プロシュートと別れ話


 プロシュートが帰った時、部屋からは灯りが消えていた。それは明け方のことだった。薄明かりの差し込む部屋の中、名前はスーツケースを広げていた。

「なんだ、起きてたのか」

 プロシュートは驚きを露に眉を持ち上げた。灯りがないのだからもう眠っていると思った。彼女がプロシュートの帰宅を待つ時、いつだって灯りが点っていた。それはどんな夜更けでも同じだった。それを頼りに帰るのが常だった。
 「もう終わるから」名前は振り返らずに言った。手を止めることはしなかった。スーツケースに衣類を詰め込む方が重要だとでも言わんばかりだった。

「どこに行くっていうんだ?」

 プロシュートは冷蔵庫を開けた。中身は殆どなかった。そういえば長いこと買い物をしていないなと思った。そう考えることさえしてこなかった。もう随分と。
 プロシュートは水のボトルを掴むとキャップを捻った。それはまだ新品で、プロシュートには買った覚えのないものだった。だがそれはさしたる問題ではない。これまでだってそうだったのだから。
 名前は「覚えてないの?」と言った。そこでやっと彼女は手を止めた。顔を上げ、プロシュートを見上げた。そこで初めて彼女の目がひどく透徹しているのを知った。冬の朝のようだった。知らぬ間に凍った湖面を見つけた心地だった。

「前に言ったでしょう?私、日本に行くのよ」

「あぁ、……そうだったか」

 彼女の実家は革製品と毛皮を扱う名家だった。その支店は世界中にあって、その内のひとつを任されるかもしれないと彼女は言っていた。それを今になって思い出した。ほんの冗談のつもりだったのだ。
 プロシュートはボトルを置いた。そして代わりに煙草を取り出した。火をつけ、肺を満たした。それで空虚は埋まるはずだった。

「それにしたって突然だな」

「突然じゃないわ、もう半年も前に言ったのよ」

「そうだったか?」

 「そうだったのよ」と名前は言った。そうだったのよ。まるで、何もかもが手遅れみたいに。言って、彼女は首を振った。

「今日、ここを出ていくから」

「そうか、」

「……ええ、」

 彼女は物言いたげな目を向けた。或いは何かを問いかけるように。何らかの合図を待つかのように。
 その目をプロシュートは見つめ返した。そうしているうちに、透き通ったそれが好きだったことをふと思い出した。プロシュートは目を伏せ、灰皿に煙草を擦りつけた。溜まったゴミは虫の死骸に似ていた。

「オレが悪いっていうのか?」

 その時彼女の目は失望を露にした。失望を、そして諦念を。
 名前は「そういうんじゃないわ」と答えた。そしてまたスーツケースに向き直った。彼女の荷で一杯になったそれを。ちっぽけな鞄ひとつに収まるものしか残らなかったこれまでを。
 彼女はスーツケースを閉じた。部屋にはまだ彼女の温もりがあった。揃いの食器や写真なんかが。でもそのすべてに目もくれず、名前はスーツケースを閉じた。終焉は軽やかな音がした。

「ねぇプロシュート、……私たち、きっと最初から違いすぎたのよ」

 彼女は独り言のように呟いた。プロシュートは新しい煙草を出しかけて、その箱を握り潰した。

「いったい日本に何があるって言うんだ?」

 質問ばかりだな、と内心で思った。それから、まるで取り縋っているようじゃないかとも。
 名前は立ち上がった。スーツケースに手をかけたまま、静かにプロシュートを見た。目を細め、ほんの僅かに口許を和らげた。

「……平穏が」

 「少なくとも、ここよりは」彼女はそう付け足した。まるでそれこそが唯一絶対で、それ以上に尊いものはないのだとでもいう風だった。
 「平穏、」それのどこが大切だというのか。プロシュートにはわからなかった。しかしそれを認めることは彼女の言い分を肯定することになる。だから何も言えなかった。もしかすると彼女は引き留めてほしいのかもしれない。そんな予感がしていても。
 「さっきの話だけど」彼女は穏やかな表情で続けた。憑き物が落ちたみたいに安らかな顔だった。

「あなたは悪くないわ。きっと私たちのどちらも。……そう思いましょう」

 ──それならどうしてこんなことになっているんだ?

 プロシュートは言いかけ、諦めた。彼女はすべてを過去形で語った。だからつまりはそういうことなのだ。彼女は答えを出した。プロシュートには頷く以外の道がなかった。彼女はスーツケースを持って家を出た。プロシュートは彼女を見送り、部屋に鍵をかけた。がらんどうの部屋に。それがすべてだった。それですべてが終わったのだ。