エジプトへ向かえ


 スタンドの発現によって倒れたホリィ。彼女を治すことは名前のスタンドでも不可能だった。幾ら時間を巻き戻したって原因が取り除かれない限り未来は変わらない。ホリィの場合もそうで、つまるところ結局DIOを倒さなければ彼女を救うこともできないというわけだ。

「そんな……」

 その事実は思いの外名前の胸を抉った。
 悔しくて涙が出そうだった。特別な能力。他の人にはない力。天からの授かり物。名前は自身のそれが愛する隣人に手を貸すために生まれたのだと信じてきた。物心ついた時、スタンドを発現させた時から、ずっと。

 ──なのに、肝心な時には役に立たないなんて。

「名前、君が気に病むことはない」

「おじさま……」

 唇を噛んだ名前にそう優しく声をかけたのはジョセフだった。彼は自分の娘が大変な時だというのにそれでもなお名前に優しさを分けてくれた。家族にするみたいに頭を撫で、微笑みかけてくれた。
 だからこそ、なおのこと胸が痛い。彼に、彼らに報いることのできない自分が悲しくて悔しくて心はぐちゃぐちゃだった。

「ありがとう、おじさま」

 それでも名前もなんとか笑顔を浮かべた。ぎこちなくてらしくなくて嘘くさい。そんな具合であったけれど、それが名前の精一杯。再び視線を眠るホリィに移した時にはもう悲痛が顔に表れていた。

「みんなエジプトへ行くのよね……」

 名前の呟きに応えたのはジョセフだった。彼は「あぁ」と重々しく頷いた。

「ホリィを救う、そのためにはこれ以外の術がない」

 壁に寄りかかっている承太郎は何も言わなかった。帽子のツバで顔色さえ窺えない。でもその影の下で何を考えているのかだけは名前にもわかった。
 彼は母親思いの男だ。心根は優しいことを名前はよく知っている。知っているから、今の彼の心境を思って胸が塞ぐ思いだった。

「私……私もエジプトへ行きたい」

 だからそう呟いたのも無意識のうち。口に出してから、自分でも納得がいった。そうする他この苦しみを取り除く方法がないのだとも理解した。
 名前はいつも優しいホリィのことが大好きだ。幼馴染みの承太郎のことも、昔からよくしてくれるジョセフのことも。そんな彼らが戦うというのだ。ただ見ているだけなんてできない。

 ──何より、そんな自分は許せなかった。

「なっ、何を言っている!」

 声を上げたのはジョセフだった。でも承太郎も視線を名前に移した。それを感じ取りながら、名前はゆっくりと唇を開いた。

「私も連れていってほしい、そう言ったの」

 外では木枯らしが吹いていた。庭園はすっかり色が抜け落ち落莫たる風情。灯りが消えたようだった。辺りには寂しげな静寂ばかりが広がっていた。
 こんな空条家は見たことなかった。すべてはホリィが病に倒れてからだ。だからこんなにも物悲しい。屋敷までもがみんな寝静まってしまった。すべてが死に絶えたみたいに静かだった。

「私だけがここに残るなんてできない。私もホリィさんのために何かしたい。何かしてなくちゃ……ダメになってしまいそう」

 名前はひたりとジョセフを見据えた。思いを眼差しに込めた。そして切々と訴えかけた。

「お願いです、ジョセフおじさま。迷惑はかけません。泣き言だって言わないわ、だから……」

「だ、ダメじゃダメじゃ!親御さんに申し訳が立たない!」

「それを言ったら花京院くんはどうなるの!」

 案外頑固なジョセフを前にして名前も必死だ。ホリィを気遣って声を落としながら、しかし語調だけは鋭い。何がなんでも譲らない。そんな気持ちを乗せて唇を固く引き結ぶ。
 するとジョセフも「うっ」と言葉を詰まらせた。花京院典明。名前と同じく学生で、しかもジョースター家の因縁とは無関係の少年。しかし彼もまたエジプト行きを決め、ジョセフはそれを許した。その手前、子供だからという理由が通じない。
 だがジョセフは咳払いをすると「君は女の子だろう」と言い聞かせる調子で名前に言った。

「傷でも残ったらどうするというんだ!」

「まぁ!おじさまったら旧時代的なこと言うのね!」

 それに名前のスタンドなら外傷はなかったことにできる。そう、原因さえ取り除けたなら。つまり敵を倒しさえすれば、そして相手の戦意を消失させればそれで傷だって治せてしまう。ジョセフの説得は効かないのだ。
 それを改めて告げると、ジョセフは唸り声を立てて難しい顔をしてしまった。反対したいけど手の打ちようがない。そんな表情だった。

「……承太郎はどう思う?」

 そして彼はだんまりを決め込んでいた孫に水を向けることにしたらしい。承太郎なら何か上手いこといって丸め込めるんじゃあないだろうか。そんな期待を帯びた視線だった。

「……さぁな」

 しかし彼の孫ときたら我関せず。放り投げるように言って、学帽を被り直した。それから名前をちらりと一瞥。静かな目で幼馴染みを見下ろし、相変わらずの仏頂面で続ける。

「好きにさせたらいいんじゃねぇか」

 ──そんな、名前にとっては有り難い言葉を。

「じょ、承太郎ッ!?おまえ何を言って……」

「こうなったこいつには何言ったって無駄だ。それに……」

「それに……?」

「いや、なんでもねぇ」

 ジョセフと承太郎。祖父と孫のやり取りを聞きながら、しかし名前の思考は上の空。承太郎の先程の援護──いや、彼にその気はないかもしれないが──その台詞が頭の中を木霊していた。

「まぁそこまで言うのなら……承太郎がちゃんと守ってやるのだぞ」

「ふん」

「それならよい。ま、正直なところ名前のスタンドはわしらにとっても助かるものだからなぁ」

 ジョセフとの会話を切り上げると、承太郎は「おい、」と名前を呼んだ。おい、名前──ったく、なに腑抜けたツラしてんだ──

「はわっ!な、なにかな承太郎ッ!?」

「早く支度してきなって言ってんだ。あんまりボケーっとしてるようなら置いてくぞ」

「そっそれはダメ!待って待ってすぐ準備してくるから……」

 慌てて立ち上がり、部屋を出たところで名前は振り仰いだ。承太郎、愛すべき隣人へ。幼馴染み故に誰よりも名前を理解してくれている彼へ。

「ありがとう、承太郎っ!」

 笑いかけても承太郎はつれない。「ふん」と鼻を鳴らし、「早く行け」とばかりに手で追い払う仕草をする。まったく、犬か何かだとでも思っているんじゃあないだろうか。
 しかし今回ばかりは名前も何も言わない。それを上回る喜びがあって、名前が思うことといえば。

「やっぱり持つべきものは幼馴染みね……」

 そう独りごち、名前はそそくさと隣にある自宅へと向かった。今日は学校をサボってしまった。しかも下校にはまだ時間がある。だから家族には見つからないように帰り、再度抜け出さなければならないのだ。
 もしかするとこちらの方がジョセフを説得するより難しいかもしれない。
 名前は内心で家族に謝りながら裏口へと回った。叱責は帰国してからなら幾らでも聞きますからと祈りながら。