ミスタの妹になるW
図書館は相変わらずの静寂。外界の日差しの強さなど感じさせない、心地のいい空気が流れていた。
「例えば君が真夜中ふと目が覚め、空腹感を覚えたとします。それで冷蔵庫にあるおやつを摘まもうかどうしようかと悩んだとして、」
「私、そんなに食い意地張ってない」
「例えばって言ったでしょ」
そして変わらないのはぼくたちにも言えること。同じ曜日、同じ時間。同じテーブルに着いて、ぼくはまた名前に問題を投げ掛けていた。
今日の議題は『自由について』である。セーレン・キルケゴール、ジョン・スチュアート・ミル、そしてアイザイア・バーリン……長らく論じられてきたテーマだ。『不安は自由のめまいだ』『自由に対する根源的感覚は鎖からの自由だ』……かつて習った事柄を思い浮かべながら、ぼくは言葉を続けた。
「で、結局は諦めて眠ることにしたとします。おやつは起きてからにしようって」
「うん、それが正しいと私も思う」
「……でも実際にはおかしはもう冷蔵庫になかったんです」
「どうして?」
「ピストルズが君より早く摘まみ食いしてしまったから」
そう言うと、名前は顰めっ面をした。
「それは……怒るに怒れない」
眉間に刻まれた皺。深い苦悩の証だ。吐き出された語も熟考の末。ただの例え話だというのに真剣なのがおかしくて、ぼくは小さく笑った。彼女の隣は居心地がよかった。
「ここで問題なのはこの時君は本当に自由に決定を行えたのかってことです。君は自分の意思で諦めたつもりだけど、本当のところは他に選択肢などなかったわけですから」
自由についてはかの有名なジョン・ロックも論じている。我々の行動は本当に自由な意思決定によるものなのか?遺伝や社会、物理的な力などによって決定されたものか?
そしてアイザイア・バーリンによって自由は『積極的自由』と『消極的自由』の二つに区別されたのである──。
「その瞬間は確かに私の選択によるものだし、でも……うーん……」
名前は頭を抱えた。
彼女は熱心で、とても教えがいのある生徒だった。彼女といると自分が正しく教師にでもなったような気にさせられた。
……その錯覚は、ナランチャとの勉強会ですぐに霧散するのが常であるのだけれど。
「自由……自由……ええっと、『消極的自由』と『積極的自由』があって……どっちがどっちだっけ……」
「『消極的自由』は牢獄に囚われるとかの外的な拘束、だから『積極的自由』は……」
「自分の希望とか目標とかのこと!」
「その通りです」
助け船を出すと、パッと目を輝かせる名前。その無邪気な様が同い年のはずなのに可愛らしくて、その頭を撫でてやりたくなった。
勿論、実際にはそんなことできやしない。というか寸でで思い止まった。距離感は大切だ。特に彼女のような繊細な人には。
「じゃあ本当の問題は個人の自由は他人のそれとぶつかっちゃうってこと?」
「そうですね、これが時として支配に繋がるというわけです。だからバーリンは自由が対立する関係にあることを弁える必要があること、自由に対しての感覚を常に働かせておくこと、そして自分の理想、自由を自身や他人にとっての鎖に変えないこと、これらを説いたんです」
「なるほど……」
名前は素早くノートにペンを走らせた。その間、ぼくは頭の中で適切な本を数冊見繕った。『自由論』、『自由からの逃走』、『自由の二概念』……それらに関して、特に平易なものを。
そして彼女が手を止める頃合いを見計らって、「少し休みましょうか」と切り出した。長時間頭を使うのはあまり効果的とはいえない。名前もほっと息を吐いたからぼくの提案は正しかったのだろう。彼女のノートは文字や図でびっしりと埋められていた。
「そういえば……君ってスタンド使いなんですか?」
それはかねてよりの疑問。彼女は問題に際して必ずといっていいほど兄のスタンドを持ち出していた。中でもNo.5がお気に入りらしい。その話を聞く限りでは彼女にはスタンドが見えている、ということになる。
では彼女もスタンド使いなのか?……いや、とてもそうは思えない。
第一にぼくの経験上、スタンドとはポルポの試験で発現するものだ。ミスタだってそれは同じ。彼女が密かに接触を計っていない限り──スタンド使いではないだろう。
第二に先天的なものという案だが、それにしたって彼女が隠す理由が浮かばない。それにぼくは彼女がスタンドを使ったところを見たことがなかった。
──だが本当に見えるだけの人間がいるのだろうか?
確信が持てず、とうとうぼくは直接訊ねることにした。
ぼくは出来うる限り声を落とした。室内には数えるほどの人影しかないが、油断は禁物だ。どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。
「スタンド?」
そんな緊張感を滲ませた問いであったけれど、名前はといえばきょとんと目を瞬かせるばかり。
「……あぁ、」幾ばくかの沈黙。思考の末にぽんと叩かれる手。その気安さは世間話の延長。とてもぼくの知るスタンド使いとは結びつかない。
「ううん、違うよ。私は見えるだけ」
その考えの通り、彼女はあっさりと答えをくれた。隠していたとか気にしていたとか、そういった様子は微塵もない。
……よかった。彼女はスタンド使いではない。ただの一般人なのだ。何故だかそれはぼくに深い安堵を齎した。
「へえ……そういう人もいるんですね」
「家族だからじゃないか、って兄さんは」
スタンドについてはまだわからないことも多い。ぼくの周りにいるスタンド使いは皆後天的なものであったし、スタンドについて深く知るということは組織を探るということに繋がる予感があった。ぼくも皆も口には出さなかったけれど、それは暗黙の了解だった。
だから彼女の存在もミスタの考えも興味深かった。家族だから──つまりスタンド能力の適正というのは遺伝するのか。元々潜在的にあったものがポルポのスタンドで発現させられたのか。
……気にはなるが、答えのない問いである。
「じゃあ君にも発現するかもしれないですね」
それは本当に何気ない台詞だった。冗談で、口にしたぼくもそんな未来は望んでいなかった。
「それはないよ」
でもそう首を振る彼女には、確固たる自信があった。力強い否定でありながら、しかしその俯いた頭は力ない。そして口許に灯る微笑はといえば──時折見せる、寂しげでどこか諦めたような色合いであった。
「だってそういうのって……特別な人のものでしょ?兄さんだって……普段はあんなだけど……でもホントはすごいんだって……わかってるし」
卑屈ともとれる言葉だった。けれど響きに以前のような嘲りはなく、遠く、それこそ彼岸にいる者がこちら側に思いを馳せるような、そんな愛情や諦念が宿っていた。それほどに汚れのない、澄んだ眼差しだった。
「それにあなたも。……そうなんでしょ?」
そしてそれを、彼女はぼくにも向けた。
「まぁ、」
「じゃあやっぱりそうだ。あなたたちは特別」
ぼくは否定することができなかった。
ぼくと彼女は違う。名前はごく普通の女の子で、それが正しいのだとぼくは思う。彼女に闘争は似合わない。穏やかな生活が相応しい。特別か特別じゃないかは別に置いたとしても──彼女の言う通りであった。
ぼくは言葉に迷った。もしも彼女が前と同じ反応を示したなら慰めを口にしたろう。でも名前はこの件についてただ諦めているだけで、つまりそこで話は完結。ぼくは用無しというわけだ。
「いいな、私もほしい。兄さん、楽しそうだし。ピストルズみたいなのが私の側にいたら憂鬱なんてどっかいっちゃいそう」
「……別に、みんながみんな『ああ』じゃないですよ。喋らないのが殆どだし」
しかしながら。しかしながらスタンド使いがそんなにいいものではないということだけは伝えなくてはならない。憧れを打ち砕くようで心は痛むが、それが彼女のためでもあるのだ。
「そうなの?……なんだ、そっか」
「……がっかりした?」
「うん、だいぶ。夢がなくなった感じ」
名前は眉を下げて笑った。その目はちゃんとぼくを見ていた。ぼくを見て、笑っていた。
「でも……そっか、兄さんのは『特別』なんだ」
「そうなるかな。……『らしい』でしょ?」
「うん、お喋りなのはそっくり」
「喧しくて仕方ないだけですよ」とぼくは言った。
「すぐ喧嘩するし腹が減ったと煩いし……」
ぼくは思いつくままにピストルズに関する記憶を口にした。ぼくの昼食が彼らに盗られたこと、ぼくの選んだリストランテの味に文句をつけられたこと、……思い返せば食事に関係することばかりである。まったく、食い意地が張っている。拘りが強いのはミスタと同じだ。
ぼくの話に名前は目許を寛がせた。くすくすと笑う、その顔。ぼくは内心胸を撫で下ろした。物悲しい気配の匂う彼女ではあるけれど、綻ぶように笑うのをぼくは知っている。知っているから、安堵した。ぼくにとって彼女に相応しいのは黄昏時や深山幽谷などより、ほの白い光に満たされたこの図書館だった。
「けど……うーん、……」
「どうかした?」
「……あの可愛いNo.5も可愛いげのない兄さんから生まれたのかと思うと、」
つ、と。物憂げに瞳を落とす名前に釣られ、ぼくも脳内にピストルズの六人を整列させた。
「No.5……気弱で泣き虫なピストルズでしたっけ」
その姿形までは朧気だが、よくミスタに泣きついていたのは覚えている。あまりに頻繁なので記憶にも鮮やかだ。
そんなNo.5とミスタを並べ、繋げ、重ね──「確かに」ぼくは殊更重々しく頷いた。
「兄さんにもああいう一面があるのかな……」
「うーん……それはあんまり考えたくないな」
それにミスタというよりむしろ──
ぼくは「そうだね」と首肯する名前を見た。
彼女がどうしてNo.5を気に入っているのか。……それはもしかして、共感するところがあるからではないだろうか。
とすると、ミスタのNo.5への接し方が兄のようなものであるのにも納得がいく。相手はスタンドだというのに、教え諭すような態度。それはもしかすると妹と重ね合わせているからではないか──と。
「フーゴ?」
「いえ、なんでも」
思ったけれど、口にはしなかった。なんだか羨ましいような妬ましいような、複雑な気持ちだった。