ブチャラティ√【後日談】
生存IF後。付き合ってる。
ツーンと漂うコーヒーの香り。ボコボコと水の沸騰する音。エスプレッソマシンの前に立つこの時間が名前はとても好きだった。
勿論、美味しいエスプレッソを淹れるには相応の手間がかかる。淹れるたびに豆を挽かなきゃならないし、粉をセットするのにも慎重さが求められる。その他にもお湯の温度や抽出時間や……気を遣う面は多々。
それでもやっぱり好きなものは好きなのだ。深みのある匂い、心地のいい音、窓の向こうに広がる空、アパートの一室に流れる穏やかな時間。
「はい、コーヒーできたわよ」
「あぁ、ありがとう」
──そして何より、変わらずこう言ってくれる人がいるから。だから止められないのだ、と名前は破顔する。
エスプレッソコーヒー──ここでは単にカフェと呼ぶが──を自分と、それからテーブルに着く彼──ブチャラティの側へ。置いて、名前もその隣に腰を下ろした。
「何を見ていたの?妬けちゃうわ」
ブチャラティの手には幾らかの紙の束があった。名前が声をかけるまで、彼の意識はずっとそちらへ。あまりに熱心な様子であったものだから、名前はつい詮索してしまった。
冗談めかした名前の問い。しかしブチャラティは笑わなかった。「それもそうだな」なんて納得して、宥めるように名前の頬をつ、と撫でた。
……その何気ない仕草がどれほど心臓に負荷をかけるか、彼はわかっているのだろうか。
「悪い、次はオレが淹れよう」
「……ありがとう」
名前に言えるのはこれだけ。「別に本心から言ったわけじゃないわ」とか「これは私が好きでやってることだから」とか「でもあなたの淹れるコーヒーも大好きよ」とか……思うことは沢山あったけれど、すべてが霧散。舌の上で溶けてしまったのは、全部頬までかけ上がる熱のせいだ。
名前は誤魔化すようにカップを傾けた。……熱い。それにやたらと甘ったるく感じられた。砂糖は少なめにしたはずなのに。
そんな名前の思いなど露知らず。ブチャラティは砂糖を二杯、カップの中に注ぎ込んだ。これでもイタリア人にしては控えめな方だというのだから、この国の人間は根っからのゴローゾ──甘党である。
そんな彼は蕩けるような微笑を湛え、「でもこれはお前にも関係のあることなんだ」と名前を見つめた。
「『これ』?」
「『これ』だ」
指示語の応酬。後にブチャラティは一枚の紙を名前の前へ。机上に広げ、そこに踊る文言を指差した。
「『ヴィッラ・ア・スキエラ』……?」
それはどうやら不動産屋の投げ込みチラシのようだ。
建築途中の一軒家から新築のアパート、中古のものまで。駅のすぐ近くだとか閑静な住宅街だとか破格の値段だとか……宣伝文句もまた多彩。とはいえ写真は少なく、想像に頼るのは些か難しいものがある。この国の物件といえばなおのこと。実際見てみなければ本当のところはわからないだろう。
……まぁ、それはこの際置いておくとして。
「いったいどうしたの?引っ越す予定でも?」
そんなのは初耳だ。
ブチャラティの現在の住まいは旧市街の中にあるアパートの一室。雑多な街並みを構成するひとつであったが、名前としては今の暮らしに不満はない。人々は親しみやすく──ともするとお節介になりうるが──下町の風情や混沌とした空気、何よりあちこちに点在する教会の存在は名前にとって大変好ましいものであった。
勿論、ブチャラティからも不満や不快は聞いていない。彼自身人が好く、欲もない人であったから──家がほしいなんて驚きだ。
首を傾げる名前に、しかし不思議そうにするのはブチャラティも同じ。
「そりゃあいずれはそうだろう。ここじゃ手狭だしな」
「そうかしら?私は十分だと思うわ」
「欲がないな、お前は」
ブチャラティは困った風に眉を下げるが、『あなたに言われたくないわ』と名前は思う。
ブチャラティは変わらない。出会った頃、組織の下っぱであった時から、幹部となった今に至るまで。彼はいつだって皆に優しかったし、清廉とは彼のためにある言葉であった。それこそ宗教画に描かれる聖なるその人のように。
「だがやはり家は持つべきだ。それも新築がいい。中古は何かと問題があるからな」
しかしそんな彼にも人並みの拘りはあるらしい。ちょっと驚きだ。
でもイタリア人らしいかもしれないと名前は思う。この国では家を持つことが自立の証、と聞いたような気がする。それにこの国の不動産屋や建築業者ときたら実に信用ならないというのが通説だ。事前の説明と違うなんてことは当たり前、建築途中で予定が変わったり、そもそも業者が摘発されたりなんてこともままある。彼の拘りも用心ゆえ、ということか。
──だがしかし、そこまでして新しい家がほしいのか。
「まぁあなたがそう言うなら……」
そうは言ったものの、腑に落ちない。いや、別に反対しているわけではないが、それでも納得がいかないのだ。
──何か、事情があるのではないか。
それこそ、今の家には住み続けられない、なんらかの理由が。
「……もしかして、」
「ん?」
「もしかして、私のせい?」
考えた末、名前が思い至ったのは己の存在。これまで彼の厚意に甘え、この家に身を寄せていた。それがいけなかったのだ、と。思い至り、名前は顔を蒼くした。
「そうよね、今まであなたここに一人で住んでたんだものね。不自由させてたの、気づかなかったわ」
もうコーヒーの匂いなんて感じられない。途端に寒々しい空気が肌を刺し、名前はテーブルの上で拳を握った。
──でも、言わなくてはならない。彼の迷惑になっているなら、私の口から。
「あの、私ももう十分世話になったし……あなたが望むなら、」
「待て」
そう決意したのに、押し留めたのは当のブチャラティ。彼は戸惑ったような困ったような、複雑な表情を浮かべていた。そうしながらもひたと名前を見据え、握り締められた名前の手に自身のそれを重ねた。
「オレは別に今だって不自由しちゃいない。二人でならこのままここで暮らすのだってありだろう。それにオレにはもう一軒家もあるしな、本当に一人がいいならわざわざ新しく見つける必要ない」
珍しく饒舌だった。彼は募るほどに言葉を連ねた。熱っぽい響きだった。響きであり、眼差しであった。
「じゃあ、」名前にも朧気ながらその答えが見えていた。察しがついた、けれど、それは都合のいい空想であるのかもしれない。
そんな風に思われて、二の句が継げないでいると。
「つまりは将来的に、ということだ。オレたち二人だけじゃなくなったら……ここでは少々暮らしにくい、……だろう?」
包み込まれた手が熱い。境目すらも曖昧模糊。頭の奥がくらくらして、うまく働かない。夏の陽気に浮かされたみたいだった。
そんなだったから名前の意識も夢見心地。
「そ、そうかも……しれない……」
そう呟くと、向けられるのは気遣わしげな眼差し。
「……イヤだったか?」
「…………っ!」
咄嗟に首を振る。当然、上下にではなく、左右に。否、否と文言なく繰り返し、そうしたところで吐き出される安堵の溜め息。
「そうか、……それならよかった」
ブチャラティは微笑んだ。その音はクラヴサン。朗らかで、慈しむ音色。そしてみ瞳といえば海の色、空の色。夜明けの地平であり、名前にとっては世界のすべてであった。だからきっと──そうだ、例え最初の想像が的中していたとしても──名前が自分からこの手を離すことなんてできやしなかったのだ。
「あっ、あなたは希望ある!?何か、他に……」
「そうだな、強いて言うなら……」
高鳴る心音から目を逸らそうと。声を上げる名前に、ブチャラティは考えるように目を伏せ、また上げ、そして──眩しそうに目を細めた。
「……海のそばがいいな」
それは細やかで、でも厳かな色をしていた。子供のような無邪気さで、そして同時に大人びた遠い眼差しで。その囁きに、今度は名前の方から手を握り返した。
「……いいわね、すてき」
頬には自然と笑みが浮かんでいた。もうこれは夢物語なんかじゃない。名前にとってはすぐ目の前にある未来で、叶えたい願いになっていた。
「それなら眺めのいいところがいいわね、あと庭も広いともっといいわ。休みの日には海岸線を散歩したり、海があるなら釣りをするのも楽しそう。みんなも呼んで……ほら、いつだったかそんな話をしたでしょう……?」
「あぁ、……いい考えだ」
ブチャラティは柔らかく名前の肩を抱き寄せた。
名前も逆らわなかった。導きの手に促されるがまま、その胸に顔を埋めた。温かかった。何よりも力強く、安心できる場所だった。
幸せだわ、と名前は思った。視界の隅でコーヒーがぬるま湯に変わっていくのも気にならなかった。結局のところ、名前にとっての一番はブチャラティでしかなかったのだ。
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お誕生日おめでとう!
というわけで、他のキャラと同じく結婚を意識した話でした。