霧の中


 ──懐かしい夢を見ていた、そんな気がする。

「みんなあれを!見て!」

 家出少女の叫び声。目を開けた名前の周りに漂うのは朝靄。それを掻き分けて進むひとつの影。なんとも立派な貨物船だった。見上げるのもやっと。名前では首が痛くなってしまうほどの大きさだ。

「承太郎……何を案じておる?」

「……タラップがおりているのになぜ誰も顔をのぞかせないのかと考えていたのさ」

 名前などは呆気に取られるばかりであったが、承太郎の方は違う。優秀な頭、そして動物的なまでの察しのよさ。用心深く船を見つめる眼差しは鋭く、不信感に溢れていた。

「誰も乗ってねえわけねえだろーがァッ!たとえ全員スタンド使いとしてもおれはこの船にのるぜッ」

 しかしポルナレフはそう言って先陣を切っていった。あれこれ悩むより行動してから考えればいい。そんな明快な考えの元、彼はタラップに足をかける。これはもうどうにも止められそうにない。

「うーむ……」

 残る一行は顔を見合わせた。ジョセフもアヴドゥルも花京院も、ポルナレフほどの思いきりのよさはない。

「どうしましょ、怪しいけどポルナレフひとり置き去りにはできないわ」

「……だな、」

 「仕方ない」と溜め息を吐いた承太郎に、みんなそれぞれ同意の意を示す。
 これ以上救命ボートで過ごすのは些か具合が悪い。そこで現れた貨物船。例え中にスタンド使いが潜んでいたとしてもこれだけの人数の仲間がいるのだ。返り討ちにして、この船はいただいてしまえばいい。
 そんなことを無言のうちに諒解し、アヴドゥル、花京院、ジョセフの順でタラップを上った。以前の船に乗っていた乗組員たちは既にポルナレフの後に続いている。名前もそちら側に飛び移ろうとして、そこで初めて家出少女が躊躇っているのに気づいた。

「どうしたの?」

「う、ううん、なんでも……」

 少女は偽テニール船長の船に潜り込んでいた密航者だ。ここまで戦いに巻き込んでしまったとはいえ、元々はただの一般人。突然の出来事、それも映画じみた展開の連続に怯えるのは当然だ。
 でも「怖がってるわけじゃねえからな!」と言われては名前も言葉に迷ってしまう。
 さて、どうすべきか。

「つかまりな、手を貸すぜ」

 そこでさらっとこういうことができるのがこの承太郎という男なのである。
 粗暴で無愛想、女の子には冷淡極まりない態度を取るくせに、根っこのところは育ちがいい。ホリィの血か教育のお陰か。ともかく見かけとは裏腹なのが名前の幼馴染みだ。
 名前が「まぁ!」と両頬を押さえたのもそういうわけである。

 ──まぁ、すてき!

 シチュエーションとしては文句なしだ。こんな風に女の子扱いされたら気分がいい。それが理想の人だったなら──優しく紳士的で愛情深い、そんな人だったら──当然一も二もなく受け入れていたろう。……そう、名前だったなら。

「やれやれ」

 しかし彼女が選んだのはジョセフだった。家出少女は軽やかな身のこなしでジョセフ飛び着くと、承太郎に「べー」と舌を出した。

「承太郎がフラれるなんてはじめて見た」

 しみじみと呟く名前の隣、承太郎の表情はといえば微妙なそれ。百戦錬磨の彼にしては予想外の展開だったのかもしれない。まぁこんなことで傷つく承太郎ではないだろうが。

「でもわかるわ、私だっておじさまに手を取られたら嬉しいもの」

「趣味悪いぜ」

「何言ってるの、あなたのおじいちゃんでしょ」

 名前はそう言って、こほんと咳払いをした。それから芝居がかった仕草でにっこり笑んで、手を差し伸べる。タラップに立ったままの承太郎、そして行き場を失った彼の手へと。

「私でよければその空いた手をお借りしたいところなのだけれど、」

 これは有効活用というものだ。なのに承太郎ときたら瞬きをひとつ。名前をまじまじと見て、何事か言いかけて──なのにいつもみたいに帽子に手をやった。名前の伸ばされたそれを無視して。

「……お前は自力で飛び移れるだろ」

「……そうだけどー…」

 ──まったくつれないこと!

 さっき見せた優しさの一片でも譲ってくれたらいいのに。
 けれど承太郎はそれっきり。身を翻してタラップを上っていく。前方にいたジョセフすら追い抜かして。

「お、おい、承太郎……」

 ジョセフが呼び止めても知らん顔。振り返ったジョセフは名前がまだボートにいるのを見て、訝しげに承太郎と名前を交互に見やった。名前としては肩を竦めるより他にない。でもまぁ彼の気が変わってしまったのなら仕様のないこと。
 諦めてひとりタラップに足を伸ばしかけ、

「名前さん、危ないですから掴まって」

「花京院くん」

 それは夢見たように。紳士的に名前の体を支えたのは承太郎やジョセフよりもずっと細身の彼だった。先へ行ったと思っていたが、わざわざ戻ってきてくれたのか。

 ──ボートから飛び移るくらいで海に落ちるほど鈍いつもりはないけれど。

「ありがとう、花京院くん」

 それでも親切にされるのは嬉しいことだ。ましてやそれが童話の王子様もかくやといった優雅な所作、指先まで品のある彼に手を取って導いてもらえるなんて……心が浮き立ってしまうのも無理ない。これは自然の摂理だ。

「いえ、気づくのが遅れてすみません」

「う、ううん……」

 タラップに降りると彼はさりげなく手を離した。距離を詰めすぎないところも名前には好意的に映る。伏せられた目、ほんの少し滲む羞じらいも。
 慎ましく奥ゆかしく──そんな彼を見ていると、素敵なシチュエーションとしか思っていなかった名前までどきりとしてしまう。羞じらいが伝播してしまったみたいだ。
 「えっと、」承太郎相手ならよく回る口もこういう時に限って役に立たない。思い出すことといえば先ほど触れた花京院の手の温かさだとか、首筋から香った石鹸の匂いとか、今は必要のない事柄ばかりである。急速に広がる霧と同じに、頭まで煙が回ってしまったらしい。

「……うれしかったの、ほんとうに」

 だから名前に言えたのはこんなことだけ。言うべき台詞の断片、切れ端だけを乾いた唇に乗せた。それは殆ど掠れ声で、まったくらしくない代物だった。

「そう、ですか。……よかった」

 でもそれに答えた花京院が心底ホッとしたように息を吐き、ぎこちない笑みを刷いたのを見て、名前も表情を緩めた。
 交わした言葉は少なかった。でも心で通じ合っている、そんな感覚があった。