アバッキオの妹になるW


 ブチャラティの紹介でポルポの試験に受かったのだから当然ブチャラティのチームに所属するものだと思っていた。名前もオレも、ブチャラティも。
 しかしその当たり前は簡単に覆された。名前は別のチームに配属されたのだ。その時の我が妹の嘆きようといったらあまりに大袈裟、舞台女優もかくやとたいった有り様。オペラの主演になりきった風で悲しみを表現してくれた。
 でも翌日にはすんなりと家を出ていくのだから肩透かしを食うやら、毒気を抜かれるやらである。いや、癇癪を起こされても困るのだが、なんというか……拍子抜けしたのだ。
 そう、名前はオレの家を出ていった。行く宛は知らない。でもそうしなくちゃならないのだと嘆息した。どうもチームの決まりなんだとか。
 怪しさしか感じられないが、しかしオレの心配をよそに名前が気にすることといったらオレに関することばかり。やれ『掃除は汚れる前に』だとか『パンツにもアイロンがけを』だとか……、記憶にある限り母親よりも口喧しい。実家にいた頃はそうでもなかったのだが──尤も、当時とは状況が違う。あの頃は空き瓶をためることだってなかったし、アイロンがけは母親の仕事だった。
 そうしたことに思い至り、オレは反論の語を飲み込んだ。名前の小言には素直に頷くだけにとどめ、その日は朝靄の中小さくなる妹の影を見送った。

 ──それがほんの一週間前のことである。

「あぁ!こんなところに埃がッ!」

 だというのに今、我が妹はオレの家にいた。正真正銘オレの家だ。名前の私物は確かに残っているが、そろそろ物置にでも仕舞うかと考え始めた頃合いであった。
 妹は我が家の鍵すら持ち逃げしていたらしい。一応の呼び鈴のあと、一切の躊躇なく部屋に上がり込んだ。少しは遠慮してみせたらどうだ。しおらしかったのは最初だけ。初めてうちを訊ねてきたあの雨の夜だけだった。
 名前は我が物顔で室内を見回すと、悲鳴じみた声を上げた。

「プリート、そしてオルディナート!掃除は汚れる前にと言ったじゃあないですか!」

 確かにこの国じゃ部屋が汚い方が珍しい。塵ひとつの汚れすら見過ごせない、それが本能にでも刻まれているんじゃなかろうか。それほどに掃除に精を出す人間が多い。
 が、塵ひとつ残さないなんて土台無理な話だというのがオレの持論。汚れる前に掃除?そんな暇があったら酷評されている映画の一本でも観た方がよほど有意義だ。
 しかし名前ときたらオレとはまるで逆。寝室にまで乗り込んでは「シーツに皺が!」などと叫ぶ始末。部屋の主を置き去りにして名前は青い顔で右往左往。アイロン台の前に陣取ると、畳んであった洗濯物をまた広げ始めた。

「おい、何しに来たんだよ」

 だが妹のすることである。呆気に取られていたのも途中まで。そう訊ねる頃には呆れの方が色濃く、最早傍観の姿勢。止めても聞かないのは目に見えていたし、オレに害があるわけでもない。
 だからオレはソファに腰を落ち着け、テレビの電源を入れた。目当てはもちろんサッカーだ。日曜の夜なら当然である。
 対して名前はといえばどうも関心が薄い様子。『兄さんがサッカー選手だったならまた別ですが』とは彼女の弁だ。そんな妹はアイロンがけにすっかり夢中。目を上げることなく、

「兄さんに会う、それ以外に目的なんてないですよ」

 と宣った。
 二の句に迷ったのはオレの方。「そうかよ、」……それで?ここでありがとうと言うのは違うし、迷惑だと言うのもあり得ない。オレが思うのは相変わらずの妹にホッとした、そんなどうしようもない事実である。

「物好きだな、ちっとは兄離れしろよ」

「それは無理な相談です」

 名前は袖の部分をプレスしながら笑った。それはおよそ一週間ぶりに聞く妹の笑い声だった。なのにひどく懐かしく思えて、そんな自分がおかしかった。
 「やっぱり私がついてなきゃダメですね」そう言う名前の表情はいたく満足げ。得意顔で鼻歌まで歌い出す。「そりゃこっちの台詞だ」と言ったオレの声など届いちゃいない。
 ……まったく。

「お前こそどうなんだよ」

「どう、とは?」

「クビになるのは時間の問題だと思うんだがな」

「なりませんよ、クビになんて!!」

 名前は憤慨したとばかりの勢いで噛みついてくる。

「なんたって兄さんの妹ですからね!」

 その根拠がまずおかしいのだと少しでも疑ったりしないのだろうか。
 ……思わないのだろう、我が妹は。
 拳を握り締める名前の目。それは組織に入団した今も変わりない。汚れなどとはおよそ縁遠く、澄みきっていた。例えるなら刷り込みを受けた雛鳥のそれだ。
 つまりはちょっとやそっとのことじゃあ否定は受け入れられないということ。諦め、オレは「はいはい」と聞き流す形をとった。
 けれど内心では安堵と落胆があった。それはちょうど五分五分といったところか。組織に認められたこと、新しい環境でも無事やっていけそうだということ。それらに対し『よかった』と安堵しているのは事実だが、同時に苦々しいものが込み上げるのもまた同じである。早々に根を上げてくれればまだ引き返せたものを、と。
 名前にはもっと別の明るい未来があったんじゃないか。未だにそれを考えてしまう兄の気持ちなんて、妹はちっともわかっちゃいないだろう。
 兄の心、妹知らず。名前は「私のことなんかより!」と語気を強め、手を叩いた。ちなみにアイロンならば既に脇へとどけられている。あれほど熱心だったのに、恐ろしいまでの変わり身の早さである。

「兄さんこそどうなんです?変わりないですか?」

「あー……」

「なんですか、その微妙な間は」

 言葉を濁したのは無意識のうち。そして目がテーブルに置かれた新聞紙へ、意識がその下に埋もれさせられた一通の書簡へと向かうのも、また。

「いや、大したことじゃあないんだが」

 だがこういう時に限って名前は目敏い。そして勘がいい。「大したことないって顔じゃないでしょう!」と声を上げ、オレの隣に素早く移ってきた。

「さあさあ!遠慮なく吐いちゃってください!」

 その上手まで握ってくる。絶対に逃さないし誤魔化すことも許さない。そんな姿勢であった。完全に名前のペースだ。体勢だって身を乗り出す名前のお陰で、オレの方が組み敷かれそうなくらいだ。
 ……いや、本当にそんな勢い込むほどのことじゃないんだが。

「……お前を訪ねて来たやつがいる」

 『それだけ?』と思われるのを覚悟して不承不承。長い溜め息の後に「大したことないってオレは言ったからな」と前置いてから、オレはそう打ち明けた。
 しかし名前が『それだけ?』と呆気に取られることはなかったし、『心配性ですね』と笑うこともなかった。ただ驚いた様子でぱちぱちと目を瞬かせ、

「え、私まだ悪いことしてないんですけど」

「なんだそりゃ」

 『まだ』とはなんだ、『まだ』とは。そんな予定でもあるのか。
 とはいえ追及はせず、オレは詳細を話すことにした。元よりそうするつもりではあったのだ。何故だか引っ掛かりを覚え、踏ん切りがつかなかっただけで。

「警官じゃねぇよ、学生だ」

「あら。じゃあかつての学友ですかね。うーん、でもここのこと教えた記憶はないんですが」

 そりゃ当たり前だ。妹の友人などという他人にオレの個人情報が漏れてる方がおかしい。それに名前がこの家を頼ったのは学校を辞めてからのことである。それ以後の名前がかつての友人たちと連絡を取っている様子もなかった。

 ──じゃあどうして『あいつ』はうちを訪ねて来たんだ?

「それで?どんな子でした?」

 続く名前の問いに、オレは自然と記憶を辿った。まだ真新しい、しかしどこか掴み所のない影を。
 我が家の呼び鈴を鳴らしたのは名前と同じ年頃の少年だった。黒髪に緑の目。少し着崩した制服と、対照的に冷静な眼差し。初対面のオレにも物怖じせず、彼はオレをじっと見つめ、名前の所在を訊ねた。無論、答えをくれてやったりなどはしなかったが。

「どんなっつーか……、手紙を預かってる」

「手紙?」

 だが男の容姿など説明したくもなかった。明確な理由などない。ただ苛立ちがあった。苛立ち、或いは歯痒さ。
 しかしそうしたものは名前の預かり知らぬところにあって、

「それを早く言ってくださいよ〜!」

 と胸を叩いてくる名前をひっぺがし、オレは積まれた新聞紙の底から件の書簡を取り出した。

「それにしても古風な方もいたものですね、いったいどなたが……」

 受け取った名前は最初、封筒をためつすがめつ眺め回した。だがそうしたところでわかることなど何もない。その程度のことならオレだって訪問を受けたその日のうちに飽きるほど試してみた。
 でも無駄だった。封筒はなんの変哲もない白色で、宛名どころか差出人さえ書かれていないのだ。ただ名前に、とだけ言い残していった少年。それだけで名前には伝わるという自信。そうしたところにオレは傲慢さを感じ取っていた。
 怪訝そうにしていた名前だが、やがてなんの躊躇いもなく封を切った。

 ──そして。

「…………」

 中に入っていたのは一枚の便箋。名前は折り畳まれたそれを広げ、視線を落とし、それから──ひゅうっと息を呑んだ。
 眸に表れるのは純粋な驚き。そればかりだった。内容は見えない。透かし見ることも叶わない。
 思わず、と身を乗り出しかけるのを堪え、オレは名前に問う。「おい、どうした?」しかし顔を上げた名前が浮かべるのは曖昧な笑み。

「あぁ、いえ、驚いてしまったもので」

 気にしないで、と振られる両手。だがその間も文を手放すことはない。それをちらりとでもオレに見せることだって。

「大丈夫、正真正銘私の友人からです。ちゃんと覚えのある筆跡ですし、……」

「……名前?」

 へらりと笑い、また手紙に目を落とし。不意に言葉を止めた名前はどこか遠くに目を馳せた。手紙に綴られた文字を追っているようで、でもただそれだけではない。昔を懐かしむような、愛おしむような──老成した眼差しだった。

「……別に、恩を売りたかったわけではないんですが。それでも嬉しいものですね」

 呟きに心当たりはない。その横顔だってオレの知るものではない。名前はオレの知らない顔で、知らない誰かのことを思って、柔らかく目を細めた。
 だがそれも一瞬のこと。名前は我に返った様子で顔を上げると、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべた。

「これ、いただいてきますね!」

「あ、あぁ……」

 その後の名前といったらいたって普通。手紙を懐に仕舞うと忙しなく立ち上がり、またアイロンがけの作業に戻る。まるで何事もなかったかのように。追及してくれるなと言わんばかりに。それ以後手紙のことは一切持ち出さなかった。
 そんな妹の様子に疑念を抱かなかったわけではない。しかし問い質せる空気ではなかった。それに些細なことだ。かつての友人が訊ねてきた、言ってしまえばただそれだけのこと。何に引っ掛かっているのかなどオレ自身にもわからない。わからないが、もやもやとしたものが胸中には残っていた。訝しく思いながら、オレは沈黙を守る名前の横顔を盗み見た。そんなだったからテレビの向こうで地元チームが点を入れたのにすら気づかなかった。