空の空なるかな
名前が空条邸を訪れたのは幼馴染みの安否を心配したからである。だから怪我のひとつもなくピンピンしている承太郎を見て当初の目的は果たしたわけだが、それだけで大人しく帰る名前ではない。自分と同じスタンド使いである花京院典明が、幼馴染みの家に泊まるとなればなおさらである。
「私も泊まるわ!もっとお話したいもの。それに花京院くんだけじゃないわ、ジョセフおじさまもアヴドゥルさんも……承太郎ばっかりズルいわ!」
「何がズルいだ。だいたいてめーがいたんじゃ休めるもんも休めねぇだろ」
花京院が空条邸に留まるのは静養のためである。言外にそう言われ、名前はグッと言葉に詰まる。
「……わかったわ」
しかしそこで引き下がるような性格はしていない。承太郎に頼み込むのは無駄だと悟っただけ。
名前は身を翻し、「それならジョセフおじさまにお願いするから!」と高らかに宣言。捨て台詞と共に舌を出し、駆け出した。向かう先はジョセフ、そして空条ホリィである。この二人ならば受け入れてくれるとわかっての行動だ。
「……やれやれだぜ」
溜め息を吐く承太郎にはこの後の展開が容易に想像がついた。そして実際その通り、名前はホリィの鶴の一声によって空条邸でのお泊まりが許されたのだった。
そしてその夜。
「……眠れない」
はしゃぎすぎたからだろうか。客間に引き上げた時にはあった眠気も、ひとり布団に横たわっているとどこかへ過ぎ去ってしまった。目はすっかり冴え渡り、微睡みの気配すら存在しない。
こうなったら気分転換以外に打つ手はなかろう。名前は身を起こし、襖を開けた。
十一月二十八日。先月とは打って変わってめっきり冷え込むようになった今日この頃。夜着の上にしっかりと着込んでから名前は客間を出た。
古きよき日本家屋といった様相の屋敷。廊下を歩く、そのたびに心地のいい木の軋みが肌に伝わる。板張りの床独特の弾み。乾いた木の匂い。そうしたものがひどく好ましいと名前は思う。静寂に包まれた今は、なおのこと。
屋敷はしんと静まり返っていた。名前が立てる足音以外何も存在していないかのよう。それすらも木目の間に吸い込まれ、後には夜の闇だけが横たわる。葉擦れすらもないなんて、今夜は風までも眠りに就いているらしい。
起きているのは名前と、その頭上を煌々と照らす月と、そしてそれから──
「あら?」
右に折れ、左に折れ。台所を目指していた名前であったが、その足がぴたりと止まる。
立ち止まったのはひとつの角を曲がった時。そして行く手にひとつの影を認めた瞬間である。
名前はぱちりと目を瞬かせた。でも一度二度と瞬きをしても人影が揺らいで消える、なんてことはない。それじゃあとんだ怪談話だ。名前一人ではとても解決できやしない。
しかし人影は変わらずそこにあった。名前がそうっと歩み寄り、その隣に膝を折っても。
「びっくりしたわ、まさか私以外に月見を楽しんでる人がいるなんて」
こんばんは、花京院くん──
名前がそう笑いかけると、人影、もとい花京院典明は「こんばんは」と柔和な笑みを浮かべた。それは昼間見た時よりもずっと自然な笑い方だった。
「すみません、驚かせてしまって」
「ん?ううん……そんな謝ることじゃないわ。私が言うことなんか話し半分に聞いてくれればいいのよ」
これが承太郎だったら謝るなんて絶対あり得ない。幼馴染みの彼は名前が幽霊やなんかを恐れる手合いではないとよおく知っている。だから驚いたなどと言っても鼻で笑ってそれでお仕舞い。
その反応に慣れきっていたから花京院の真面目な返答に名前は目を丸くした。でも悪い気はしなかった。新鮮で、愉快で、きっとそれ以上の何かを齎してくれる、そんな予感がした。
「私はね、一のことを十にも百にもして騒ぎ立てる生き物なの。そういうのにいちいち真面目に取り合ってたら疲れちゃうでしょ?」
「いえ、そんなことは……。それはジョジョが?」
「そう、これは承太郎の弁。このくらいお喋りだっていっつも呆れられてるの」
「隣に座っても?」と名前が訊ねると、彼は「どうぞ」と小さく身動いだ。それも承太郎が相手なら絶対に見られなかった光景だ。
名前が隣に腰を下ろすと、花京院は小さく首を傾げた。
「眠れないんですか?」
「うん、興奮しちゃって」
それがあんまりにも子供っぽい理由であると思い至ったのは正直に口にした後のこと。不思議そうに目を瞬かせる花京院を見て、名前は頬が熱くなるのを感じた。
「だ、だって私とおんなじ人がこんなにいるなんて思わなかったんだもの……。アヴドゥルさんに花京院くん、それに今じゃジョセフおじさまや承太郎も。おんなじ仲間だって……嬉しくて」
名前は笑われるかな、と思っていた。それか呆れられるか。承太郎だったらそんな反応を返してくる。そう思った。
でも花京院は違った。ちらりと窺い見た顔。端整な面立ちに浮かぶのはそういった類いの色ではない。一瞬の驚き、そしてそれが過ぎ去った後、瞳に宿るのは──温かな光。
「……わかります、その気持ちは、よく」
柔らかく細められた目。それはとても穏やかな表情であったけれど、少しだけ雨の気配がした。星空を浮かべた水面には微かな揺らぎがあった。微笑は硝子細工ほどに繊細で、故に尊く美しいものだと名前は思った。
「花京院くんはどうしたの?」
「ぼくも眠れなくて。どうやら昼間休みすぎたみたいです」
恥ずかしそうに目を伏せてから、花京院はすっと空に手を伸ばした。一直線に、青白い月へ向かって。指差し、彼は「ここからはとてもきれいに見えるんですね」と小さく笑った。
「本当だ」
名前は首を伸ばした。広大な空条邸。しかし木々や建物に邪魔されず夜空を仰げる場所ときたら限られてくる。それもこんなきれいに──何に邪魔されることなく見ることができるなんて。
天には冬の大三角もかかっていた。おおいぬ座のシリウス。光輝くもの。英雄の忠犬。
「エジプトではソティスと呼ばれているんだ」
花京院の声は穏やかで、語り口ときたら子守唄のよう。今日会ったばかりの人なのに、不思議と名前にはそんな気がしなかった。こうして隣にいても緊張感なんてない。スタンド使い、という共通項があるからだろうか。
「古代では特に重要視されていたらしい。なんでもシリウスが姿を現す頃ナイル川が増水するから、だとか」
「へぇ〜……、じゃあシリウスのお陰で農作物が沢山取れる、って考えてたのね」
「たぶんね」
名前は尊敬に満ちた眼差しを花京院に向けた。
エジプト、日本から遠く離れた国の話。地理や歴史の授業でちらりと出てくるくらいで、それ以外考えもしなかったこと。なのに花京院はこんなにも詳しい。名前の知らないことを教えてくれる。
──あぁ、やっぱり。
「私も転校しようかな……」
「どうして?」
「だって花京院くんともっと仲良くなりたいもの」
口を尖らせると、花京院はクスクスと肩を震わした。名前は真剣なのに。なのに彼は冗談だとでも思っているのだろうか。「ありがとう、そう言っていただけて光栄です」なんて言って、宥めるように名前の頭を撫でた。……完全に年下扱いである。尤も、悪い気はしないのだけれど。
「でもそう考えるとDIOってズルいわよね、スタンド使いをいっぱい集めてるんでしょう?」
「……たぶんね」
「やっぱりズルいわ!私だってスタンド使いの友達たくさん作りたいのに!!」
名前は歯噛みした。DIO、承太郎たちの敵。命をつけ狙う男。だが名前は面識がないし因縁もない。だからどこか他人事のように考えていた。
しかし今この瞬間DIOに対して許せないという怒りの炎が一気に立ち上った。
──自分ばっかりスタンド使いを囲って!それも精神を支配するだなんて姑息な手を使って!
「……DIOに対してそんな風に思えるのは君くらいなものじゃあないかな」
花京院は感嘆ともつかぬ溜め息を吐いた。その目は眩しいものでも見るかのようで、名前は彼がDIOに無理やり従わされていたのを今さらになって思い出した。そういえば承太郎がそんなことを言っていたな、と。
今でこそ何でもない風であるが、内心もまた表層と同じかまではわからない。花京院は真面目な性格のようだし、蟠りが残ってしまうのも致し方ないことだろう。
とはいえ名前はまだ花京院のことをよく知らないし、DIOのことといえばもっとだ。だから慰めの言葉は持たない。その代わりいつものように笑って、
「そりゃあ私はまだ会ったことないもの。だからこうして好き勝手言えるってわけ」
と花京院の肩を叩いた。そしてそれから両の拳を握り、月に向かって宣言する。
「決めた!私、いつか絶対世界を回ってみせる!それで色んなスタンド使いと仲良くなってやるわ!」
振り仰ぐと、花京院も微笑んでいた。「君ならできる気がする」そんな優しいことを言ってくれる彼と、まずはもっと親しくなりたい。
そんなことを思う名前はまだまだ呑気で、DIOがどれほどに恐ろしい男なのかということを全く理解していなかったのだ。