ミスタの妹になるY


 作品がよりよく映るよう配置された照明。その光を吸い込む飾り気のない床と壁。物音といえば秘めやかな靴音や衣擦れ、交わす言葉ですら辺りを憚るもの。図書館と同じ心地のよい静寂がここにはあった。
 美術館。エッシャーの展覧会。飾られた絵画を眺める名前の目は熱心そのもの。誘ったのはぼくの方からであったから、その様子に内心ホッと胸を撫で下ろした。

「……よかった、」

「……?なにが?」

 ──つもりだったのだけど、声に出してしまっていたらしい。
 振り仰ぐ名前。その目は純粋さの象徴。透き通ったガラス玉は出会った当初から変わらない。
 ……変わったのはぼくの方だ。

「いえあの、……楽しんでもらえているようだったから」

「あぁ、うん。楽しいよ、すごく」

 些細なことで一喜一憂して、こんな台詞にすら満足感を覚える。

「ありがとう、誘ってくれて」

 それに控えめな微笑まで添えられてはこれ以上はない。
 「……こちらこそ」返す言葉は簡素であるけど、そこには有り余る感情が詰め込まれている。でもそのすべてを詳らかにするつもりはなかった。何よりぼく自身がまだよくわかっていないのだ。
 そこでぼくらは一度言葉を止め、目の前にかかる絵に視線を戻した。
 作品の名は『昼と夜』。鳥と風景による循環。エッシャーの描いたもの。逆説的な絵画。
 彼の作品は数学的に洗練され、一目置かれていた。が、当の本人はそんなつもりはなく、むしろ数学を不得手としていたというのだから面白い。彼は感覚的に多くのことを──宇宙や秩序、真実といったものを──捉えていたのだろう。
 名前は感嘆の息を洩らしてそれを見つめた。真昼に溶けゆく白い鳥、宵闇に溶けゆく黒い鳥。彼らは風景と化し、永遠を紡ぎ続ける。その様を名前は「きれい」と評した。

「確かに美しい対称です。そうそう、フランク・クローズ教授もこの絵については触れていて──」

 そこまで言って、ぼくははたと口を噤む。以前もこんなことがあった。あれははじめて出会った日のことだ。ぼくはひとり先走り、彼女を置き去りにしてしまった。
 その時の反省を思い出し、我に返ったのだけれど。

「……どうしたの?」

 「続けて、」と乞う唇。それはぼくへの気遣いのためだけではない。彼女の目に瞬く光、それは間違いなく好奇心に起因するものであった。彼女は今、自分の意思でぼくのつまらない解説を必要としてくれたのだ。

「……はい、」

 それがとても嬉しかった。嬉しかったのだ、本当に。ぼくと同じものを見ようとしてくれる、知ろうとしてくれる──必要としてくれる。
 そんな彼女のことが愛おしいと思った。不意に、ふと。愛おしい、その言葉が胸中に浮かんで、ぼくは納得した。胸に溢れる温かな熱。これが誰かを愛おしむということなのだと諒解した。
 ぼくはフランク・クローズ教授の発言を引用した。宇宙の起源について。粒子の衝突。物質と反物質。説明すると、名前は眉間に皺を寄せた。

「……難しい」

 喉の奥で小さく唸って、でも名前は投げ出そうとはしなかった。
 「帰ったら調べてみる」そう言って、手早くメモを纏める。それだけ熱心な彼女のためならぼくだっていくらでも時間を割けると思った。苛立ちはなかった。ぼくの心は穏やかに凪いでいた。

「エッシャー、お好きでした?」

 楽しいと言ってくれたのだ。こんなのは今さら、そして答えのわかりきった質問である。でも彼女からその言葉を引き出したくてぼくはわざわざそんなことを訊ねた。
 すると思いもがけず齎されたのは沈黙。名前はぼくを見上げ、目をぱちぱちと瞬かせた。
 「そう、だったのかな」返ってきたのは曖昧な語。答えに窮したみたいな、むしろ最初から答えなど用意されてなかったみたいな。
 虚を突かれた、そんな具合で名前は思案し、暫しの後に「うん」とひとり頷いた。

「そうだったのかも。わからない、あまり気にしたことはなかったから」

 「でも、」と一呼吸。置いて、名前は真っ直ぐにぼくを見つめた。

「たぶん好きなんだと思う。……ううん、もっと好きになった、かな」

「もっと?」

「うん、……あなたのおかげ」

 名前は目を細める。照明の白々とした光が眸の中で瞬く。
 それは宵闇に浮かぶ漁り火。或いは地平に滲む黎明。

「フーゴは色々なことを教えてくれる。だから──」

 そんなものを身に宿しながら、彼女の方こそが目映いものでも見るみたいな表情を浮かべた。遠く、空の彼方──何千年もの昔に潰えてしまった星々。そうしたものに想いを馳せているように見えた。

 ──それが果たして何であるのか。

 彼女が見ているもの、その表情が何に端を発しているのか。どうしてそんな目でぼくを見るのか。

「ううん、なんでもない」

 けれどそれを訊ねるより早く、名前は光を打ち消した。なんでもない、そう言って。緩く首を振る彼女はなんだかひどく小さく映った。とても頼りなく、あえかな花さながら。
 ともすると折れてしまうのではないかと思わせるほどにか細い首を振って、それから彼女は「あ、」と短い声を洩らす。

「私、これが一番好きかもしれない」

 彼女が目を止めたのは二つの塔とそれを繋ぐ水路、そして流れ落ちる滝の絵。滝から生まれた水は水路を流れ、やがて塔の天辺に達すると滝として階下へ落ち、また水路を形成する──それは遠近法を利用したことで生まれる錯覚だった。

「『滝』?どうして?」

 確かにこれは優れた絵画だ。学ぶべき点もある。でも他の何より心を惹かれる、その理由がわからなかった。
 首を傾げると、名前は「だってこれこそまさに永久機関でしょ」と言った。滝の絵から目を離すことなく、──ぼくを見ることなく。

「人類には成し得ぬ夢。だからかな、憧れるの。手が届かないからこそ、きっと、」

 でもその眼差しには覚えがあった。彼女はぼくを見つめたのと同じ色でエッシャーの絵を見つめた。叶わぬ夢。手の届かないもの。──届かないからこそ、焦がれるもの。
 そんなものを見る目で名前はぼくたちを見ていたのだ。ぼくと、それから永久機関を。そのことを今はじめて諒解した。彼女との間に深い隔たりがあることも、また同時に。