『暗青の月』
遠ざかっていく海岸線。小さな影となる島々。香港島を出てシンガポールへと向かう船の上、甲板の柵に寄りかかりながら名前は溜め息を吐いた。
「あぁ、せっかくの香港料理が……」
ジョセフが連れていってくれたレストラン、翠園。それは旅行雑誌にも載るほど有名な店であった。あいにくジョセフが頼んだのは要望とは違うメニューであったが、それでも物は試しというもの。カエルのまる焼きなんかには尻込みしてしまったが、でも挑戦する意思はあったのだ。
だというのに、昼食の時間ですらDIOの追手は容赦しない。
「だぁから悪かったって!」
嘆く名前の肩を叩いたのは銀髪と大きな体躯が特徴の男。ジャン・ピエール・ポルナレフ。翠園にて戦いを仕掛けてきた張本人であり、肉の芽を抜かれた今は新しく一行に加わることとなったスタンド使い。
そんな彼の本質は親しみやすく、明るいもの。出会って間もないというのに距離が近い。妹がいるせいだろうか。
「機嫌直せよ」
そう言って名前を覗き込む。「なっ!」笑顔は眩しく、しかしだからこそ名前はプイと顔を背ける。
「許さないわ、楽しみにしてたんだもの!それを……もうっ!あなたを恨むわ!」
「いいだろ食いもんのひとつやふたつ……別に食いっぱぐれたわけでもねぇし……」
「食べ物の恨みは根深いのよ!」
そう言って名前は頬を膨らませる。が、何も本心から怒っているわけではない。ポルナレフが肉の芽によって操られていたことは承知している、DIOの命令は絶対であったことも。
だからこれはほんのじゃれ合いのようなものだ。名前がポルナレフに友情を感じ、甘えている証。それはポルナレフにも伝わっていて、「お詫びに何か奢ってやる」と名前の頭を撫でる。
「本当?約束だからね」
「おう、男に二言はねぇ」
胸を叩くポルナレフは頼もしさに溢れている。別にどうしても奢ってほしいとまでは思っていないが、未来の約束というものは日々に彩りを与えてくれる。楽しみなことがあるというのは幸福なことだ。
そう思い、名前は満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう!」
「楽しみにしてる」とポルナレフに抱き着く名前。そうしても受け止める彼が足元をふらつかせることはない。「しょうがねぇなぁ」と笑うポルナレフは危うげなく名前を抱き返してくれた。
「なんじゃ、ずいぶん仲良くなったのう」
「おじさま、」
船室から甲板に上がってきたのはジョセフだ。
横縞模様のシャツに着替えてきた彼はもうすっかり真夏の様相。確かにシンガポールといえば一年を通じて高温多湿の国。香港の時点で日本よりは暑かった。とはいえそれにしたって些か気が早いのではないだろうか。
「しかしおまえらな〜、その学生服はなんとかならんのか〜!そのカッコーで旅を続けるのか?クソあつくないの?」
そんなジョセフからすれば未だ冬服という方がおかしいようだ。目に余る、見ているこっちが暑い。そんな理由で抗議する。
対して長袖の制服を身に纏うのは学生組の三人。日本を発った時のままの格好で、承太郎と花京院はデッキの上のビーチチェアで寛いでいた。
「ぼくらは学生でして……ガクセーはガクセーらしく、ですよ。……という理由はこじつけか」
「フン」
そしてその二人の答えはといえば以上のふたつ。花京院は読んでいた本から顔を上げたが、承太郎なんかは寝そべったまま。返事だって鼻を鳴らしただけである。
「でもジョセフおじさま、制服って動きやすくていいのよ」
そう言った名前だが、実のところ制服しか手持ちがないというのも理由のひとつであった。
何しろ今回は旅の目的が目的である。遊びに行くわけじゃないのだ。それに本来なら飛行機でひとっ飛び、こんなに日数をかける予定でもなかった。お陰で殆ど着の身着のまま。今のところ不都合はないが、不安を感じているのも事実。
「そういうもんか」
だからジョセフが「ま、必要になったらいつでも言いなさい」幾らでも新しく用意してやる、と頼もしいことを言ってくれたのにはホッとした。本当に、ジョセフには頭が上がらない。
「それならよぉ、ジョースターさん、こいつにまた香港料理食わせてやってくれねぇか?食いしん坊があれっぽちじゃ足りねぇってヘソ曲げてんだ」
「ちょっとポルナレフ!あなたさっきと言ってること違うわよ!」
ジョセフの申し出に芽を輝かせ、早速約束を反故にしようとするポルナレフ。お礼を言ったのがバカみたいじゃないか!
眉を釣り上げて怒る名前に、ジョセフは声を上げて笑った。
「よいよい、わしがまた連れていってやろう。さ、こっちへおいで」
そう言って手を広げるジョセフの胸に飛び込む。「やっぱりおじさまが一番だわ!」当てつけのように言って、ポルナレフに一瞥くれる。
しかし彼からの返事は無言。肩を竦める仕草だけしてきた。まるで駄々をこねているのは名前の方だと言わんばかりに。
──しかし、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。
「結局こうなるのね……」
シンガポール行きの船。それはSPW財団によって手配されたものであった。がしかし、DIOの手は既にその船にまで及んでいた。船長自身が敵のスタンド使いであったのだ。本物のテニール船長は出発前に殺され、別人が成り代わっていた。お陰で船は爆破され、名前は再び海へと放り出された。
──こんな経験二度と御免である。もう懲り懲りだ。
そう思ったのはタワー・オブ・グレー戦のあと。つい昨日の話だ。なのにこんなにすぐ救命ボートに乗る羽目になった。またしても、である。
「なっちまったもんは仕方ねぇ」
諦めがいいのか肝が据わっているのか。いや、承太郎に限って言えば間違いなく後者だ。
ぼやく名前から治療を受けながら、承太郎は名前の鼻先を指先で弾いた。
「むぐっ……」
……地味に痛い。なんの嫌がらせだ。ダークブルームーン戦であちこちにできた傷を治してやっているというのに、……まったくもう!
「何するのよ、私の鼻が低くなったら責任取ってくれるの?」
名前は口を尖らせた。が、承太郎ときたらどこ吹く風。
「多少削れたところで大した変化はないだろ」
「私は違うの!」
それは承太郎の話であって、生憎と名前には適用されない。承太郎のそれはそれは見事に整った鼻筋であれば気にならないかもしれないが、名前にしてみれば一ミリのズレだって許しがたい。
そう主張する名前にとって、己の発言こそが正当。心底から信じていたが、しかし承太郎には鼻で笑われて終わり。
「毎晩ちょっとずつヤスリにかけてやろうかしら」
「やれるもんならな」
「…………」
強気の姿勢を崩さない承太郎に怯んだのは名前の方。幼馴染みはすっかり見抜いているのだと諒解し、名前は言葉を詰まらせた。
承太郎の受けた傷、掠り傷ひとつだって名前は見逃さない。すべてを執拗なまでに治す名前に、承太郎を傷つけることなんてできるはずもなかったのだ。そう、例え冗談だって。
「悔しいわ……」
歯噛みする名前の横で承太郎は帽子のツバを下ろす。でもその一瞬、口許が緩んでいたのを名前は見逃さなかった。だから余計に悔しくて、名前はちょうど治し終わったばかりの承太郎の頬を軽くつねった。
スタンドのウロコで切り裂かれたはずの箇所。でもそこは名前程度の力じゃ跡すらつかなかった。承太郎が痛みを感じることも、また。