アバッキオの妹になるV


 アバッキオの妹はオレの姿を認めると慌てて立ち上がった。

「はっ、はじめまして、ブチャラティさん!」

 オレが指定したのは贔屓にしているリストランテ。だが彼女の方が先に着いているというのは予定外。約束の時間まではまだ十二分にある。
 「早いな」そう素直な感想を述べると、名前は「緊張しちゃって」と恥ずかしそうに頬を掻いた。

「何せあなたは兄さんの恩人ですから」

 名前がオレを見る目にはキラキラとした輝きが宿っていた。羨望。憧憬。恩義。いずれにしてもその光はあまりに眩しく真っ直ぐなもの。気持ちいいまでに透き通っている。
 オレは「大したことはしていない」と言いかけ、やめた。そう言ったところで彼女は否定するだけだろう。容易に想像がつく。
 だからオレは「そうか」とだけ答えた。まるで気にしちゃいないといった具合に受け流した。

「オレのことは知っているんだな」

 席に着き、オレは控えていた給仕係に合図を出した。「いつものを」時刻は昼食にしては遅すぎ、夕食にしては早すぎた。カフェと少しのドルチェがちょうどいい。

「ええ、兄さんに関わることですから」

 挨拶の時は顔を強張らせていた彼女。しかし『兄さん』と口にした時は違う。兄さん──レオーネ・アバッキオを指す言葉。それを舌に乗せた時、彼女の表情はわかりやすく緩んだ。溢れんばかりの愛情がそこにはあった。

 ──そしてそれはアバッキオにも共通するものだ。

「あんなことがあって……でも私には何にもできませんでした。だから兄さんが立ち直ったと知って、私はすぐにあなたのことを調べました」

「調べた?」

「ええ、……あの、失礼な話ですけど。でも兄さんのことですから」

 名前は気まずげに視線を泳がせた。
 要するに彼女は兄の身を案じていたのだろう。汚職事件とそれに関連して発生した警官射殺事件。傷心のあまり自暴自棄になっていたアバッキオ、彼を慕う妹としては兄の変化は見逃すことのできないもの。どんな人物が接触してきたのか気にかかるのは当然だ。
 オレは「構わないよ」とあからさまなまでに口許を緩めた。名前を安心させるための微笑。それを察し、名前も「ありがとうございます」と微笑んだ。その表情は年相応で、彼女はまだ十五なのだということを実感させられた。

「ですが、……ご迷惑をおかけしました。あなたのことを知るためとはいえ、鬱陶しかったことと思います」

 「ご存知だったのでしょう?」と眉を下げる名前に、オレは内心で舌を巻いた。

 ──まさかこれほどまでに察しがいいとは。

 彼女の指摘通り、オレは知っていた。アバッキオをチームに誘った後、直後から感じるようになった視線。探る眼差しにオレは気づいていた。
 最初は組織の手の者かと疑った。だが相手がそれ以上の手出しをしようとはしないこと、その視線も一週間ほどで収まったことからオレは無害と判断した。
 その視線こそが彼女、名前のものであったのだろう。時期が時期であったし、アバッキオに関する資料を読んでみれば該当するのは彼女くらいなものだった。兄と同じく警官を志す少女。だからきっと、彼女なのだろう、と。

「……いや、気にしていない。それにそんな不快なものでもなかったしな」

 そんな心中は隠し、オレは彼女を安心させるように殊更優しく答えた。
 名前はまた「ありがとうございます」と頭を下げた。

 ……よくできた妹だ。

 アバッキオは『手のかかる』と形容していたが、それはきっと兄への甘えであったのだろう。オレと相対する彼女は一端の大人で、とても十五歳の小娘とは思えなかった。

「しかし勿体ないことをしたな。あの様子じゃ立派な警官になれたろうに」

「そう言っていただけて嬉しいです。……でも、後悔はありません」

 名前はふ、と遠くに目を馳せた。その目は現在に焦点を当てたものではない。これよりずっと先、未来を見る目だった。

「……友達想いなんだな」

 彼女の声音には微塵の躊躇いもなかった。後悔はない。その言葉通りに。この様子だと例え時間を巻き戻したって彼女は同じことをするのだろう。
 アバッキオには隠しているようだが、オレの目は誤魔化せない。というより、この地区で起きたことは自然とオレの耳に入ってくる。だから彼女が兄に明かさなかった真相だって、オレは知っている。
 彼女には友人がいた。この国の者ではない、黒髪に緑の目をした少年。彼女は彼のために放校処分を受けた。異国人への嘲笑や優秀な彼への嫉妬、そんなものへの抗議として彼女はそれを行った子供たちをぶん殴って黙らせたというのだ。
 しかしその相手の中には権力者側の子供がいた。なんともまぁ有りがちな話である。が、一市民に過ぎない名前は逆らうことなく処分を受け入れた。親にも教師にも真相は包み隠したまま。──勘当などという罰さえにも大人しく従ったのだ。

「いいえ、これは私が勝手にやったことです」

 しかし悲運の少女はちっとも堪えた様子がない。いっそ清々しいまでの言い切りよう。名前は朗らかな笑顔のまま、「だから後悔なんてないんです」と断言した。

「それにちょうどいいかなって思ったのも嘘じゃあないんです。勘当されたら兄さんとも自由に話せる、だから悪いことばっかりじゃありません」

「そうなのか」

「そうなんです」

 冗談めかして言ってから。
 名前は視線を落とし、「きっと、いつかはこうなってました」と呟いた。

「自由や正義は他人のそれを阻害してしまう。……私が警官になったとしても、うまく折り合いをつけることは叶わなかったでしょう」

 それはひどく静かな独白だった。彼女の声は波の引いたリストランテによく響いた。水面に生じる波紋のごとく、ぽつりと落ち、広がっていった。
 オレは彼女の兄のことを考えた。──アバッキオもまた、同じ苦しみを抱えていた。恐らくは、きっと。彼が詳らかにしたことはなかったが、汚職に手を染めたのはそんな葛藤ゆえだろう。

 そしてその身には余りある正義感を宿した名前も、また。──同じ道を歩むことになりかねなかった。

「……アバッキオから頼まれたのはお前に仕事を紹介することだ」

「はい、そう聞いています」

「お前が望むなら……組織への入団試験を受けることも可能だ」

 「オススメはしないがな」と付け加え、オレは名前を見つめた。じっと、心中を見透かすように。

「ええ、それでも私は──力がほしい。誰かの自由を阻むとしても、私は私の正義を貫きたい」

 しかし名前はたじろがなかった。ほんの少したりとも。静かな、けれどはっきりとした語調で言葉を紡いだ。
 アバッキオ譲りの瞳。黄金の獅子を彷彿とさせる力強い目だった。揺るぎない意志があって、それは危うさすら感じさせた。そしてその真っ直ぐさはオレにある種の予感を抱かせた。

 ──もしかすると彼女が辿る道はオレのそれと重なるのかもしれない。

「お待たせいたしました」

 そこで折よくやって来たのは給仕係の男。彼はオレと名前の前にカフェとカッサータを並べた。

「えっ、いいんですか!?私は頼んでないですけど……」

「いいんだ。オレの顔を立てると思って貰ってやってくれ」

「わ〜!ありがとうございます!」

 カッサータにパッと目を輝かせる名前。子供らしく可愛らしい反応。コロコロと変わる表情は微笑ましく、オレの心までも和ませてくれる。

「なんだかお前の兄が羨ましくなってきたな」

「あはは、物好きですね」

 「じゃあ兄さんに見放されたらその時はお願いします」と言う名前はオレの言葉を冗談と受け取ったらしい。

 ──尤もそんな日は永久に来ないだろう。

 アバッキオの様子を思い出し、オレは心の中でそう呟いた。