リゾットに想われる


リゾット→主人公→←誰か。
キャラ崩壊ぎみ。そこそこ気持ち悪い話。





 ドアの開く音がした。それは隣家から聞こえてくるものだった。
 その時点でリゾットには部屋の主の姿を鮮明に思い描くことができた。ドアノブを握る指先の白、靴をトントンと鳴らす爪先、結い上げられた金の髪や翻るスカートの裾に至るまで。そのすべてが、他の何よりもずっと現実味のあるものだった。そう、リゾットにとっては。
 やがて足音が止まり、リゾットは目を開けた。途端に世界は色褪せ、冷え冷えとした空気が体に纏わりついた。リゾットは腰を上げ、玄関へ向かった。

「わ……っ」

 ドアの前には一人の娘が立っていた。親愛なる隣人──名前はリゾットの部屋の呼び鈴を押そうとしているところで、驚いた風に目を瞬かせた。
 「びっくりした、偶然ね」彼女は朗らかに笑った。なんだか運命みたいね。リゾットは否定も肯定もしなかった。これは運命であり、しかしそれだけに留まるものではないのだとリゾットは知っていた。

「これから発つのか?」

「そうなの、だから鍵を渡しておこうと思って」

 名前が差し出したのはリゾットの部屋と似たような形の鍵だった。リゾットは「わかった」と頷いてそれを受け取った。
 彼女はたびたび仕事で家を空けることがあった。今回はローマへ行くのだという。期間は一週間。それが長いのか短いのかはわからない。けれどそういう時決まって彼女はリゾットに鍵を預けていった。

「それじゃあうちのことお願いね」

「あぁ」

 名前は「いつも悪いわね」と眉を下げた。リゾットはそれに首を振って答えた。悪いなどと思っているはずがない。ならば最初から請け負わなければよかったのだ。

「気にするな、このくらいどうということもない」

「でも本当に助かってるわ、ありがとう」

 リゾットが申し出たのは部屋の手入れ、彼女の育てる草花の水やりなどであった。良き隣人であり良き同僚であったリゾットは頃合いを見計らって彼女にその提案をした。不在時には面倒を見ようか、と。最初は躊躇っていた彼女も今ではこうして自分から伝えに来るようになった。そしてそれはリゾットにとっても幸いであった。

「オレには土産話で充分だ。……本当に」

「ふふっ、それじゃあいい報せを持って帰らないとね」

 リゾットは名前と手を握り合った。彼女の手は一回りも二回りも小さく、柔らかかった。
 「気をつけて」リゾットは言った。彼女は「あなたもね」と笑った。「無茶はしないでね」そう言った名前の目は温かかった。けれど何かに欠けていた。リゾットにはそう思えてならなかった。
 やがてアパートの正面に車が止まった。彼女はそれに乗り込んでいった。運転手の姿は見なかった。リゾットは車が見えなくなるまで目で追いかけ、それから受け取った鍵を見下ろした。



 鍵は何の抵抗もなくぐるりと回った。軽やかな音がして、リゾットはノブを捻った。
 名前の部屋はリゾットのとは対称的な造りになっていた。それは二重の意味で、と言った方が適切かもしれない。造りは同じなのに、何もかもが違っていた。
 リゾットは部屋の中央に立ち、息を吐いた。彼女が出ていったのはほんの少しまえのことだ。なのにどこか空々しさを感じた。
 リゾットは室内を見渡した。壁際には写真立てが飾ってあった。リゾットは歩み寄り、それを手に取った。
 写真の中では一組の男女が笑顔を浮かべていた。これ以上の幸福はないといった風だった。
 背景には色とりどりの家々が並んでいた。リゾットは彼女がふたつきほど前にブラーノ島へ行くと言っていたのを思い出した。ブラーノ島。ヴェネツィアにある島のひとつ。漁村とレース編みで有名な地。
 リゾットは写真立てを伏せた。そうしてから暫しその空白を眺め、首を振った。すべてが手遅れだった。リゾットは写真立てを元に戻した。そしてもう二度とそれには目をくれなかった。
 リゾットは彼女が育てている植木の様子を確認した。葉に触れ、その柔らかさに思いを馳せた。彼女は部屋を出る前に水をやったのだろう。土はまだ湿っていた。リゾットは水差しを置いて、考えた。適切な距離感というものを。果たして今は正しさの中にいるのだろうか。リゾットにはわからなかった。
 リゾットは寝室へ向かった。そこには微かに甘い香りが残っていた。名前のつけていた香水だろう。幾つかの瓶がキャビネットの上にはあった。リゾットはそのひとつを手に取り匂いを嗅いだ。でもそれと今残っている香りが同じものかまでは疑問が残った。
 リゾットは「或いは」と思った。或いは、写真の中の男ならわかるのだろうか。それはあまり愉快な想像とはいえなかった。もしも彼にもわからないというなら、リゾットとあの男の間にどれだけの違いがあるというのだろう?どれだけの違いを名前は見出だしたのだろう?
 リゾットはクローゼットを開けた。彼女の私物に混じって、男物のシャツやパンツなんかが仕舞い込まれていた。それは明らかな異質であった。
 リゾットはその内のひとつを広げてみた。見覚えのある形だった。白は彼が好む色だった。反対に、リゾットは黒を選んだ。最初からそうだった。最初から隔たりがあった。たぶんきっとそういうことなのだ。
 リゾットはクローゼットを閉め、キッチンに向かった。コーヒーを入れ、ソファに座った。そして目を閉じた。例えばもし、名前が隣にいたなら。そんなことを考えた。
 室内を整え、リゾットは部屋を出た。吹きつける風は落莫たる匂い。その冷たさに、胸が痛んだ。
 リゾットはふと思い立ち、公衆電話を探した。それはアパートの向かい、公園に沿ったところにあった。リゾットは自分の番号よりもよほど身近なその数字を入力した。入力して、受話器に耳を押し当てた。単調な音が途切れるのを息を詰めて待った。

『はい、』

 受話器の向こうで名前が名乗った。とても他人行儀な響きだった。『あなたどちら様?』リゾットは目を閉じ、別れ際の彼女の姿を思い浮かべた。
 正直に名乗ったなら彼女はどんな反応をするだろうか。リゾットは考え、しかし口を開くことはしなかった。沈黙を守り続けた。

『用件は何かしら?それとも間違い電話?』

 そのうちに名前の方が痺れを切らした。『聞こえてる?』不信感も露な声だった。でも何も言えなかった。リゾットには、何も。

『変ねぇ……悪戯かしら』

『どうしたんだ?』

 呟く彼女に答えたのはリゾットではない。名前には連れがいたらしく、気遣わしげな声が彼女に向けられた。そしてそれはリゾットの耳にも届いた。

『何にも返事がないのよ。でも切れる様子もないし……』

 衣擦れの音がした。彼女は少し怯えている様子だった。『最近こういうのが多いのよ』そう言った彼女を男が抱き締めた音だろうか。彼女を安心させようと。
 男は『貸してみろ』と言った。そして実際電話は男の手に渡ったらしく、『いったいどういうつもりだ』という固い声がリゾットに向けられた。

『どこの誰だか知らんが、こういうことはこれっきりにしてもらおうか』

 男は厳しい調子で言って、電話を切った。リゾットに齎されたのは単調な機械音だけだった。
 今頃男は彼女を慰めているのだろう。『大丈夫だ、心配ない』そう言う男の姿はリゾットにも容易に想像がついた。男は優しく、彼女を守るのに充分な力があった。
 リゾットは受話器を置いた。そして自宅へと引き返した。外は酷く寒かった。コーヒーを淹れなくてはと思った。それから新しい住まいを探さなくては。
 それが最善であるのだということはリゾットにもわかっていた。耳の奥で男の言葉が鳴り響いていた。『もうこれっきりにしてもらおうか』そうだな、とリゾットは男に頷いた。そうだな、その通りだ。できるなら──自分だってそうしたい。
 去り際に見せた名前の笑顔を思った。それを手放す日のことを。そしてそれはリゾットの選択ひとつで簡単に叶うのだ。積み上げた不動産屋の広告、その中のひとつを選べばいい。ただそれだけなのに、そこには生々しい痛みが伴っていた。