め、パッと華やぐ。

「……それは、こっちの台詞」

 人目を憚る声はあまりにも静か。花弁が落ちるよりもなお慎ましやかな声ではあったけれど、そこに滲む安堵や歓喜はぼくにも聞き取ることができた。
 いそいそと机上の本を積み直すと、名前はまたぼくを見上げて「どうぞ」と空いている椅子を指し示した。彼女の隣、彼女の認識する世界の内側に。勧められるがまま、ぼくは腰を下ろした。悪くない気分だった。

「今日は何を?」

「これ、」

 訊ねると、名前はたった今開いていた本の表紙を見せてくれた。
 「ああ、」ぼくの頭に浮かんだのは巨大な水槽とその中を自由に泳ぐ生き物たちの姿だった。

「メアリー・ミドグレイ……プラトンの影響下にある現代哲学ですね」

 プラトンといえばかの有名な『洞窟の比喩』である。洞窟の中に囚われた人々。彼らには正面の壁しか見ることができず、背後に燃え盛る炎によって映し出される影だけが知りうる全てである。つまり我々が知覚するものは壁に映った像のようなもので、本物はイデアにしかないのだ、と。
 その影響下にある哲学者、メアリー・ミドグレイ。彼女は巨大な水槽とその中を泳ぐ生き物を提示し、小さな覗き穴越しにそれを見ているのが人間であるのだと語った。

「うん、前に読んだ本に出てきたから気になって。……まだ読み始めたばっかりなんだけど」

 それがまるで恥であるかのように。名前は目を伏せ、微かな笑みを刷いた。

「理解するには時間がかかりそう。言い回しが分かりにくいから結論を先に見ちゃったんだけど、『もし我々が様々な窓から得られたデータを寄せ集めることを拒むなら、我々は本当の困難に陥ってしまう』とか、……結局何が言いたいのかこんがらがっちゃって」

 室内にはぼくの他に数人がいた。でもその誰もがぼくらには注視していなかった。彼女の訥々とした語り口を聞いているのはぼくだけらしかった。ぼくら二人以外はみんな世界の外側にいた。
 彼女の前には本と、それからノートがあった。ぼくは自然な動きで視線を落とした。ノートには走り書きの文字と図形が踊っていた。水槽と、その中を泳ぐものたち。書き込みは所々塗り潰され、試行錯誤の跡となっていた。
 ……そうしたものを、ぼくは微笑ましい気持ちで見ていた。

「ぼくも専門じゃないんで上手く説明できないのは承知しておいてもらいたいんですが、」

 一言。言い置いて、「ノートとペン、お借りしても?」と訊ねた。別に自分のを使ってもよかったのだが、なんとなく許しがほしかった。
 彼女はあっさりと受け入れた。「どうぞ」それはぼくがミスタと親しいからだろうか。でも最初から好意的だったわけでもない。ではどうしてだろう?
 ……それだけが理由でなければいい。
 「ありがとう」そんなことを思う自分もまた不可解であった。不可解に思いながら、ぼくは彼女の手からペンを受け取った。その手に収まっていた時はしっくりきていたのに、ぼくが持つと些か不格好であった。彼女がぼくより一回りも小さいのだと改めて実感した。

「例えば……そうですね、ここに密室があって、中を見るには小さな覗き穴しかないとします」

 言いながら、ぼくはノートに四角形を書いた。定規で引いたみたいに真っ直ぐな線を。そしてその中に小さな円をくり貫いた。これが覗き穴だ。
 「うん、」名前はぼくの手元をじっと見ていた。熱心で、あまりに過ぎるから、ぼくは指先に熱が灯るのを感じた。掌が汗ばんでやしないか。そんな些末事がいやに気にかかった。

「で、君が覗き穴から中を見ると……部屋にはピストルズの一体がいます」

「それはNo.1?No.2?」

「……どちらでも」

「じゃあ、……うん、No.5がいいな」

 以前の彼女に倣ってピストルズの名を持ち出すと、予想通りの食いつきよう。彼女は兄のスタンドにいたく愛着を持っているらしかった。それこそ兄に対するよりよほど真っ直ぐで、素直な愛情を。
 それは彼らが言葉を解するからだろうか?No.5がいい、そう言った彼女の横顔がぼくの目には焼きついた。
 磨墨の髪に縁取られ際立つ輪郭の白。日差しを反射する硝子の双眸。小さな唇が形作るあえかな笑み。それは無邪気で澄んだ表情だった。

「No.5ですね」

 ぼくは円の中にさらに小さな丸を作った。
 ピストルズ。ミスタのスタンド。それを頭に思い浮かべる傍ら、ぼくは自分のそれを脳裏に描いていた。パープル・ヘイズ。ぼくのスタンド。獰猛で危険極まりない能力。
 ぼくが彼女に『それ』を見せることは生涯ないだろう。そんな当たり前のことが心に影を落とした。

「それ、……ピストルズ?」

 ぼくの思考などいざ知らず。ノートを見つめていたはずの名前が困惑を露に首を傾げた。
 ぼくはちょうどピストルズに足を二本生やし終わったところだった。
 単純な成りをしていると思っていたけれど、描いてみると存外にバランスが取りにくい。少々不格好になってしまったかなと考えながら、ぼくは額に5と書き記した。

「そうですよ。それ以外のなんだと?」

「うーん……、米粒?」

 ……心外だ。

「……手足を生やした米粒なんか存在しないだろ」

「手足?……あぁ、そっか、これが体なんだね」

「…………」

 得心がいったとばかりに頷く名前に、ぼくは唇を引き結んだ。子供っぽいとは理解している。そう、頭では。

「ご、ごめん……、私、想像力がなくて」

「いえ、いいです。今のはぼくが悪かった」

 ぼくの顔を見て、名前は慌てた様子で頭を下げた。なのに上手く取り繕うことができなかった。かといって激しい怒りがあるわけでもない。ただ悔しいような悲しいような、……でも一番強いのは、彼女が落胆するのではないかという恐れだった。

「……次は君が描いてください。この隣にもう一個の丸を、それから中にこの角度から見えるはずのピストルズを」

「え?う、うん……」

 ペンを返すと、名前は戸惑いつつ手を動かした。米粒のような輪郭。小さな胴に細い手足。
 それはぼくが書いたのより生き生きとしていて、

「……上手ですね」

 そういえば別のページに描いてあった魚の絵もきちんとした形を持っていた。
 認めるしかなかった。この分野において、ぼくは彼女に敵わない。それは歴然とした事実で、誰が見ても明らかなことだった。
 だから悔しさは霧散した。代わりに恐れは一層深まった。彼女が次に何を言うか。ぼくは祈るような気持ちで目を伏せた。今は彼女を真っ直ぐ見れそうになかった。

「そ、そんなことない……!このくらい、できたって……なんの役にも立たないもの、」

 しかし名前が発したのは、いっそ哀れなほどに痛々しい声だった。
 揺らぐ声に掠れた語尾。そして噛み締められた唇。泣いてしまうんじゃないか、とぼくは思った。
 「私にできることなんて、他のみんなだってできるから」でも彼女は泣かなかった。泣かない代わりに、自虐的な笑みを浮かべた。それはとても手慣れた仕草で、彼女の顔に馴染んでいた。……悲しいことに。

「……それでもできないよりできた方がいいでしょ」

 ぼくは彼女から目を逸らした。つまらない自尊心から子供じみた態度を取ってしまった自分が恥ずかしかった。恥じているのに素っ気ない慰めしか口にできないのが惨めでならなかった。

「少なくとも、今のぼくみたいに勘違いされることはない」

 結局は冗談めかして、そうして逃げるだけ。彼女の置かれた環境、それに思いを馳せ、でも踏み込むのには躊躇いがあった。そこまでの覚悟がぼくにはなかった。そう、あの日のブチャラティのように他人の人生を左右するまでの覚悟が。

「……ありがとう」

 なのにそんな言葉でも彼女は大事そうに受け止めた。はにかみ、頬を色づかせ。微笑む背後には午後の柔らかな日差しが滲んでいた。以前は石膏の像のようだと思ったけれど、とんでもない。彼女のその笑みは夕べにのみひっそりと咲く白い花だった。

「そ、それより続きです。次はまた同じように別の角度から見た図を書き加えてください」

「わ、わかった……」

 名前は素直にペンを走らせた。その姿を横目に、そっと溜め息を吐く。室内は相変わらずの静寂。でも今は心臓の音がやけに耳についた。煩い。そう胸を押さえても収まらぬほど。

「で、次の覗き穴を覗くと……何が見えると思います?」

「それはNo.5、……じゃないの?」

「そうですね、今度見えたのはピストルズじゃない。ただの……そうだな、米粒と木の枝だけだったんだ」

 気にしていない、その証として先程の彼女の台詞を持ち出す。確かにもうあの時感じた影は日差しに当てられ薄らいでいた。今は自分の心音の方が気にかかるほどだ。

「じゃあNo.5はどこにいったの?いなくなっちゃったの?」

「いや、そうじゃない。その証拠に一個前に見た穴に戻ればさっきと同じようにピストルズが見えるんだ」

 それでもぼくは平静を装って説明を続けた。

「つまり最初からピストルズなんかいなかったんだ。君が見てたのは米粒と木の枝の集まりで、──まぁ実際にはここまでの見間違いはないだろうけど──空想の産物に過ぎないってこと」

「な、なるほど……?」

 ぼくが言葉を止めると、名前は急いでノートに写し取った。几帳面な筆跡。その手で書かれるぼくの言葉。ぼくは彼女が手を休めるのを待ち、口を開いた。

「でもだからって目の前のものすべてを疑い、拒絶してはならないっていうのがミドグレイの主張です。そうしたら米粒だったと知ることもなくなってしまう。ぼくたちは世界を解釈するために様々な覗き穴を──科学だとか歴史だとか、それこそ哲学なんかを──利用しなくちゃなんないんです」

「そっか、そういうことだったんだね」

 名前は何度も頷いた。眼差しは晴れやかで、憂いはすっかり取り除かれていた。 
 彼女の見る世界はどんなものだろうと思った。その目に映る世界は──ぼくは、どんな形をしているんだろう?
 そんなものを知る術はないのに、思いを馳せずにはいられなかった。