リゾットの帰りを待つ


 恋人同士、原作前の設定。





 前菜には魚介類を。イカやタコ、そして薫製のカジキマグロ。それらをオリーブ油で調理したアンティパスト・ディ・マーレ。その隣に置かれたのはインヴォルティーニ・ディ・ペーシェ・スパーダ。パン粉や松の実に包まれ、串に刺されたカジキマグロを月桂樹の葉と一緒に焼いたものである。
 出来立てのそれは芳しい匂いを放ち、名前の鼻孔を擽った。空腹感を煽る香り。本能に逆らうことはせず、名前はナイフを入れた。

「うん、美味しい!」

 頬を押さえたのは無意識のうち。だってそうでもしなくちゃ蕩け落ちてしまいそうだった。それくらいにリゾットの作る料理は名前にとって格別。幸福の味であり、頬が緩むのまでは止められなかった。
 名前の前に座るリゾットは「そうか、」と滲むような微笑を浮かべた。そうか、それなら「よかった」彼は言葉少なであったけれど、眼差しの柔らかさだけは隠しおおせない。そしてそんな彼が名前は好きだった。

「どうしてこんなに違うのかしら。私だってあなたに教わった通りに作ってるはずなんだけど……」

 リゾットから教授を受けたのはシチリアの伝統的な料理。例えばナポリのそれであるなら名前にもおおよその再現は可能だ。でもシチリアのものとなると別。リゾットの作るものこそが至上であり、自身のそれは猿真似に過ぎない。ボタンをかけ違えたような、そんな些細な、けれど確かな違和感。お陰でシチリア料理だけはどうしてもリゾットにねだってしまう。
 そう嘆くも、当の本人、リゾットはいまいちピンときていない様子。「そんなことはない」否定の語は慰めの色を持たない。瞳は真剣そのもので、心底からそう思っているのだとリゾットは言う。
 ──まさか!
 鈍感にもほどがあるのではなかろうか。

「そうだったらいいんだけどね、……うん、やっぱり違う」

 一口、焼けたカジキマグロを咀嚼し、名前は溜め息を吐く。
 何が、と聞かれると困る。が、しかし、何かが違うのだ。それだけは確信を持って言える。

「うーん……どうしてかしら?」

 テーブルの前、難しい顔のまま。けれどフォークを動かす手は止まらない。止めることなく頭だけを回転させる。焼き具合だろうか、……それとも?

「……香辛料じゃないか?」

 助言は不意に。リゾットは独り言と同じ調子でぽつりと呟くが、それを聞き逃す名前ではない。

「そうかしら?……あぁ、でも、それなら納得。もう少し利かせた方がいいかも」

 助言を脳内に書き記し、名前は頷く。リゾットが言ったのはぼんやりとした指摘だが、重要なのは彼がそう言ったという点だ。彼が言うならきっとそれが真実。全幅の信頼を置く彼に、名前はすっきりとした笑顔を向ける。

「また挑戦してみる。懲りずに付き合ってね」

「それは構わないが、」

 寂れたアパートメントの一室、小さな窓は閉め切ってある。鎧戸も同様だ。外では雨が降っていた。真昼の光は重たい雲に隠されていた。
 それでもこの季節特有の侘しい冷たさが体にまとわりつくことはなかった。室内には穏やかな空気が流れていた。温かな静寂がそこにはあった。

「急いで練習しなくともいいだろう。食べたければオレが作る。お前が望む時、いつでも」

 そしてそれは彼がいるからだ。名前は知っている。晩秋もこの先に待ち受ける冬も、彼といるなら寒々しさを覚えることはない。リゾット、彼の愛情深い眼差しや柔らかでありながら熱を帯びた声、澄み渡るほどに真っ直ぐな言の葉。そうしたものに途方もない安堵を抱く。詩的な、そして感傷的なこの季節にも。

「……あなたって、時々すごい殺し文句を吐くわよね」

「そんなことはない」

「いいえ、あるわ」

 唇を尖らすのは少女めいた羞じらいのため。でもすぐに相好を崩してしまう。ほんの数秒ですら取り繕うことができない。名前は知ってしまった。多大なる幸福の前で人は無力だ。
 雨音の中で名前はさざめき笑う。幸せだった。幸せだと思った。十一月、死の季節のただ中であっても。憂い纏う雨。啜り泣きの風。冷たく稀薄な空気。すべてが幸福の前では無力だった。そう、名前は目を細める。

「嬉しいわ、そう言ってくれて。でもね、私にだって矜持があるの。恋人の──あなたの思い出の料理だというなら、私だって作れるようになりたいわ」

「……さっきの言葉、そのままお返しするぞ」

 リゾットは少し呆れた風に言った。ささやかな微笑が口許には宿っていた。

「待っている、いつまでも。お前の隣で」

 彼の言葉に飾り気はなかった。でもそれ故に生気に満ち満ちていた。彼は何もかもを隠そうとしなかった。誓いを立てる厳かささえあった。彼の目は敬虔な教徒のそれだった。
 だから名前はなんの疑いもなくその言葉を受け入れた。彼と彼の言葉を信じた。見つめ合い、微笑みを交わした。穏やかな昼下がり、十一月のある日の何気ないひと時であった。





 その日と同じものを名前はテーブルに並べる。アンティパスト・ディ・マーレ、インヴォルティーニ・ディ・ペーシェ・スパーダ。寂れたアパートメントの一室、二つで一揃いの食器を置いて名前は席に着いた。小さな窓は相変わらず閉め切ってある。鎧戸も同様だ。昼も夜も関係なかった。晴天も曇天も変わりなかった。侘しいばかりの晩秋。あれから幾つかの季節が名前の上を通り過ぎた。そしてまた、あの日と同じ死の季節がやって来た。

「…………」

 体は習慣を覚えている。食前の祈りを行い、名前はフォークを動かした。正面の席には空白だけが横たわっていた。一人分の物音だけが室内に響いた。静寂が今は息苦しいばかりであった。

「……どうしてここにあなたはいないのかしら」

 呟いても返事はない。リゾット、彼の愛情深い眼差しや柔らかでありながら熱を帯びた声、澄み渡るほどに真っ直ぐな言の葉。そうしたものが遠く霞んでいく。あの日交わした約束も幻想となっていく。すべてが夢に還っていく。──夢であったなら、どんなによかったろう。

「……うそつき」

 あの日の亡霊を今も探している。名残に触れ、そのたびに空虚を積み重ねる。そうわかっているのに追いかけるのを止められなかった。
 名前は彼が得意とした料理を味わった。アンティパスト・ディ・マーレを。インヴォルティーニ・ディ・ペーシェ・スパーダを。きっとあの頃よりもうまくなったシチリア料理を。あの頃よりも彼に近づいたはずの味を。

 ──それなのに、ちっとも美味しく感じられない昼食を。

「一番に食べてほしかったのはあなたなのに」

 なのにそんな彼はもうどこにもいないのだ。
 外では雨が降っていた。温かな思い出が恋しかった。より一層輝きを増すのに、それでも薄らいでいく思い出が悲しくてたまらなかった。