ミスタの妹になるX
ページを捲る。フランク・クローズ教授による著。原始核物理学者である彼は宇宙の起源について研究を行っていた。
その内容を目で追いながら、同時に思考するのは彼女のこと。名前──次は君とどんなことを話そうか。そんなことを考えながらまたページを捲った。
そういえば彼は以前エッシャーの絵について言及していた。マウリッツ・コルネリス・エッシャー。オランダの画家。近代科学の根本問題のひとつ。彼の描いたものを思い浮かべ、ぼくは内心で頷いた。
──よし、今日はエッシャーの絵について話そう。彼女は絵の心得があったから、きっと退屈はさせないだろう。
彼女の透き通った目は回顧するだけでぼくの心を満たしてくれた。忘れかけていた大切なものを思い出させてくれる、そんな感覚さえあった。
「……まだ早いかな」
時計を見やり、独りごちる。一週間のうちのたった一日。同じ曜日、同じ時間、同じ場所で。約束したのはぼくの方からであったけれど、なんだか逸る気持ちが抑えられない。
──子供じゃあるまいし、おかしな話だ。
そう思うけれど、この時間を楽しみにしているのは紛れもない事実。面映ゆいものが込み上げ、ぼくは本を閉じる。
約束の時間には少し早いが、図書館に向かおう。名前はいつも時間より早く来ているから、たまにはぼくが先に着いたって問題ないだろう。それで驚いた風の彼女を笑ってやるんだ。
そんなことを考えていると、テーブルに置いていた携帯電話が震えた。──着信だ。
「……なんだ?」
番号には覚えがある。ミスタだ。妹の名前じゃない。そもそもぼくは彼女の連絡先を知らない。じゃあどうしてまるで見計らったみたいにミスタから電話がかかってくるんだ?
「……はい、」
『おっ、フーゴ!オレだけど』
「はぁ、どちら様ですか?」
『誰って……オメーッ!わかってて聞いてんだろッ!?』
怒声は電話を遠ざけることでやり過ごす。
自然と寄せられる眉。──まったく、喧しいことだ。妹の名前はあんなに静寂が似合うというのに。兄妹でどうしてこうも違うのだろう。
「ちょっとは声を抑えてくれないか」ぼくは顰めっ面のまま電話に答える。さっきまでの穏やかさは嘘のよう。波のように引いてしまい、今では微かな苛立ちさえある。コツコツとテーブルを指で鳴らしてしまうのはその証だ。
『つーかよォ……、お前いつの間にうちの妹と仲良くなってんだよ。びっくりしたぜ、オレは。アレのどこがよかったんだ?』
──だというのにミスタときたら。
「……そういうつまらない話をするなら切りますね。では、」
『オイオイオイッ!オレとは世間話もできねーってのかッ!?』
「失礼します」
『待て待て待てって!』
揶揄うような声から一転。噛みつくような勢いに、ぼくは電話を再度耳から離した。電話越しだというのに唾を飛ばされた錯覚すらある。キーンと脳さえ擘くほどの声に、ぼくの顔はより一層渋いものとなる。
「早く用件を言ってください。じゃなきゃマジで切るからな」
今回に限っちゃぼくは悪くない。そのはずだ。時計を見れば約束の時間までまだ余裕があることはわかる。でもだからといってこんな下らない応酬を長々と続ける気は更々なかった。
そんな思いを乗せ言い放つと、ミスタは『短気にもほどがあるだろ……』とぼやく。──口の減らないヤツ。やれやれと言いたいのはぼくの方だ。
「ご存じの通り、ぼくにはあなたの妹さんと会う約束があるんですよ。遅れたくないんで余計な口は叩かないでもらえます?」
『あー……そのことなんだけどよ、』
──この時既に予感はあったのだろう。だからぼくは無性に苛立っていたし、必要以上に急かしていた。
ミスタの用件がなんなのか。──彼はやたらと電話を鳴らす質ではなかったはずだ。仮に彼が国民の大多数と同じにように電話好きだったとしても、その対象はぼくではない。これまでの経験からそれは断言できる。
──つまるところ要するに、ミスタは必要に駆られて電話をかけてきたのだ。
『わりぃ、名前のヤツ、熱出したみたいでよォ……』
だからその台詞はぼくにとって予想外のものではなかった。
『真っ赤な顔してんのにふらふら出歩いてるもんだから問い詰めたら、お前と約束してるって言うじゃねーか!だもんで無理やり連れ帰ったんだが、ベッドに突っ込んだ途端コロッと寝ちまって……』
その後もなんだかんだと言葉を続けているようだが、ぼくの耳は素通りするばかり。予想外のものではなかった、そのはずなのに。なのにぼくは気の利いた言葉ひとつ言えず、「お大事に」と返すので精一杯だった。
「…………」
気づけばぼくは通話を終えた携帯電話を見下ろしていた。それから慌てて折り返そうとして──その番号がミスタのものであるのに思い至る。
──ぼくは、彼女の電話番号すら知らないのだ。
ぼくたちを繋ぐのは口約束という頼りないものひとつだけ。それだけで、こんなにもあっさり途切れてしまう。そのことにぼくは気づきもしなかった。……考えすら、しなかったのだ。
──そして、一週間後。
「……ごめん、先週は」
「いえ、別にぼくは、」
「でも連絡がギリギリになった。……本当にごめん」
いつもと同じ時間、いつもと同じ図書館にて。顔を合わせた途端、名前は申し訳ないという感情を露にした。顔いっぱいに浮かぶそれに、ぼくとしては二の句が継げない。
本当は言いたいことが──『どうしてこの一週間一度も連絡をくれなかったんだ』とか『なんでミスタに電話させたんだ』とか──それこそたくさんあった。でもそのどれもが彼女のことを考えていない、情けない思考だった。本当に具合が悪かったんだ、ぼくの子供じみた不満はその一言で片がついた。
だからぼくはそれらを呑み込み、物分かりのいい笑顔を浮かべた。
「……いいんです、君が元気になったなら」
ぼくは殊更優しく声をかけ、「具合が悪ければ早めに言ってくださいね」と彼女の頭を撫でた。
すると名前は「ありがとう」と目を細める。本当に、心から感じ入った様子で。そんな眩しさすら感じる眼差しに、ぼくは咳払いをして取り繕う。
「それより──」
ぼくは懐からペンとノートを出した。
「……連絡先、教えてください」
書き殴った番号。それを差し出すまでの動作。すべては頭で思い描いていた通り。予定していたことであったけれど、名前のぽかんとした顔に気づき、──指先から熱が駆け上がっていった。
「知らないと、不便でしょう?」
頬が熱い。こんな、なんてことない提案。至極当然の要求であり、全うな理由があり、不自然なところなどひとつもない。
なのに胸中には緊張と共に不安があって、ぶっきらぼうに言いながら、反対に顔は茹だるようだった。
「……いいの?」
思わず目を逸らしたぼくに聞こえたのはそんな遠慮がちな響きだけ。表情は見えない。名前がどんな顔をしているのか、──ぼくと同じ気持ちでいてくれるのか。
「私、あなたを友達だって思って、……いいの?」
その声は震えていた。頼りなく、か細く。──しかし確かに、歓喜によって。
ぼくは思わず顔を上げた。下らない羞恥心など置き去りにして、真っ直ぐに名前を見つめた。
「今さら、……好きに思ってくれていいですよ」
「……っ、ありがとう、」
まただ。名前はまたそう言って、「うれしい」とはにかんだ。
白い膚は彼女の羞じらいや喜びを色でもって忠実に再現してくれていた。それは沈みゆく陽の最後の輝きのようで、同時にその純粋さは咲き初めの花であった。少なくともぼくにはそう映った。きれいだ、とぼくは思ったのだ。
──思ったから、ぼくは、
「……名前、今日は外に出ませんか?」
「え?」
「エッシャーの展覧会、……チケットがあるんです。よかったら、」
ぼくが鞄から出したのは丁寧に折り畳まれたそれ。チケットを広げ、名前へ向けた。手に取ってほしい、そう祈るような心地で。
「わ、私でよければ……その、あんまり詳しくはないけど」
見つめると、名前はキラキラと輝く双眸をぼくに返してくれた。夜明けの澄んだ空気。黎明を閉じ込めたみたいな眸が、ぼくを見て、ゆるりと綻んだ。
それを見て、ぼくもやっと息をつくことができる。
「……解説なら任せてください。お陰で教えるのはだいぶ上達しましたから」
「頼もしい……」
パチパチと呑気に手を叩く名前。そんな彼女を急かし、既に広げられていた本を片付け、ぼくらは図書館を後にした。