司書と朔太郎

 何がきっかけかは分からない。けれど名前の意識は水底から急速に浮上して、暗闇に放り出された。寒空の下を放浪するような孤独と寂寞。あるいは、廃墟に一人取り残されたような。そんな感覚に見舞われながら目を開ける。一面の幽暗。しかし幾度か瞬きをすれば、それは見慣れたものになる。アナクロな造りの室内。備え付けのテーブルとソファ。どれもこれも今の名前の所有物だ。それを理解する代わりに、名前はいくつかの記憶を失った。すなわち、夢の霧散だ。先ほどまで当たり前に存在していた世界がこの瞬間にはもうどこにもない。永遠に失われてしまった。それがひどくせつなく、さびしかった。
 目を擦りながら、もう片方の手で壁に嵌め込まれたタッチパネルを操作する。と、夜は払拭され、眩しいほどの光にとって代わる。名前は体を起こした。どうして不意の目覚めは容易いのに、毎朝の習慣の方は困難なのかしらと考えながら。改良を加えたばかりの時計を見れば、時刻は午前2時を少し過ぎたところ。まだ1時間も眠れていない。それなのにどうして目を覚ましてしまったのだろう。
 とはいえ過ぎたことをどうこう言っても仕方がない。名前は頭を振って、じっとりとしたベッドから抜け出した。揃えたばかりのスリッパをまた履いて、ウォーターサーバーから冷たい水を一口取り込んだ。ほうっと息をついて、そこでようやく雨音に気づいた。あまりに静かに降るものだから気づくのに遅れた。これが小糠雨というものだろうか。カーテンを少しだけ捲る。すっかり濡れそぼった窓ガラスとその先に広がる闇夜。それがなぜかいつもより暗く感じた。雨の日は頭痛も相まって憂鬱になるのが常だったが、今夜は特に気が塞ぐ。名前はカーテンを戻した。――まったく、嫌になる。
 こういう時は、とダイニングルームに足を向けた。オーク材のキャビネットに並ぶいくつものガラス瓶。中身とラベルを確認して、そのうちの一つを手に取る。
 そのとき、室内に旋律が流れた。アンスネスの月の光だ。ここでは来客を知らせる音楽でもある。――こんな時間に来る人物といったら?名前は、慌ててデバイスを操作した。
 モニタに映し出されたのは予想通り――泣きそうな顔をした萩原朔太郎だった。

「ごめん、起こしたよね……」

「いえ、わたくしもちょうど目が冴えてしまって困ってましたの」

 身を縮める朔太郎の前にティーカップを置く。「だからお茶にしようかしらと思って」蒸らしたカモミールティ―を注ぎ、はちみつとレモン果汁でたっぷり混ぜ込む。

「どうぞ。きっとあったまりますわ」

「うん、ありがとう」

 朔太郎は不必要なほど慎重にカップをとる。両手で持ち上げ、そうっと傾ける。こくり。「おいしい……」そしてまたひとくち、ふたくち。強張っていた肩から力が抜けていくのが名前からもわかった。それでも顔に浮かぶ陰鬱は消えない。とはいえ彼の憂鬱は大概ひとつの事柄に集約されるので、無理に聞き出そうとは思わなかった。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいい。
 名前もカップに口をつけた。温かいものが喉を通り管に沿って流れ、胸のあたりでぶわりと広がる。河川が決壊したような感覚だと名前はいつも思った。ちがうのは、そこに落ち着きが見い出されるというところ。お茶の温かさとほのかな甘みは寂莫とした雰囲気に光を与えた。太陽の下を歩いているようだった。
 朔太郎はティーカップをじっと見つめていた。中身はまだ半分ほど残っている。なのに彼は表情の読めぬ顔で水面をじいっと見ていた。名前は窓の方に視線をやった。
 外では依然として雨が降っていた。雨脚は先ほどよりも激しくなっているようで、窓ガラスを叩く音がしている。予報通りなら夜が明けたらもっとひどいことになっているだろう。それを裏付けるように、風が唸りを上げている。
 ふと、あるうたが耳元で蘇った――雨が降ります雨がふる 遊びにゆきたし傘はなし 紅緒の木履も緒が切れた――子どもの声だった。それも、変声期を迎えていない、幼気な少年の。はて、誰だったかしら――思い出すのに、そう時間は必要なかった。名前の記憶は簡単に浮かび上がった。本を開いた少年――生真面目に伸びた眉と真っ黒の瞳……珍しく赤みが差した白い頬……いつもは気難し気に結ばれた唇が本を読みあげている――雨が降ります雨がふる――……

「名前にはお兄さんがいるんだね」

 だしぬけに言ったのは朔太郎だった。名前はびくりとして――胸中を見透かされたのかと思ったのだ――肩を揺らした。
 朔太郎の目はある一点に集中していた。「……あぁ、」得心がいく。視線の先。テーブルの上に、その封筒は置き去りにされていた。親愛なる妹へ。その下には名前と血を分けた兄の名前が記されている。親愛なる妹へ。親愛なる……この文言を見るたび不思議な気持ちにさせられる。親愛なる……兄は、何を考えながら綴ったのだろう。定規でもあてがったみたいに角ばった文字を名前はなぞった。

「気づかなかった。何度もこの部屋には来てるのに」

「お話したことありませんでした?」

 朔太郎は首を振った。「全然」家族の話は聞いたことなかったな。そう言われるとそうだったかもしれない。秋声はともかくとして、独歩や藤村にはすっかり聞き出されているものだから、名前は何もかも詳らかにしている気分になっていた。

「ええ、わたくしには兄がおります。あとは父と母、それから祖父と共に過ごしておりました」

 それから、半年間だけは秋声も。
 ――恵まれた家庭環境だった。錬金術師としても経営者としても高い名声を誇る祖父。医学の道に進んだ父と兄。家庭的で優しい母。互いが互いを愛する幸福な家庭――そう、彼らは名前をも愛してくれた……(あぁでも、それだけではダメだったのだ)。

「名前はお兄さんのことが好きなんだね」

 朔太郎の大きな目が名前をみる。深い、深いあお……水底を覗いているようだと名前は思った。とおい、とおい、深淵。誰かが、名前をみている。――あぁ、その目は、

「そう、そうです……わたくしはお兄様を敬愛しております」

 名前は喘ぐように言った。「夢遊病者みたいだわ」片隅にいる名前がせせら笑う。でも海にのまれた名前は全然違うことを口走る。「けれどお兄様は、お兄様はわたくしを、」耳元で詩が聴こえるのだ――雨が降ります雨がふる――とおい日の記憶が名前を見つめている。
 ……いいや。見ているのは兄だ。幼い兄が名前を見ている。兄が名前に笑いかける。それだけで名前は嬉しかった。だから名前も笑った。なのに瞬きのうちに長じた兄は……兄の名前を見る目は……

「恐れて、いるのだわ……」

 ――理解の及ばぬものを見る目をしていた。

「名前……」

 君も孤独なんだね、と朔太郎は目を伏せた。孤独。それはいつかの藤村が言った憂鬱に通じていた。憂鬱。孤独。そう、きっとこれは性なのだろう。藤村を思い、朔太郎を見て、名前はようやく諦めがついた。そういうものなのだと自認した。そうすると不思議と心は凪いだ。父は祖父を理解できない。錬金術を認められない。その子どもである兄もまた。祖父を、名前を認められない。命を尊ぶ彼らは名前たちの研究を許せない。きっと、永遠に。

「でも朔太郎さんには詩があるでしょう?」

 孤独を意味あるものに昇華できる――そこが彼と名前のちがい。彼は孤独をも愛している。名前にはまだできないことだ。
 純粋に、そう思ったのだけれど。
 朔太郎の目が大きく見開かれた。と思った次の瞬間、彼は大粒の涙を目尻に浮かべていた。「僕には、なんにもないよ……」なんにもないんだ――そう言って、しゃくりあげる。
 名前はびっくりした。「なにがありましたの」そうだ、そもそもここに朔太郎が来たのは何も名前の身の上話をするためなんかじゃない。最初から彼は泣きそうな顔をしていた。そんな彼の悩みといったら――

「詩が、詩が書けないんだ……」

 やっぱり、と思った。そして同時に自分の配慮のなさに情けなくなった。
 名前はハンカチを手に取った。そしてそれをそっと朔太郎の目元にあてがう。けれど涙はとめどなく溢れてくる。「……、」口を開きかけ、やめた。どうか泣かないで。そんな安っぽい科白になんの価値があろうか!

「こんなに孤独なのに、孤独でさみしくて、どうしようもなく死んでしまいたくなるのに、なんにも浮かばないんだ」

 はらはらと流れる涙。縫い止められるほどのうつくしさ。それを見ているとなんだか名前まで泣きたくなってきた。なのにかける言葉はいつも見つからない。名前にはその涙を拭うことしかできない。いつもそうだ。だって名前は詩人じゃない。孤独を感じても、その先の苦しみを名前がしることは一生ない。
 さあさあと雨が降る。その中で名前と朔太郎は互いに身を寄せ合っていた。雨は絶えず降り続ける。雨が2人から世界を切り離す。カーテンのように2人を取り囲む。取り囲んで、包み込む。
 寒い、と名前は思った。たぶん朔太郎も。「手を握ってもいい?」囁きが空気に溶ける。名前は彼の手をとった。指先は濡れたようにつめたかった。彼は名前の肩に頭を預けた。ふわりと香ったのは墨の匂いだろうか。「名前は石鹸のにおいがするね」あたたかい、と朔太郎は言った。

「君は酷い人だ。破れたロマンチストに夢を見させようとする」

 そう言った彼の顔はやっぱり泣き出してしまいそうだった。