『力』


 船内にはひとつとして影が存在しなかった。乗組員のひとりもいないのだ。だというのに機械類は正常に作動し、貨物船は今も航海を続けている。なんとも不気味な話である。

「もしかしたら幽霊かも。クレーンが動いたのも呪いとか」

 そんな映画があったような気がする。この船でも過去に何か大きな事件があって、実は乗っていた人たちはみんな亡くなってしまっている、だとか。
 しかしそんな子供じみた妄想は承太郎によって一蹴。彼は鼻で笑い、「スタンドだろ」と言った。
 スタンドを悪霊だなんだと評していたのは彼の中ではもう過去のことらしい。世の中の不思議はだいたいスタンドで解決できると思っているのではなかろうか。
 尤も、名前だってまだ見たことのない幽霊よりかはスタンド使いの仕業の方が可能性はあると思ってはいるが。

「よし、二組に分かれて敵を見つけだすのだ。夜になる前までに…、暗くなったら圧倒的に不利になるぞ」

 そこで名前は家出少女に視線を移した。
 凄惨な現場を目撃したばかりの彼女。その顔はまだ強張りが解けきったとは言い難い。そんな彼女を打ち解けてもいない船員たちの中にひとり放り出すのは如何なものか。まして女の子だ。居心地が悪いだろう。

「……私、この子といるわ。ほら、私じゃ敵を探る方は役に立てそうもないし」

 少女を気にかける言葉は不要だ。何より彼女がそれを求めていない。言ったら最後、突っぱねられるだけだろう。
 だから名前はあえて冗談めかしてそう言った。すると承太郎は暫しの沈黙の後に「そうだな」と頷く。

「船員たちと一緒にいろ。無闇に出歩くなよ」

「わかってる、大丈夫よ」

 承太郎にぐしゃりと髪をかき混ぜられながら、名前は胸を叩いた。任せろ、と。戦闘能力は低いが、それでも名前だってスタンド使い。矜持にかけて少女を守ると誓おう。

「じゃあ行きましょうか。ええっと……」

 そういえば、名前は少女の名前さえ知らない。呼び掛けようとして躓く。と、「……アン」可愛らしい声がひとつ。

「アンだよ。よろしく、名前」

 握った手は柔らかく、小さい。船員に噛みついている時には気づかなかったが、こうして改めて見てみると彼女は間違いなく女の子である。なのに一人で密航までして旅に出ようとするなんて……

「うわっなんだよ急に抱き着いてきて……!」

「若い身空で苦労してきたのね……!すごいわ、素敵だわ!私のことは幾らでも頼ってくれていいんだからね!」

「はっ?はぁ〜?ナニ言ってんだよ……」

 呆れやら困惑やら。名前の腕の中で少女は暴れる。だがそれを押さえつける名前は典型的な直情型。抗議の声など耳に入らない。「お姉ちゃんに任せなさい!」と頬を擦り寄せる。

「私、妹か弟がほしかったのよ〜」

「いや、なる気はないからな!」

 アンは助けを求め、承太郎たちに目をやる。が、承太郎が返したのは肩を竦める仕草。
 「ま、諦めが肝心だ」承太郎には幼馴染みのことがよーくわかっていた。こうなった名前は放っておくしかない。解決法は熱が下がるのを待つことだけ。幼馴染みとして何度も巻き込まれてきた承太郎は早々に諦め、歩き始める。

「後で迎えに行く」

「はぁい」

 名前はアンを抱き締めたまま笑顔で答える。その腕の中で少女はぐったりと溜め息を吐いた。





 だが夕刻になっても事態は好転しなかった。

「だ、ダメだ……繋がらない」

「もう一度やってみろ!」

 機械類を前にして船員たちは溜め息を吐く。
 いったいどうなっているのか。会話から考えると無線の類いが動かないということだろうか。聞こうにもピリピリとした空気に気圧され、名前とアンにできるのは部屋の外から様子を窺うことだけ。
 そんなアンであったが、ふと鼻を蠢かせる。

「海水でベトベトする……」

 首回り、それから髪の匂いを嗅いで、それからアンは「うへぇ」と嘆息。そういえば彼女は海に飛び込んでいた。あれからだいぶ時間は経っている。最低でも丸一日はシャワーを浴びていないということだ。

「言われるとなんだか気になってくるわ……」

 名前も頬に落ちる髪を一房摘まみ上げる。
 日本にいた頃は一日たりとも欠かさず入浴していた。アンのように海に浸かってはいないが、それでも髪からはしょっぱい臭いがするように思えた。それに痛みも出ている気がする。指通りが悪く、こんな有り様で人前に出ていたのかと思うと恥ずかしくなるほどだ。

「ならさ!シャワー浴びようよ!ほら水が出るってさっき言ってたし……」

「うーん……」

 アンは「早く行こう」と袖を引く。だが名前の返事は煮えきらない。というのもさっきの自分の発言が尾を引いていた。亡霊、呪い。そうしたのもを心底から信じているというのではない。ただなんとなく気乗りしなかった。

「シャワー中に襲われたらと思うと、……ねぇ?」

 ホラー映画では鉄板だ。女がひとり浴室に向かったら最後、カーテンの向こうに影か現れ、振り返った女は悲鳴を上げる……なんてのはありふれた展開だ。映画でなら今さら驚きもしない。だが実際自分の身に起こったとしたら──平静を装える自信はなかった。
 けれどアンは「大丈夫だよ」と笑う。

「パッと浴びてパッと出よう。二人いるんだ、幽霊だってビビって逃げ出すって!」

「そうかしら……?でも、……うん、そうね」

 この漂流生活がいつまで続くのか。明日か明後日、それくらいには救助も来るだろう。スタンド使いが潜んでいるとしても、こちらには頼りになる仲間がいる。
 それにこの時間まで襲ってくる気配だってないのだから、シャワーを浴びるほんの数分くらいなら問題ないのではないだろうか。それに何より女の子をこんなままにはしておけない。身綺麗にしたいという願いくらいは叶えてあげたいと思い、最終的に名前は頷いた。

「じゃあ私は外で見張ってるから……」

「えっ!一緒に浴びればいいじゃん。二人同時ならすぐ済むでしょ」

 アンの手は存外力強い。シャワー室へと引っ張られ、「ほら、早く!」と制服のボタンを外された。その距離の近さに戸惑いながら、でも名前は抵抗しない。というよりできなかった。妹がいたらこんな感じかしら、なんてぼんやりと考えているうちに事は進んでいたのだ。

「わっ、」

「さっさと洗うよ〜!」

 お湯を頭から浴び、思わず声を上げる。それを笑ってから、アンは「あ〜、気持ちいい……」と息を吐く。

「汗もかいたからなぁ、体にしみるよ」

「なにそれ、……でも確かに。やっぱりシャワー浴びないなんて耐えられないわ」

 笑い声が狭いシャワー室に反響する。聞こえてくるのは水音ばかり。船員たちの声は紛れて届かない。だからカーテンの向こうで何が起きているかまるでわからなかった。

 ──けれど。

「……ッ!」

 不意に気配を感じた。振り返る、その瞬間。同時に開け放たれるカーテン。そしてその先にいたのは、この部屋に来る途中に出くわしたオランウータンだった。

「ひっ……!」

 アンの口から洩れるのはひきつった声。それでも目を離すことができない。オランウータン。いやに澄んだ瞳だ──視線を外したら途端に襲われる、そんな予感があった。

「アン……」

 名前は手探りでタオルを取ると一枚を少女の体に、もう一枚を自分に巻きつけた。無論その間も目を逸らすことはない。じっと、睨むような強さでオランウータンを見つめる。
 名前は正面を向いたまま、室内に置かれたものを観察した。石鹸、手すり。武器になりそうなものといえば剃刀くらい。でも小さな刃でこれほどの巨体に傷をつけられるだろうか?

 ──わからない。でも、やってみなくちゃ。

 無闇に敵意を見せるのは危険だ。逆上する恐れがある。そう考える名前の脳裏に思い出されるのはエドガー・アラン・ポオによる短編小説。
 脱走したオランウータン。惨殺された母娘。首も胴体も切り刻まれた無惨なる遺体。そんなものをこういう時に限って思い出してしまうのだ!あの事件では抵抗さえなければ殺されることもなかったかもしれない。
 
「……っ」

 でも今にも棍棒のような手がアンを捕らえそうだ。そんな様子を見て、名前は腹を括る。一か八かだ。女だって度胸が一番。オランウータンの荒い鼻息を感じながら、名前は密かに手にした剃刀を振りかぶった。

 ──その時。

「おい!」

 力強い声がした。そしてオランウータンは振り返る間もなく崩れ落ちる。

「ジョジョ!」

 オランウータンの額に傷をつけた人物。頑丈な錠前をオランウータンに投げ飛ばすのは名前の幼馴染み、承太郎である。

「このエテ公……、ただのエテ公じゃあねえ!ひょっとするとこいつが!」

 オランウータンの蹴り上げた足、それをスタープラチナで防御する。その脇から名前は剃刀を投げつける。少しでも注意を引かせようと。

「えっ!?」

 なのに刃はオランウータンまで届かなかった。まるで空中で目に見えない何かに軌道を変えられたように。ぐるりと回り、それは元来た道を引き返す。名前の顔面めがけて、飛んでくる。

「名前ッ!」

 アンの悲鳴に、名前は「大丈夫!」と答える。
 でも顔を庇った掌には深々と刃が食い込み、今もまだ貫かんとしていた。何故だか離れていかないのだ。普通なら重力に従って落ちるはずなのに、なのに意思を持ったかのように名前の手を切り裂こうとする。お陰で名前の顔は酷い顰めっ面だ。

「し…しまった!!」

 しかし承太郎の傷の方が深い。おまけに触手のように伸びた管が彼の体を壁へと縫い止めた。
 状況はあまりに劣勢。制服を身に纏い、壁の中から現れたオランウータンは得意気な顔で辞書の一ページを開いてみせる。

「ストレングス……」

 それはタロットで八番目のカード。やはりこの知性ある獣が敵スタンド使いなのだ。

「やれやれ」

 とはいえ獣は獣。誇りある人間には敵わない。そう、承太郎には。
 せっかく身動きが取れないようにしたのに。挑発に乗ったオランウータンはスタープラチナの指によって脳天に穴を開けられ、だめ押しのごとく殴られると地に沈んでいった。

「ありがとう、承太郎!もうダメかと思ったわ。私、絶対ポオのあの話みたいになるんだって……」

「おい、話は後にしろ。じゃねぇと素っ裸でボートに乗ることになるぜ」

 興奮冷めやらぬまま。承太郎に駆け寄ると、冷静な声を返される。
 そう、こんな時だって承太郎は落ち着き払ってる。名前やアンがタオル一枚であるというのに全く気にした風もない。いや、一応視線を逸らしてくれているから、気を遣ってはくれているのだろう。

「まっ、待って!すぐ着るから……!」

「こればっかりはどうしようもねぇな。能力が消えていくのは止められねぇ」

「なんとかしてよ、承太郎!」

「そいつは無理な相談だ」

 崩壊していく船の中、名前とアンは慌てて身支度を整えた。掌の治療も後回し。痛みよりも焦りの方が上回っていた。
 やっぱりホラー映画の鉄板は現実でも生きているのだ。こんなことならシャワーなんて浴びなければよかった。濡れたままの髪を手早く纏め、名前はアンと共にボートへ飛び乗った。