アバッキオの妹になる�U
降り続く雨。しかしこれまでより耳障りな音が気にならないのは、それ以上に騒がしい者が現れたせいだろう。
「兄さん兄さん!」
「なんだよ」
「髪、乾かしてください!」
実家を勘当された、そう言ってオレの元にやってきた妹。名前は浴室から出てくるとバタバタと駆け寄ってきた。かと思えばその手にあるのはドライヤーにブラシにタオル。……まったく、用意のいいことだ。
「お前なぁ……自分が幾つになったかわかってんのか?」
「学生のうちはガキだって、兄さん以前言ってませんでした?」
「…………」
……ああ言えばこう言う。
深々と溜め息を吐いてみせるが、名前ときたらちっとも動じない。期待の籠った目。揺るぎない信頼の証。その輝きときたら小さな頃から少しも変わりない。
「しょうがねぇなぁ……」
そしてオレがその視線に弱いのも、また。
渋々といった体でオレは名前からタオルを奪い取った。すべては名前の望み通り。癪に障らないということもなかったが、
「やった!」
こんなことで表情を華やがせる様を見ると文句なんて出てこない。頭に浮かぶより早く霧散してしまう。
いそいそとオレの隣に腰を下ろす名前、ソファの上に膝を立てて座る妹は「ではお願いします」と厳かな調子で肩越しにオレを見上げた。いや、そんな大層なことをするわけじゃないんだが。なんてツッコミも妹は聞いちゃいない。
「せめてちゃんと拭いてこいよ」
「いやぁ……兄さんもご存じの通りせっかちなもので」
「お前はホントに女か?」
「失礼な」と名前は口を尖らすが、そんな顔ではますます子供っぽい。しかし思えばこいつもまだ十五だ。オレと同じに体ばかり育ってはいるが、世間からすればまだまだ子供といった齢。ということはこいつでもいっぱしの大人の女になる可能性があるということか。
……まぁ、そんな未来はあまり考えたくないが。
「兄さん?」
「……なんでもねぇよ」
馬鹿正直に話したところで何になる。名前を喜ばせるだけ、調子に乗らせるだけだ。だからオレは何も言わなかった。
……お前はそのままでいい、なんて。
そんな願望は仕舞い込み、オレは黙々と名前の髪を拭いてやった。
「あ〜、やっぱり人にやってもらうのって気持ちいい。さすが兄さん、職人技です」
「はいはい」
おだてる名前を受け流し、今度はブラシで梳いてやる。
オレと同じ銀の髪。近頃は手入れがおざなりだったのか、以前より指通りが悪い。そういえばオレが家にいる時はいつもこうして世話を焼いていた。
それがなくなったのはオレが実家を出てしまったから。あの『事件』以来、名前とこんな風に過ごすこともなかった。
──だからきっと、名前は。
「お前、オレがいなきゃどうすんだよ」
「あはは、そうなったら後は野となれ山となれ、ですよ」
何てことない風に言うが、とんでもなく重い台詞だ。
「だから私は兄さんを離してなんてあげません」
振り仰ぐ、その笑顔。得意気なそれは純粋で、しかし眼差しだけは真剣だった。何があっても兄から離れない。例えオレが世間から後ろ指差されようと。──どれほど落ちぶれようと。
それでもこの関係だけは変わらない、と名前は宣言したのだ。
「だからってなぁ……」
トリートメントを髪に塗り込めながら、オレは言葉を探した。
「何もお前まで勘当されてくることはないだろ」
「私の兄さんへの愛を舐めてもらったら困ります」
しらっと言い放つが、本当のところはどうなんだか。勘当された、暫く家に置いてほしい。そうは言うが、実際何があったのか話そうとしない。それこそ頑ななまでに。
のらりくらりと躱すその顔に変化は見られない。顔色を変えることさえ。
「……いったい何をやらかしたんだ」
こうなった名前がテコでも動かないのは百も承知。となればはっきり問うより他にないだろう。
「それは内緒です」
しかし今回の名前は手強かった。にっこり笑って、「女には秘密のひとつやふたつあるものです」などと一丁前なことを言いやがる。
「……ハァ、」
──マジでここに来るためにわざと勘当されてきたんじゃないか?
この考えが自惚れとも言い切れないのが我が妹である。まったく、頭の痛いことに。
「溜め息なんて吐いちゃダメですよ、幸運が逃げます!」
「誰のせいだ誰の」
キャンキャンと喧しい声はドライヤーの音で吹き飛ばしてやった。
広場に面したカフェ。そのオープンテラスに見知った顔を見つけ、オレは慌てた。
「悪いブチャラティ、頼んだのはオレの方なのに」
約束の時間はまだのはず。時計を確認するオレに、ブチャラティは笑った。
「気にするな、オレの用事が早く済んだだけだ」
「それより、」ブチャラティは言って、カップをソーサーに戻した。そして腕を組み、オレをひたりと見据える目。静かなそれとは対照的に弧を描く唇。
「お前たちの兄妹仲がそれほど睦まじいものだとは思わなかったな」
「揶揄わないでくれ……」
眉間に寄った皺を揉むと、ブチャラティは愉快げに肩を震わす。
「お前のそんな顔が見られるとは」
ここに鏡はない。だからオレには自分がどんな顔をしてるかなんて想像することしかできない。だがあまり良いものではないのだけは確かだ。
「手がかかるってだけだ」気まずさからオレは目を逸らした。名前が来てから調子が狂わされっぱなしな気がする。
「だが大事にしているんだろう?」
そんな心中すら見透かして。ブチャラティは目を細めると、「これは責任重大だな」と呟いた。
「お前に頼まれた通り、働き口くらいならオレにも紹介できる」
「ブチャラティ……」
「……しかし、もしも彼女がそれを望んだなら、」
ブチャラティはそこで言葉を切った。
けれどその続きは容易に想像のつくものだった。ブチャラティが考え、オレが予感していること。
名前、もしもお前がオレと同じ道を志すなら──
「……オレは反対だ」
「あぁ、そうだろうな」
「……だがアイツだって一人の人間だ。もうガキじゃない」
オレは昨晩の名前の様子を思い出した。名前、オレの妹。本当は実家で何があったのか。何が理由で勘当されたのか。……頑なに話さないのはオレに心配をかけまいとしてなのだろう。その時の名前ときたらいやに大人びた目つきをしていた。もうオレの後を追いかけるだけの子供じゃないのだ。
だからもしも名前が表の世界で生きられないというのなら。
「どう生きるかはアイツに任せるさ」
これは溜め息も吐きたくなるだろう。
任せると言った手前、もうオレには手出しできない。
「……やはり責任重大だな」
頭を抱えるオレを見て、ブチャラティは微笑ましげにそう繰り返した。