シンガポール


 轟音と共に沈んでいく船。その姿に先刻までの立派な様相は欠片も残っていない。スタンドの偽装が解けた今、ただのちっぽけな船に過ぎなかった。

「主よ──……」

 名前は祈りの文句を唱えた。
 犠牲になった船員たち。そのすべてを運び出すことは叶わなかった。彼らは沈みゆく船と共に海へと還っていった。名前には見ていることしかできなかった。彼らには何の罪もなかったのに。帰りを待つ人だっているだろうに。なのに弔うことも満足にできなかった。無力感が名前の胸を苛んだ。

「──……」

 顔を上げると同じように沈痛な表情のアヴドゥルが見えた。彼もまた犠牲となった無辜の民を悼んでいた。祈りの文句は違えど、感じる痛みは名前と同じだった。

「…………」

 それはほんの少し名前の心を救った。
 同時に強く思うのはこんな事態を引き起こした者への静かな怒りだった。ジョースター家の宿敵。人を人とも思わぬ非道。このようなことを繰り返してはならないと思った。それは神の教え故ではなく、名前自身の願いであった。
 波に揺られながら名前は目を閉じた。鼻がツンと痛むのはたぶん潮風のためだけじゃないだろう。





 翌朝、救助された一行はやっとのことでシンガポールに入国することができた。日本を出て五日、なんとも先の長い旅である。

「それにしても煙草の一本でも課税対象になるなんてねぇ……」

 シンガポール。小さな島々に複数の民族が暮らす国。だからこそだろうか、規則も厳しく、入国審査にも手間取ってしまった。というのもタバコを持ち込むのに申告が必要だからである。申告しなかったが最後、多額の罰金が科されるというのだ。知らなかったがために緑の通関路へ進み、罰金を払う羽目になる観光客が日に何人もいるらしい。
 お陰で承太郎ひとりがレッド・チャンネルに進むことになった。それを気の毒がると、合流した承太郎は「やれやれ」と溜め息を吐いた。漂流している時よりも疲れたって風だ。

「シケたタバコの一本で何ができるっていうんだ、なぁ?」

「ま、でも郷に入っては郷に従えと言いますからね」

 イライラと腕組みをする承太郎に揶揄うような言葉をかけたのは幼馴染みの名前ではない。意外にも花京院の方で、彼は親しげに承太郎の肩を叩いた。
 名前は目を瞬かせ、それから「言うわね」と笑った。強面の承太郎にそんなこと言う同級生は滅多にいなかった。少なくとも名前は知らなかったから物珍しくておかしくて、花京院のことがもっと好きになった。
 花京院は「まあね」と答えた。その時浮かべた笑顔もまた年相応に気安いもので、なんだか胸が温かくなった。
 流れる穏やかな空気。当てられたのか、承太郎もそれ以上の不満は口にしなかった。ただ『何が楽しいんだか』といった顔をしてはいたが。

「それで?ジョースターさん……泊まる宛はあんのかい?」

 シティ・ホールを抜け、オーチャード・ロード周辺へ。「着いてこい」と言うジョセフに従って進みながら、皆を代表してポルナレフが疑問を口にした。
 まさか闇雲に歩いているというわけではあるまいが、しかしジョセフには前科がある。皆が思い出すのは香港での一幕。自信たっぷりのジョセフが頼んだのが想像とはまるで違う料理であった過去である。
 しかしジョセフは「うむ」と力強く頷くと、にぃっと笑って親指を立てた。

「以前にも世話になったホテルだ。ま、期待しておれ」

 各国のVIPも泊まる名ホテルだ、とはジョセフの弁。

「とか言ってよォ〜…、ホントに大丈夫かね」

「実は曰く付きだったりとかしてね」

「そう、それそれ」

 それに対して懸念を露に。そして指を向け合う仕草をするのはポルナレフと名前である。
 飛行機の墜落に船の沈没。すべてジョセフの手配によるもので、狙われているからとはいえいくらなんでも確率が高過ぎやしないか。……なんてのは勿論冗談である。ポルナレフも名前も呪いなんかを深刻に考える質ではない。こんなのはただのジョークである。
 「お前らなぁ〜」拗ねた様子でぼやくジョセフの後ろ、観光案内を熟読していた花京院がふと呟く。

「へぇ、他にも色々決まりごとがあるんですね」

「例えばどんな?」

「そうですね、喫煙なんかは結構厳しく取り締まってるみたいです」

 花京院が答えるのは、興味深げに訊ねたアヴドゥルへである。

「屋外であっても喫煙可の看板のあるところでしか吸えないようです。飲食店なんかはほとんど禁煙ですね」

 けれど洩れ聞こえた声に、名前は思わず承太郎を見た。

「なんだよ」

「タバコ、気軽に吸えないみたいね」

 趣味というか習慣というか。或いは呼吸とでもいうのだろうか。喫煙者ではない名前にはわからないが、自由に喫煙できないというのはなかなかに窮屈なものだろう。承太郎のような愛煙家なら尚更である。
 ……まぁ名前としてはこれを機に禁煙してくれた方が健康への憂いもなくなって安心なのだが。それが難しいというのも十分承知していた。
 だからこその「かわいそうに」という台詞であるが、心底からの哀れみは承太郎にとって鬱陶しいだけ。

「関係ないね」

 そして不良にとっては規則なんてものは破るためにあるのだ。さすがは船上でもタバコを吹かしていた男である。あっさりと言い放ち、その上で承太郎は名前の頭をぐしゃりとかき混ぜた。名前の文句などはすっかり聞き流して。

「花京院くん、他にはどんなのがあるの?」

 髪を整えながら今度は名前が問うと、花京院は「そうですね」と観光案内を捲った。

「他にはゴミのポイ捨てなんかが……」

 そこで高らかに鳴り響いたのは笛の音。そして警官による「こらッ!きさまッ!」という怒声である。

「きさま!ゴミを捨てたな!我がシンガポールではゴミを捨てると罰金を課す法律があるのだッ!」

「……?ゴミ……なんのことだ?」

 呼び止めた警官の後ろにはポイ捨てを禁じる標識がひとつ。そして警官の指差す先にはポルナレフの旅行鞄が置かれていた。

「プッ」

 最初に吹き出したのはアヴドゥルだった。真面目な彼でもさすがに耐えきれなかったと見える。名前は花京院と顔を見合わせ、ともすると緩みそうになる口許を押さえた。

「おれには!自分の荷物の他には!なぁーんにも見えねーけど──っ、ゴミってどれか…教えてもらえませんかね!」

「え!?」

「どこにゴミが落ちてんのよォ!あんた!」

「ええっ!!これはあんたの荷物!?し、失礼した…」

 しかしその後のやり取りで努力は一切の無に帰した。この愉快な会話に笑わずにいれる者がどこにいよう?少なくとも名前には我慢できなかった。ポルナレフ以外の皆も声を上げて笑った。可哀想なのは濡れ衣を着せられたポルナレフと、そんな彼に怒鳴られる警官だけである。