――手紙のやり取りがしたい。そう花袋や朔太郎や……とにかく多くの文豪から頼まれ、幾日か。図書館に、郵便受けが作られた。
共同生活をしているのに文通も何もあったものじゃないと思うのだが、「手紙の方が好きだな」と言われては折れるしかない。館長が快く承諾してくれたのもあって、ポスト作りが数日間名前の仕事に組み込まれることになった。
それも終わり、設置も完了し。手紙が文豪たちの日常と化した頃。
名前はバスケットを手に駆けていた。
「お待たせしました……!」
調理室、食堂、廊下、砂利道を駆け抜けた名前は肩で息をしている。もっとも、それは走ったからというよりも、娯楽を求めた文豪たちから逃れてきたからである(名前は走るのには自信があった)。彼らは名前が事実をありのままに説明しているというのに、自分たちが面白い方に面白い方にとどんどん組み替えてしまう。それをいちいち訂正する方に労力を使ってしまった。
でも。
「ぜんぜんっ!全然待ってないからっ!!ていうか、来てくれたってだけですっげー嬉しい」
――花袋のこの笑顔を見ると、それくらいなんてことないように思えてしまうから不思議だ。
図書館の中庭は仲夏の日差しに蹂躙されていた。肌に纏わりつく熱気。雨と雨の間のつかの間の平穏はしかし空に限ったことで、過ごしやすさでいえば晴れてようとまったく快適とは言い難かった。とはいえ、湿気た布団を干せるのは歓迎すべきことだろう。代わりに約束された寝苦しい夜はクーラーで解決すればいい。
名前はベンチに腰を落ち着けた。敷いたハンカチに自作の刺繍があしらわれているけれど、名前にとってはあまり楽しいものではなかった。歪に咲いた薄桃色の花。それは花袋に見られないように下にした。(「不出来なハンカチを常用していれば向上心も掻きたてられるだろう?」腹立たしいことに紅葉の弁は正しかったのだ!)
そんなことはおくびにも出さず、名前はバスケットを差し出した。「たいしたものじゃあありませんけど」取っ払った布の下にはサンドイッチがずらり。中身はベーコンエッグ、トマトとレタス、カツレツの3種類だ。定番中の定番でしかないのが自分のちいささを表しているようで恥ずかしくなる。
けれど花袋は「何言ってんだよ!」と笑い飛ばした。
「こーいうのって大事なのは気持ちだとオレは思うわけ!名前っていう女の子がオレのことを思いながら作ってくれた、そこに価値があんの」
せっかく目を伏せたというのに、それを容易く打ち破ってくる。こういうところは独歩と似ていて名前は困ってしまう。彼らは類友というやつだ。2人の溢美にも慣れてきたのか、苦手だという意識はだいぶ薄れてきたが、とはいえ反応に困ることに変わりはない。このままでは名前の死因が褒め殺しになってしまいそうだ。
「称賛でお腹がいっぱいになってしまいそう」わりと本気で。眉を下げると、花袋はくしゃりと笑った。「そいつは困るなあ」
「名前はもっと食べなくちゃダメだって」
「あら、花袋さんを基準にされても困りますわ。わたくし、あんまり脂っこいものは好みませんもの」
「うわっ、藤村みたいなこと言うなよな」
オレは食いたいものを食うって決めてんだ!そう言って、カツサンドに齧りついた。
――ほら。差し出され、名前も同じものを口に運ぶ。人の手から食べさせられるなんて幼鳥のよう。以前の名前ならはしたないと思っていたところだ。そんな名前を塗り替えたのは花袋や直哉などの世話焼きな面々である。彼らは事あるごとに小食な名前の口を食べ物でいっぱいにしようとするのだ。
サンドイッチは一口大に切ってあるからすぐに嚥下できたけれど、彼は名前よりもずっとはやく次のものに手をつけていた。
「名前も藤村も野菜ばっかじゃなく精のつくもの食わねーといざって時困るぞ」
「……そうは言いますけど。健康のためならば、花袋さんはもっと野菜を食べた方がよいのではなくて」
カツサンドばかり減っていくものだから、今度は名前が花袋の口を封じた。――ちょっと強引だったかしら。一瞬見開かれた目に、押し寄せる慙愧。けれど彼は唇に押しつけられた野菜のサンドイッチをぺろりと一飲みした。嫌な顔一つせず。それどころかすこし機嫌がよさそうにも見える。名前は胸を撫で下ろした。
「名前が食べさせてくれるって言うなら食べてやらないこともないけど?」
「まあ、わたくしはいつからあなたの母親になったのかしら」
「いやいやそこは母親じゃなくてだな……」
続く言葉は彼の常套句であったから、名前もまたいつものように返した。ご冗談を、と。
2人はとりとめのない話をした。名前が南吉にされた悪戯の話をすれば花袋は乱歩に染料を入れられた話をしたし、実篤に絵を描かされた挙句励ましになってない励ましをもらった話をすれば、藤村にしつこく取材をされた上に遠まわしに馬鹿にされた話をした。生活を共にしているというのに不思議と話題は尽きなかった。これは花袋の人柄のせいだろう。彼には夏が似合う。
「そういえば、どうしてここを集合場所にしましたの?一緒に住んでいるのですから、わざわざ別々に集まる必要なんてなかったのでは?」
空のバスケットを片づけ、ふと。誘いの手紙を貰った時に抱いた疑問を思い出した。『2人きりで昼飯でも食べながらゆっくり話がしたいな。次の日曜とかどうだろう?』最初の手紙はこんな具合だった。2人きり。つまり食堂ではない場所で、ということだとは名前にも分かった。けれどその日は午後に予定が入っている。外出する時間はないだろう。悩みながら、筆を執った。『中庭でもよろしければ、よろこんで(ごめんなさい、外に出る時間はとれそうにないのです)。それに手の込んだものは作れませんけど』花袋からの返事はすぐに来た。『ありがとう。久しぶりに晴れるそうだからちょうどよかった(中庭から見える景色も悪くないからな)。じゃあ日曜、12時に。中庭で待ってる』――。名前は首を傾げた。
……待ち合わせなどせずとも、連れ立って行けばいいのでは?
とりあえず名前は秋声に相談した。花袋さんはどういうつもりなのかしら。そう聞くと、秋声はへんな顔をした。(「花袋はいいヤツだ。それは僕も認める異論はないよ。でもね、君へのそれは、」そこで口を噤んでしまったから続きは知らない)彼は気にすることはないと言った。ただ、「何かあったらすぐに僕を呼ぶように」とも約束させられた。名前の助手はお人よしの上に心配性だ。
思い出したのでなんとなく疑問をぶつけると、花袋は頭を掻いた。「や、深い意味はないんだけどさ」この時点で、名前は秋声の言った通りなのかもと思う。そしてそれは実際正しかった。
「そういう状況を楽しみたいなぁ、と」
女の子がオレのことを想ってオレのために駆けつけるってのがイイのよ。そう力説してくれたが、名前には何が『イイ』のかさっぱりだった。「はぁ」気の抜けた返事をしてしまうのは名前が女だからか。――男の人なら分かるのかしら。戻ったら話のタネに秋声にでも訊ねてみよう。
「そうそう、今朝藤村さんから手紙が届きましたの。ほら、例の秋声さんの会について」
「あー、『地味な秋声を応援する会(仮)』な」
「……その名を出してはいけませんわ」
どこで秋声が聞いているか。名前はしいっと口を押さえる。彼の耳に入ったらまた落ち込んでしまう。
そのさまを花袋も思い浮かべたのか、しようがないなぁと言いたげに眉を下げて笑った。「秋声も藤村ももっと自信を持つべきなんだよな」オレみたいに。名前に倣って、彼も声を落とした。人目もないのに、こそこそと耳打ちされるのがなんだかおかしくて。名前は肩を揺らした。
花袋は目を細める。
「どう?来れそう?」
「はい」
「よかったー!オレ迎えに行くからさ、待っててくれよな」
「ええっと、たぶん司書室にいるだけでしょうし、お迎えなんて、そんな」
「遠慮はやめてくれって。オレがしたいからする!それだけだからさ。ていうか、藤村にはさせたのにオレはダメとか言われたら立ち直れねーし」
「藤村さん?」
今の話のどこに藤村が出てくる余地があったろう?そもそも藤村に迎えに来てもらった覚えはないのだが。花袋は何か勘違いをしているのでは。
首を傾げると、いやに神妙な面持ちで頷かれた。
「そう。聞いたぜ、仲良く図書館から帰ってきたって。しかも夜中に!深夜の逢引だってオレめっちゃ落ち込んだんだからな!」
あいびき。
それが逢引に変換され処理されるのに幾分か時間を要したのは、名前にはとんと縁のない言葉だったからだ。
理解した瞬間、名前は熱を出した。
「あ、あれは偶然帰りが一緒になったというだけの話です!」
思わず押さえた頬が熱いのはきっと夏のせいじゃない。自覚するとさらに羞恥が駆け上がる。足元から夏に侵されていく感覚。あいびき。この単語は子どもの名前には早い。早すぎる。
壊れた名前を前に、花袋は噴き出した。「冗談だよ、冗談」冗談でもダメだ。煙を出しながら、花袋を睨む。はしたない言葉で揶揄うなんて!彼は笑いながら、子どもの頭を撫でた。
「まぁアンタの性格からいってそうだろうとは思ってたけどさー、ズルいもんはズルい」
ぱっと手が離された。と思ったら、今度は両頬を包まれる。「ってことで、待っててくれるよな」至近距離で夏の日差しを浴びてはひとたまりもない。名前は口を尖らせた。なんて卑怯な。しかも答えは分かってるというのにあくまで彼は名前の意思を尊重する姿勢を見せる。ほんとうに卑怯だ。
しかたなく口を開く。
「……はい、お待ちしております」
目を逸らしたのはせめてもの抵抗。手を煩わせたくないのに、厚意を喜ばしく思ってしまうのが恥ずかしい。そんな自分を認めさせる花袋のやり口は、やっぱり卑怯だ。
そろそろ戻らないとな。時計を見上げて、花袋が呟く。つられて見上げると、もうすぐ1時になるところだった。時間が経つのは早い。
名前が真白の帽子を被り直していると、先に立った花袋にバスケットを奪われた。のみならず、もう片方の手が差し出される。……逡巡。手と顔を代わる代わる見て。どうやったって動かないのを知って。ようやくその手をとった。
木陰から出るとまばゆい光に襲われた。それはつばの広い帽子でも防ぎきれない。ぼんやりとした視界。打ちつけるきいろい日差しに意識と肉体が分離していく。制御下から離れていく体。見上げる金糸がどこかとおい。けれど歩幅は全然変わらなくて。名前を先導する手は大きくて。
思考が曖昧になって、言うつもりのないことまで気づけば口にしていた。
「……どうして、こんなによくしてくださるの」
そしてひとつ零せばそれは雨のように溢れ出す。
「わたくし、花袋さんの好むような生き方ができているとは到底思えませんの。いいえ、むしろその逆。ですから分からないのです。嫌われるのなら納得もできますけどあなたは、あなたはやさしい。すぎるほどわたくしに優しくしてくださる。でも、わたくしは、」
自分でも要領を得ないことを言っていると分かっていた。けれど零れた水が戻らないのと一緒で、堰を切ったように言葉が流れた。
ずっと感じていた疑問。花袋は初めて会った時から優しかった。それは名前の容姿のせいだと秋声は教えてくれた。花袋の作品を読んで名前も納得した。確かに部分部分でいえば彼の作品に出てくる女性と似ているのかもしれない。それならそれでよかった。名前が両親と神に感謝して終わる話だ。
でも、花袋はもっと優しくなった。もっと名前を気にかけてくれるようになったし、もっと名前を構うようになった。だから分からない。自分に正直に生きる花袋と、名前は違いすぎるのに。
歩みは止まっていた。差し出したのは花袋の方だったのに、今では名前の方が彼の手に縋りついていた。
顔は上げられなかった。名前は俯いて、花袋の茶色いブーツとそれに不釣り合いな白いストラップパンプスを見ていた。「……まぁ確かに自分の気持ちを隠すのは嫌いだけどさ」おとなの声が降ってくる。名前はぎゅっと目をつぶった。
「取り繕うのが人間ってもんだってのもオレは分かってるし。……それに、アンタは変わってきてるよ」
――尾崎紅葉の説教にぶーたれてんのは、自分が望んだからでも紅葉に望まれたからでもないだろ。
こつん、と額と額が合わさる。びっくりして目を開けてしまう。否応なしに交わる視線。おなじ高さ。おなじ視界。花袋の目には名前がいて、名前の目には花袋がいた。
「つーか、アンタのそれはオレらにはバレバレだし」微笑。名前を瞳の中で抱き締めながら花袋はほほえむ。縋りついていた手がおんなじ強さで握り返される。
「だいたい、望まれるがままだったら名前はとっくにオレと結婚してるしな!」
花袋が言ったのは日ごろ繰り返されている常套句。名前がいつもご冗談をと返している科白。
でもこの時ばかりはそうもいかなくて、名前はちいさく笑い返した。
「……結婚するなら、花袋さんみたいなひとがいいわ」