五月の白百合


 香港沖三十五キロ地点に不時着した飛行機。機内で襲撃してきたタワー・オブ・グレーは花京院の機転により撃破されたが、敵は用意周到にも機長たちを手にかけていたのだ。

「死ぬかと思った……」

 お陰で飛行機は墜落。慌てて乗り込んだ救命ボートの上、ようやく名前はホッと息を吐くことができた。
 下降していく機体、その中にあって人の体はとても無力だ。足元がふっと消え失せる感覚。例えばそう、エレベーターが高層階から一息で地上まで落ちるような。でも名前にはどうすることもできない。名前にできたのは神へ祈ることと、ジョセフの操縦技術を信じることだけだった。
 そう、ジョセフが飛行機を不時着させてくれたお陰で名前はこうしてまだ生きていられるのだ。

「ジョセフおじさまって本当にすごいわ!こんなに上手く着水させるなんて!」

「わはははは……ま、これが年の功というものよ」

 名前が尊敬の眼差しを向けると、ジョセフはちょっとばかし得意気に笑った。
 その背後には海水に半ばほどまで浸かった飛行機が一機。しかし衝撃でどこかの部位だけが切り離されたり、炎上したりなどはしていない。まったくもって静かなもの。墜落時は恐怖に震えていた乗客も、今は皆海上を静かに漂っている。とはいえ恐らくは突然の出来事に呆然としているだけなのだろう。
 しかしこうして無傷で済んだのはすべてジョセフの功労である。得意になるのも当然だ。そう思い、すごいすごいと拍手をする名前であったが、その前に座る承太郎はといえば「どうだかな」と言って肩を竦める。

「じじいが乗らなきゃ墜ちなかったかもしれねぇ」

「オイオイそりゃあないだろう」

「……人生で三度も墜落するヤツがあるか」

「ウッ……」

 自分の乗った飛行機が墜落するのは三回目の経験だ。
 そう告白したのはジョセフ自身だ。過去の二回がどういう経緯で起きたのかは知らないが、まず間違いなくジョセフと飛行機は相性が悪い、ということになる。だってこの中の誰一人としてそんな経験はないのだから。
 劣勢に立たされたジョセフ。「ま、まぁまぁ」そんな彼を庇うように名前は身を乗り出した。

「逆に考えればツイてるってことになるんじゃないかしら?ね!ジョセフおじさまがいれば堕ちても安心じゃない?」

「そもそもフツーは墜ちねぇ」

「うっ……」

 まぁ確かに。承太郎の言うことも尤もだ。
 名前としてももうこんな経験二度と御免である。もう懲り懲りだ。真っ暗な海の上、頼りない足元のまま漂うなんてこと、好んで引き受ける者がいたら見てみたい。
 反論の語を失い、押し黙る名前。「そこで負けるんじゃあない!」そう励ますのはジョセフである、が……申し訳ない。名前にはこれ以上の言葉が思い浮かばなかった。

「……くしゅんっ、」

 その時一陣の風が吹いた。ボートは揺れ、冷気が背筋を駆け抜ける。そのせいで名前の口から反射的に出たのは抑えきれなかったくしゃみ。口許を覆い、鼻を啜る。

「おおそうか、寒いよなぁ。どれ、わしの上着を貸そう」

 と、一番に気遣いを見せるのはやはり年長者である。ジョセフは「気づかなくてすまなかった」と言って、早速上着を脱ごうとする。

「へ、平気です!それにそれじゃあおじさまが凍えてしまうわ」

「女の子こそ体を冷やしちゃいかんと言うだろう。わしは大丈夫…、ほれ、この通り筋肉があるからのう」

 ジョセフはにっこりと笑って名前の頭を撫でた。「これくらい泣き言には入らんよ」彼はちゃんと覚えていた。エジプトへの旅、その同行の許可を求めた時、名前が宣言したことを。そしてそれを今の名前は頑なに守ろうとしているのだと諒解していた。
 ──さすがはジョセフ、人のことをよく見ている。これこそ年の功というやつだろう。

「なに、それには及びませんよ」

 しかしもう一人の年長者によってジョセフの行動は阻まれた。
 モハメド・アヴドゥル。火炎を操るスタンド使い。占い師という職業ゆえか、彼の笑みはとても親しみやすい。兄とも父とも違うが、その微笑は名前に安心感を与えてくれる。頼りがいがある、というのか。
 スタンド使いとしても大先輩、そんなアヴドゥルはそう言うと、パチンと指先を鳴らした。
 そしてそのあと、宵闇に浮かぶのは──鮮やかな橙色の焔。

「わぁ……っ!」

 その様はさながら鬼火。しかしウィル・オ・ウィスプと違うのは、それが煙のように消えないという点。点けるのも消すのも自由自在。炎はすべてアヴドゥルの制御下にあるのだ。

「これで暖を取るといい」

「ありがとう、アヴドゥルさん!」

 これにはさすがの承太郎も「便利なもんだな」と呟く。名前も同意見だ。炎を操る、単純な能力であるけれど、だからこそ応用も利くし、それを可能にするアヴドゥルの精神力は余程のものと見受けられる。
 そして感嘆の溜め息を溢したのは名前だけではない。

「すごいな、まるで鬼火だ」

 同じく生まれながらのスタンド使いである花京院も、アヴドゥルの能力に称賛を露にした。

「それ、私も思ったわ!ウィル・オ・ウィスプってこんな感じなのね、って」

「ははっ、わたしは人を騙すようなことはしないがね」

「もちろん!例えですよ、例え」

 笑い合うアヴドゥルと名前。その傍ら、花京院も表情を緩めた。

「じゃなきゃあアヴドゥルさんは精霊だとか妖精だとかの類いになってしまいますね」

「鬼火ってそうなの?」

 花京院の台詞は冗談だが、出てきた言葉は名前の興味を引くもの。訊ねると、花京院は「一説では」と小さく顎を引いた。

「死んだ子供だとか犯罪者の魂だとかの他に、プーカという妖精が化けたものだという話もあるそうですよ」

「あぁ、確かアイルランドの伝承だったか」

 花京院のあとを引き継いだのはアヴドゥルだ。承太郎は興味なさげだし、ジョセフは「詳しいな」と半ば呆れ顔だ。
 だが名前にとっては興味深い話題であることに変わりない。何より知らないことを知るのは楽しいものだ。日本では狐火とも呼ばれる鬼火。欧州ではイグニス・ファテュウス、愚者の火とも言うらしいそれ。二人のお陰でそんなことまで学ぶことができた。

「詳しいのねぇ……」

 名前が呟くと、アヴドゥルは「職業柄」と笑った。花京院は「学校じゃなんの役にも立ちませんけど」と眉を下げた。その台詞は彼もまた名前と同じ高校生だということを思い出させた。

 あんなにも堂々と──余裕さえ窺わせる立ち回りを演じてみせたというのに。

 名前が思い浮かべるのはつい先刻の出来事。機内で行われたタワー・オブ・グレーとの戦い。それは名前にとって初めて見るスタンド同士の殺し合いだった。
 花京院の戦いぶりは実に見事だった。美しいとすら思った。エメラルドスプラッシュ。ハイエロファントグリーンの放つ貴石の弾丸には目を奪われた。光を反射し瞬く緑。名前には彼の背後に翠の海すら見ることができた。

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでもないわ」

 そんな感想を口にしかけて──名前は思い止まった。なんだか改まって言うのは気恥ずかしい気がした。こんな風に、みんなが一緒の時なんか、特に。
 だから名前は首を振った。

 ……また、今度。

 機会があったら伝えよう。とてもきれいだと思ったこと、ハイエロファントグリーンの姿をもっとよく見たいと思ったこと。そうしたことをいつかは花京院に伝えたいと思った。