『灰の塔』


 二十時三十分、成田発カイロ国際空港行き。その飛行機はバンコクを経由し、およそ十七時間三十分かけてエジプトに到着する。

「ってことはカイロに着くのは明日の十三時……結構早いのね」

 エジプトなんて遥か遠く。想像すら曖昧なくらいに異国だと考えていたけれど、空路は存外便利にできているらしい。一日かからないと考えるとあっという間の旅だ。
 乗り込んだ飛行機の中、早速シートベルトを締める名前の隣、承太郎は相も変わらず冷静そのもの。既に緊張し始めている名前とは対照的だ。
 彼は座席を少しばかり倒しながら、「そうでなきゃあ困る」と呟いた。それはほんの小さな呟きではあったけれど、いたく名前の胸を打った。

「そうよね、ホリィさんのこと心配だもの」

 名前は組んだ指の上で息を吐いた。空条ホリィ。朗らかで優しいひと。彼女の笑顔を思い出すと名前も温かな思いが込み上げる。
 幼い頃から娘同然に接してくれた。そんな彼女を名前も母のように慕った。だからあんな風に弱りきった彼女は見ていられなかった。
 名前ですらそう思うのだ。実の息子である承太郎の苦しみといえばどれほどだろう!
 なんとしてもDIOを倒さなくてはならない──最早名前にとってその男はフィクションではなかった。どこか遠く、彼岸の人ではなく、越えるべき壁だった。殺すだの殺されるだのはまだ現実感がないが、けれどDIOだけはどうにかしなくてはならないのだということは名前にも諒解できた。例え彼がどんな人物だったとしても、名前は自分の身勝手を貫くと決めていた。
 そんな具合に決意を新たにする名前に対し。

「それもあるが、……やれやれ、高校くらいはまともに卒業しとかねーとな」

 承太郎が口にしたのは名前が頭の片隅にすら置いていなかったこと。高校。卒業。名前も決して優等生とは言えなかったが、しかしそこまでの危機感を抱いたことはない。さすが承太郎。

「不良」

「うるせぇ」

 別にこれは非難ではない。むしろ凄いとすら思う。問題ばかり起こす素行不良児だというのに、これで試験の成績は悪くないというのだから地頭の良さは手放しで褒めるべきだろう。
 まったくもって羨ましいものだ。どんなに真面目に数学の授業を受けたって、名前ときたら赤点すれすれを低空飛行し続けているのだから。いったいどこまで天に愛されているのやら。
 しかし承太郎はといえば名前の称賛をたったの一言で一蹴。

「さっさと寝ろ」

 そう続けて、名前の頭に学帽をばさりと被せてくる。
 「わっ、」名前には大きすぎるそれは、お陰で視界に影を落としてくれる。強制的に眠らせるつもりか。いや、とにかく口を塞ぎたいだけなのかもしれない。

「もう。乱暴なんだから」

 名前は文句を言って、しかし帽子を取り去ろうとした手を止めた。
 ……これはこれでいいのかもしれない。
 視界が暗くなるということは、即ち外界からは名前の顔も見えないということ。そう思い直し、ツバの下から幼馴染みを見上げた。

「いいけど寝顔は見ちゃダメだからね。寝言も聞かなかったことにして」

「ヨダレは?」

「垂らさないから!」

 ──まったくもう!
 承太郎は名前を何だと思っているんだろう?これでも同い年だというのに、名前に対する反応は小動物か幼子でも相手にしているみたいだ。
 今だって揶揄いの言葉を吐くと、くつくつと肩を震わしている。そんなのすら絵になるからジョースター家というのは恐ろしい。荒っぽいところもステキ、とかなんとかで乙女に黄色い声を上げさせてしまう。

「花京院くんはこんな風になっちゃダメよ、反面教師にしてちょうだいね」

 後ろの座席に向けて当てつけのように言うと、突然話を振られた花京院は驚きに目を瞬かせた。
 「え?え、ええ……」わかったような、わからないような。そんな曖昧な返事。曖昧な微笑を浮かべる花京院は戸惑っている様子。急に距離を詰めすぎた──かもしれない。

「おい、絡むな」

「はぁい」

 大人しく承太郎に従い、名前は前を向いた。学帽の下で目を閉じ、背後の少年のことを考える。
 花京院典明。友達になりたいと思う。生まれながらのスタンド使い。歳も近い。彼とは色々なことを話したい。例えばそう、昨晩のように。あの時はとても近くに感じた彼が、今は少しだけ遠退いた気がした。

「難しい……」

 彼と親しくなるには根気が必要かもしれない。急に距離を詰めるのではなく、ゆっくりと歩み寄るのが適切だったか。
 そう反省しながら、名前は意識を暗闇に沈めていった。





 次に名前が目を覚ましたのはブゥンという耳障りな音のせいだった。

「なに……?」

 微睡みに目を擦り、辺りを窺う。その間にも音は絶えず響き渡る。広くはない機内、その中を縦横無尽に。打ち鳴らすもの、その正体は──

「か、かぶと…、いや…、クワガタ虫だっ!」

 承太郎は目を見開いていた。名前は内心で「どちらでもいいわ」と叫んだ。どちらだって構わない。だって一瞬捉えたその姿、羽音を響かすものといったらなんともおぞましい。
 ただでさえ昆虫は得意ではない。にも関わらずこのクワガタ虫、普通のと比べてあまりにも大きい。それに羽の辺りの模様が目にも見えて薄気味悪い。
 名前は小さく呻いた。……気持ち悪い、と。

「は…早くも新手のDIOのスタンド使いかッ!」

 ジョセフの声に応じたのはアヴドゥルだ。知識の豊富な彼は虫の形をしたスタンドに心当たりがあると言う。

「タロットでの『塔のカード』!…破壊と災害…そして旅の中止の暗示を持つスタンド……『灰の塔』!」

「承太郎ッ!」

 人の舌を好んで食いちぎる虫のスタンド──タワー・オブ・グレー。
 虫の姿をしたスタンドはスタープラチナの攻撃を避けた。それだけでなく長い針を伸ばし、スタープラチナの口内へ。防御のために伸ばした掌を貫いて、その針は承太郎の口に傷を残した。歯で一瞬早く針を止めなければ、今ごろ承太郎の舌は引きちぎられていただろう。事実承太郎の口端からは血が流れている。その鮮やかな赤は暗い機内でもはっきりと見て取れて、名前は思わず彼の名前を呼んでいた。
 そんな名前に「大したことねぇ」と言って、承太郎は口許を拭った。吐き捨てたのはタワー・オブ・グレーの針、その一部だろうか。だがクワガタ虫の方はピンピンしている。

「ククク……」

 瞬きの間に移動するスタンド。タワー・オブ・グレーは気味の悪い笑いを立てて、そして──

「なっ、なんてこと……!」

「や…やりやがった!!」

 再び姿を現したタワー・オブ・グレーの針の先には人間の舌が四つ。一息で乗客の舌を引きちぎって、その血で描くのは『みな殺し』の文字。

「くっ……」

「無駄だ!」

 咄嗟にスタンドを出しかけた名前を止めたのは意外にもアヴドゥルだった。彼は名前の考えを瞬時に察した。名前の足掻きを──血を流す人々の時間を巻き戻すことを。
 反射的にそうしかけた名前を制し、アヴドゥルは静かに首を振った。

「もう、助からない」

「そんな……」

 あまりに残忍、あまりに冷酷。人を人とも思わぬやり口。なんの罪もない乗客を四人も殺したタワー・オブ・グレーに、覚えるのは恐れよりも怒り。煮えたぎる憤怒に目が回りそうだった。こんなにも怒りを覚えたのは初めてだ。名前は自分の前に立ったアヴドゥルの外套の裾を握り締めた。

「ここはわたしの静なるスタンド、『法皇の緑』こそヤツを始末するのにふさわしい」

 そんな人の心を持たぬ畜生の前に立ち塞がったのは、静かな目をした花京院典明であった。