司書と藤村

 図書館にいると、時間の感覚が曖昧になる。薄ぼんやりとしたオレンジの照明。天井まで敷かれ視界を覆う書棚。狭い通路。窓は遠く、空気は沈殿している。これではさもありなん、というべきか。
 ふと手元の端末に目をやると、いつの間にか日を跨いでいた。こうなるともう入浴するのも億劫になってくる。手にした最後の一冊を棚に仕舞い、名前は溜息を吐いた。人間とはなんて非効率な生き物なのかしら、と。
 通路は右を曲がっても左を曲がっても同じような景色が広がっていた。代わり映えのしない世界。圧迫感。意識すると途端に、書棚に押し潰されそうになる。このままどこにも出られなかったらどうしよう。子供じみた妄想と分かっているのに、自然駆け足になっていた。パタパタと革靴が木材を蹴る音がしいんと静まり返った図書館に響く。次の角を曲がればロビーだ――体を捻った瞬間、「わ……っ」吃驚の声、それから人影。息を呑んだ、その時には既に遅く。ぶつかり、よろめいた名前の手が、誰かに掴まれた。

「ごめんね名前……、よく見てなかったみたい……」

 秋声に怒られるかな……。そう言う彼の口調も瞳も根無し草を思わせた。もしくは現代では一般的となった接客用ロボットを。

「いえ、わたくしこそ……」

 申し訳ありません、藤村さん――謝ると、島崎藤村は首を振った。ゆるり、ゆるり。気にしていないというよりはどうでもいいとでも言いたげな。それよりも、と彼は名前の腕を掴んだまま首を傾げた。「こんな時間までいるとは思わなかった……」それはわたくしの台詞ではないのかしら。名前は思ったが、文豪なら当然かもしれないと考え直した。非凡な彼らを平凡な名前に推し量れるはずもない。しようとするだけ無駄だ。

「浄化の終わった書物を戻していたのです。それも済んだので戻ろうかと」

「へえ……」

 満足したのか興味もないのか。判断のつかない返事を藤村はする。
 「ちょうど僕も帰るところなんだよ……」彼は名前の腕を引いた。――なぜ?名前は口を開きかけ、やめた。2人分の靴音と、感じる温もり。追い立てられる感覚は消えていた。

「藤村さんは今まで何をしてらしたの」

 ロビーを横切り、渡り廊下を進む。その先の別棟に皆の暮らす居室がある。
 渡り廊下には等間隔に照明がぶら下がっていて、2人が近づくと一斉に明かりを灯した。そうすると窓の向こうに鬱蒼とした茂みが折り重なっているのが見える。対照的な光景。昼間は陽光に照らされ燦然と輝いていたのが嘘のよう。夜の木々は昼の青さを忘れ沈み込んでいる。そうしたものから目を背け、名前は藤村の色のない顔を見上げた。

「僕?僕はね、『地味な秋声を応援する会』について考えてたんだ……」

「『地味な秋声を応援する会』……?」

 鸚鵡返し。地味な秋声を応援する会。心の中でも反復したけれど、まったく意味が分からない。ファンクラブのようなものだろうか。でもどうしてそんなものを?そもそも、会の内容は?
 その疑問を感じ取ったのか。「うん……」と緩く頷いた藤村は事のあらましを説明してくれた。秋声が師である紅葉に地味だと言われ嘆いていたこと。そんな彼がより良い小説が書けるよう集まりを開こうと提案したということ。

「でもその名前は嫌だって言われて……」

「それは、」

 そうだろう。
 名前は微妙な表情を浮かべた。そんな名前、地味だと言われ落ち込んでいる人に追い打ちをかけているようではないか。しかもそれを悪気なく提案したというのがまたなんともいえない。

「だから考え直そうと思って、秋声の本を読み返してたんだ」

「それでこんな時間まで……?」

「僕も驚いたよ……」

 秋声の観察眼はやっぱりすごい。藤村の言葉に、名前も頷く。確かに、彼は人をよくみている。文学については門外漢でもそれだけはわかった。

「秋声さんには秋声さんの良いところがありますのに」

「そうだよね……」

 別館に入ると、食堂から明かりが漏れているのが見えた。そういえば、牧水が今夜朔太郎と飲むのだと言っていた。なら犀星も一緒だろう。あとは酒浸りの中也もいるはずだ。
 その予想通り、食堂の前を通ると中也の高笑いが聞こえてきた。絡まれたら面倒だ。そう考えていると、藤村の歩みが速まった。彼も似たことを考えたのだろうか。
 談話室を過ぎ階段を上っていると、「そうだ」藤村が声を上げて名前を見た。眠たげな目の奥が輝いている。

「名前も会に参加しようよ。うん、そうするのがいい」

「まあ、でもわたくし何も助言はできなくてよ」

 ブラックチェリーの階段に足をかけながら、名前は声を潜めた。起きている者が多いとはいえ誰の迷惑になるか分からない。音を出すのははばかられた。そろそろと、息を殺しながら踵から地につけるようにして上っていく。

「けど名前に褒められたら喜ぶと思うよ」

「そう、かしら」

 君に何が分かるのさ、と言われそうなのだけれど。

「うん……、あ、でも花袋にズルいって言われそう」

「花袋さんの作品も素敵だと思いますわ。わたくしには文学のことは分かりませんけど……、でも色鮮やかな文章だと感じました。あぁでも、批評するならもっと適した表現があるのでしょうね……ごめんなさい」

「ううん……名前の思ったままがいいよ。読者の感想が一番だからね……」

 階段を上りきり、名前はほっと息をついた。
 廊下には臙脂色のカーペットが敷かれ、淡い照明があやしく蠢いていた。しいんと静まり返った世界。ずっとずっと先まで続いているような、終わりがないような。長い廊下は突き当りが見えなくて、吸い込まれそうだ。
 そっと、藤村に体を寄せた。

「ね、今度名前のことも取材していい……?」

 無造作に流された髪が揺れる。その下で頼りなげに下がった眉。窺うような言い方に、名前はちいさく笑ってしまう。もちろん口元でだけだが。それくらい、おかしかった。花袋にしつこいと言われるくらい取材になると抑えが効かない人が、名前に対してこんな風にお伺いを立てるなんて。

「ええ、もちろん」

「よかった……、本当なら今すぐ聞きたいところだけど……うん、やめておくよ」

 これも珍しい。藤村が自分から切り上げるなんて。名前は別に構わなかったのだけれど。でも、彼には思うところがあるようだ。やめておく、と言う前に何やら考える仕草を見せたことからそれは分かった。

「僕の憂鬱と名前の憂鬱……その差異にはすごく関心があるから」

「わたくしの憂鬱……」

 興味を惹かれるのは、中途半端に聞いてしまったからだろうか。どういうことなのか詳しく聞きたいけれど、藤村はそれ以上語る気はないらしく、「名前は鏡みたいだよね……」とするりと話題を変えてしまう。捉えどころのない。蜃気楼のようだ、というのはあまりに月並みな表現だろうか。
 「それか万華鏡」そう言ったところで、名前の部屋の前に着いた。話していて気づかなかったが、どうやら送ってくれたようだ。ありがとうございます。言うと、藤村に不思議そうな顔をされた。無自覚だったらしい。

「それじゃあおやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 温もりが、遠ざかる。熱が引く。代わりにせつなさが波のように打ち寄せた。
 名前は一度目を閉じて、そうっと息を吐く。夜はさびしさの味がした。
 ドアノブに手をかける。と、「ああ、そうだ」背を向けたはずの藤村が暮明のなかで立っていた。震えた肩を隠して、名前は訊ねる。「どうかなさいまして」藤村は、名前をじいっと見る。なにもかも、見透かされていく。

「仕事するのはいいけど、誰かに一言言っとくべくだと思うよ……」

 本を戻していただけだなんて嘘でしょ?藤村は濁りのない目で名前を言った。――その嘘は優しさからだろうけど、秋声たちはそんなの望んでないよ、と。
 名前は息をのんだ。

「望まれる自分と望む自分、これはどうしたって乖離する……。名前はもう変わっていってるんだよ」

 囁き。
 かつて独歩に言われたことが頭をよぎる。望まれる自分(みんなを頼る私、)と望む自分(自立した私、)。同じようで、違うのだろうか。結局は、人にいいように見られたがってるのに。
 藤村はそれ以上言わなかったけれど、名前を見る目が物語っていた。

「じゃあね」

 言うだけ言って、藤村は再び身を翻した。名前の返事も待たずに。猫背気味の背が闇に溶けていく。それを名前は見送った。見えなくなるまで、ずっと。胸に手を当てて。
 空っぽだったはずのところにまた一滴、温かなものが注がれていく感じがした。