香港旅情


 一夜明けて十一月二十九日。救助された名前たちは香港島北部、銅鑼湾に降り立っていた。

「これが香港……」

 通りに並ぶ大衆食堂に露店。赤や黄色で描かれた看板は目に眩しいほど。道路を横切るようにして張り出されたものもあって、お陰でいやに混沌としている。路地から見上げる空は小さく、名前は呆気に取られた。
 ──香港。その名から想像した通りの景色、古めかしい空気がそこにはあった。

「ここは渣甸街……レストランなんかが豊富な通りだ」

 勝手知ったる、といった顔で解説してくれるのはジョセフである。なんでも香港には何度も足を運んだ経験があるらしい。

「レストラン?どんなのがあるんですか?」

「なんでもじゃよ」

 名前の問いにジョセフは片目を瞑って答える。

「粥麺店に茶餐廳、甜品屋……選り取りみどりに並んでいるのがこの通りの特徴だ」

「へー……」

 銅鑼灣──アヘン戦争を契機として開発と発展を続ける地域。その中でも灣仔寄りにあるヘネシー・ロード。この通りの南側にあるのが現在名前たちのいる渣甸街である。
 ジョセフの説明を受け、名前は改めて辺りを見渡した。
 金藍湖茶餐廳、麺家豆漿専家……なるほど、ジョセフの言った通り。豪奢な高級店というのがない代わりに、ひどく親しみやすい空気が流れている。いわゆる下町風情、というものか。
 オープンキッチンを持つ店も多く、鼻先を擽るのは食欲をそそる香り。焼き餃子や粢飯を食べ歩く人々の姿もあって、名前の視線は自然とそれらの方へ流れていった。
 しかしジョセフにはこれ以上の紹介をする気はないらしい。

「ちょいとここらで待っててくれ」

 そう言って、彼はひとり道路を渡る。向かう先にあるのは公衆電話。ジョセフの目的がそらであるのは明らかで、彼の足取りには迷いがなかった。

「どこに電話してるのかしら」

「さぁな」

「SPW財団じゃないか?飛行機の手配をしてくれたのも彼らだからな」

 名前の呟きに答えたのは対照的なふたり。つれない承太郎とは違い、アヴドゥルは真っ当な返事をくれる。それが彼のいいところだ。名前はアヴドゥルの真面目さを好んでいた。

「長くなるかしら……」

 ──でも今は承太郎に絡む余裕がない。
 名前は嘆息し、空っぽのお腹に手をやった。油断すると腹の虫が鳴き出してしまいそうだった。おまけにジョセフの話を聞いてしまった今、脳内に繰り広げられるのは甘美なる誘惑。エッグタルトにパイナップルパン、マンゴープリンやツバメの巣──料理の数々を想像し、余計に空腹が意識された。

「…………、」

 溜め息を溢す名前に、何事か言いかけたのは花京院。しかし彼が声を発するより早く──

「なんの音?びっくりした」

 辺り一帯に響いたのは『ドーン』という重たげな一声。号砲に目を丸くしたのは名前だけではない。承太郎だって怪訝そうにしていたし、アヴドゥルは忙しなく周囲に目を配った。

「これは午炮──ヌーン・ディ・ガンですよ。正午を報せる空砲の音なんだ」

 そんな彼らに正答を齎したのは、唯一平静を保っていた花京院だった。彼は目許を緩めると、名前に解説をしてくれた。
 この空砲を撃っているのは千八百年代に設立されたジャーディン・グループであること。昔は船が入港した時に祝砲を撃っていたが、民間企業が大砲を撃つことにイギリス海軍が怒ったこと。その懲罰として毎日正午に空砲を撃つようになったこと……。

「そうなんだ……、古い歴史があるのね」

 そう聞くと、先程までなんの感慨も抱いていなかった音が特別な意味を持つようになる。『由緒正しい』とか『歴史的価値のある』とか、そういった枕詞に弱い名前だ。実に単純なもので、貴重な体験ができたと目を輝かせる。

「もしかして花京院くんも香港に来たことあるの?」

「えぇ、何度か。両親の趣味で」

「それにしたってすごいわ、博識ね」

 花京院は「旅行誌の受け売りですよ」と謙遜するが、とんでもない。それを覚えていられるだけの記憶力、名前は自分の無知さ加減が少し恥ずかしくなった。
 羨望や憧憬。そんなものを籠めた目を向けると、花京院は目を伏せた。僅かな羞じらいの滲む頬。

「そこのデカい兄ちゃん!」

 その和やかな空気を破ったのは背後からの声。しゃがれたそれは現地の言葉で、振り返ると人のいい顔をした店主がひとり。

「あんたら観光客かい?どうだいお粥!香港に来たら点心かお粥食べなくちゃ。ホットコーラもあるでよ」

 店主が差し出したのは湯気の立ち上るグラス。言葉通りならそれがホットコーラなるものだろうか。
 しかし名前にとってコーラとは冷蔵庫で保管されたもの。温かいコーラなんて考えただけでなんだか喉の通りが悪く感じられる。いや、特別コーラが好きというわけでもないのだが……既に固定化された印象を覆すのはなかなかに難しい。

「お粥か、悪くない」

 花京院もそう思っているのかはわからないが、彼が食いついたのはお粥の方だった。
 「もういい時間ですしね」ちらりと向けられた視線に名前はぱちりと瞬く。

 ……もしや腹の虫を聞かれたか。

 今度こそ本気で恥ずかしくなり、名前は頬を赤く染めた。これが承太郎だったら開き直れるところだが……花京院相手には羞恥の方が上回った。
 そんな名前を置いて、花京院の目は承太郎へと。「知っているかジョジョ、日本とは違って香港では主食としてお粥を食べることが多いんだ」そんな説明の後で、彼は店主に向き直る。

「じゃあポピュラーなピータンと豚肉のお粥をもらおうかな」

「まいど!」

「わっ、私も同じのをひとつ!」

 だが恥じらい以上に体が限界だった。空腹のあまりそろそろお腹が痛くなってくる頃合いだ。お粥というと風邪の時にでも食べるのが日本では一般的。腹一杯とまではいかないだろうが、それでも今は十分。
 勢いよく片手を挙げた名前の後ろ、アヴドゥルが「ではわたしは……」と思案する。

「オーイ!」

 しかし彼が決断する前にジョセフが大声を上げた。どうやら通話は終了したらしい。
 彼は大股で道路を横切りながら、

「お前ら何を食おうとしてるんじゃ。これからわしの馴染みの店に行こうというのに」

 と言った。
 ……初耳だ。しかしこのジョセフが贔屓にしているお店、ということはかなり期待できるのではないだろうか?

「おっ!そこのダンディーな旦那!香港名物ホットコーラはいかがですかな?」

「ホットォ〜?コーラは冷たいもんと相場が決まっているんじゃい!」

 店主に噛みつくジョセフの隣、名前は頷きながら内心胸を踊らせた。
 香港といえば食の街。世界中の料理が集まるこの地での初めての昼食。期待するなという方が難しい。名前は「楽しみだわ」と声を弾ませ、ジョセフの案内に従った。