リゾット√【ありえない話】
原作後。暗殺チームでリゾットと夢主だけ生き残っていたら。
リゾットは新パッショーネで働いています。
空気の震える感覚に、名前は顔を上げる。
深い深い静寂のなか、佇むのは蒼白い顔の男。荒涼とした眼差しと、立ち上る錆びついた香り。黙したまま、身動ぎひとつしないその人に、名前は微笑む。
「おかえりなさい、リゾット」
読んでいた本を置き、ベッドの上で両手を広げると、リゾットはようやっと息を吐く。
長い長い、安堵の息。今際の時に吐き出されるそれに近いものを溢して、リゾットは名前を抱き締める。きつく、強く、痛みすら与えるほどに。
「ただいま、名前」
心地のいい声が耳朶を擽る。
「何か、変わったことは?」
そう訊ねられるのはいつものこと。帰宅した彼は、いつだってこの質問を投げ掛ける。痛みと恐れを孕みながら。問われ、名前は静かに首を振る。
彼が、望んだ通りに。
「いいえ、何も。誰も来ていないわ。私ひとり。ずっと、ここにいた」
「……そうか、」
答える彼がどんな顔をしているのか、名前は知らない。一度だって見たことがない。名前はただ、大人しく彼に抱かれ続ける。
「そうだろうな」そう言った彼の声が、どこか悲しげであることに気づきながら。
自分たちを置いて過ぎ去ってしまった仲間たち。彼らに思いを馳せ、名前は内心で呟く。
──彼らはもういない。もうどうしたって会えないの。私たちは、このどうしようもない世界で生きていかなくちゃならないのよ。
そんな当たり前の、そして残酷すぎる現実から、名前は目を背けた。思い出が鮮やかであるほど、滴る血もまた鮮明だった。
「あなたこそ平気?怪我はしてない?」
名前は顔を離し、リゾットの目をじっと見つめた。きりきりと痛む心臓から意識を逸らし、殊更に明るく。案じると、リゾットもようやく口許を緩める。
「ああ、問題ない」
「本当に?」
「心配性だな」
笑う彼にはきっと一生わかるまい。自由な体を失った今、彼の帰りを待つだけの時間がどれほど恐ろしいものかなんて。
名前は包帯の巻かれた右足のことを考えた。その下の、鮮烈な赤を。恐らく永遠に癒えることのない右足のことを考えた。
例え彼の心が離れてしまったとしても、私は生涯彼の帰りを待つだろう。……待ち続けるしかないのだ。
そんな思いを隠して、名前は「仕方ないでしょう」と口を尖らす。
「心配にもなるわ。今晩も一人での仕事だったんでしょう?」
「それは一人の方が立ち回りやすいからだ。別に無理をしている訳じゃあない」
リゾットは宥めるように言い、名前の頭を撫でた。続けて彼は『今のボスがどんなに気遣ってくれているか』という話をした。
パッショーネの新しいボスはまだ年若い青年であったが、それを補って余るほどの才覚に溢れていた。かつては軽んじられていた暗殺という仕事にも敬意を払い、他の構成員と同じ扱いをしてくれる。それは以前のことを考えれば破格の対応といえた。
今の生活をどれほど切望してきたろう。それを叶えるために、どれほどの犠牲があったろう。……どうして、同じ夢を見た彼らはここにいないのだろうか。
それこそ考えたって仕方のないことだ。けれど忘れるにはあまりにこの家は広すぎた。静寂に触れるたび、空虚な現実を突きつけられる。
「それならまあ、いいんだけど」
名前は表情を和らげ、そしてすぐに「コーヒーを淹れるわね」と手を叩く。
しかしベッドサイドに立て掛けられた杖を掴むより早く。
「ダメだ」
という硬い声に阻まれ、名前の体は宙に浮く。
その背中を支えるのは二本の力強い腕。足取りは確かで、不安なんて感じる暇もない。名前にできるのは、自分を抱き上げるリゾットを眺めることだけ。
荒削りながらもどこか気品を感じさせる顔。見慣れているはずなのに、名前の心臓は高鳴る。
それに気を取られるうち、気づけば名前の体はソファに座らされていた。
「コーヒーならオレが淹れる」
言い置いて、リゾットは踵を返す。彼が向かった先にあるのは当然カッフェティエーラ──エスプレッソマシーンである。
リゾットはその中に手際よくコーヒーを入れ、火にかける。その大きな背中を眺め、私は溜め息をひとつ。
「それじゃあ意味、ないんだけどなぁ」
嫌な仕事を終えたばかりの彼を労いたかったのに、上手くいかないものだ。でも彼がそれを望むなら名前も受け入れるしかない。過ぎる優しさも、甘やかしも、──自由にならない体も。彼の心の安寧のためなら、なんだって。
「何か言ったか?」
「ううん、なんにも」
名前は答え、室内に目を戻す。
元々明かりの少ない部屋、夜が来ると一層閉塞感を掻き立てられる。住人が減って、物理的には広くなったはずなのに、息苦しさを感じずにはいられない。昼も夜も、一人でも二人でも。
最後にカーテンを開けたのはいつだったかしら?名前は思う。一日中下ろされたままのカーテン。その向こうには寝静まった街が見えるはずだ。名前はその景色を思い出そうとする。朝には子供たちが学校へと向かい、夜にはすっかり闇に呑まれる通りを。
なのに記憶は曖昧で、名前はすぐに諦めた。答えは明日の朝、確かめればいい。その時には久しぶりに家中のカーテンを開けてみよう。そう考える傍ら、しかし同時に諦めを予感している自分もいる。
きっと、明日の朝になってもカーテンは閉められたまま。この家に、朝日は昇らない。
「お前も飲むか?」
「そうね、お願い」
リゾットは二人分のコーヒーカップをテーブルに置く。そしてまた名前を抱き上げ、自分の膝の間に座らせた。
これもまた突然のこと。断りのない行動であったけれど、今度は驚かない。こうしていないと落ち着かないのだ。名前が重傷を負って以来、リゾットはできる限り傍にいようとしたがった。
それが彼に刻まれた傷なのだ。名前の癒えない足と同じ。リゾットの傷は何度も抉られ、止めどない血を流し続けた。
名前はコーヒーカップを受け取り、「ありがとう」と笑む。リゾットも応えて、微かに口角を上げる。それがすべてだった。
「さっきまで何を読んでいたんだ?」
「詩集よ、ウィリアム・ブレイクの。でも読んでいたってほどじゃないわ。あなたの帰りを待ってただけ」
慰めに詩集を開いていただけだ。そう答えると、リゾットは「先に休んでてくれていい」と言う。
「お前はまだ怪我人なんだ」
それは気遣いであり、言い聞かせるような語調でもあった。
彼は怪我を口実に名前から日常を遠ざける。太陽も月も、等しく彼方へ。リゾットが与えるのは温かな箱庭であり、名前に望むのは永遠だった。
強い眼差しに、名前は「そうね」と首肯する。──そうね、あなたの言う通り。私はあなたの腕の中に天国を見るし、この一時の中に永遠を感じている。
「でもあなたの顔を見ないと安心できないの。だから夜更かしくらいは許してほしいわ」
名前はコーヒーを飲み干す。多量の砂糖が喉に絡み、臓腑を侵蝕する。胸を塞ぎ、喉を塞ぎ、やがてはこの身すらも呑まれていく。溺れていく感覚は、ただの幻ではない。
彼もまた同じことを感じているのだろうか。リゾットは一瞬だけ顔を歪める。
しかしすぐに「そうか」と優しく答え、名前の腹に手を回した。
「傷はよくなったか?」
囁きに、名前は僅かに身を固くする。
「……さぁ、どうかしら」
幾度となく繰り返された問いのひとつ。夜毎繰り広げられる『儀式』。でもそのたびに名前は緊張感を覚える。そのたびに、祈らずにはいられない。
名前はスカートの裾をゆっくりと持ち上げる。脛から膝、そして大腿まで。少しずつ露になる肌に、リゾットの視線は注がれる。それは顔を上げなくたってわかるほど、真剣な目だった。
明かりの下に浮かび上がる、白。ほの暗い光がちろちろと肌を舐める中、名前は包帯に手をかける。どうか、と祈りながら。
「……まだ、治っていないな」
果たして願いは通じた。今夜もまた、暴かれた包帯の下には痛ましい傷が刻まれたまま。
赤いひきつれをなぞり、リゾットは呟く。──少しの安堵を、滲ませて。
「これじゃあまだ出歩けないわね」
「そうだな、残念だが」
嘘つき、と名前は心のうちで呟く。嘘つき。本当は、ちっとも残念だなんて思ってないくせに。
そうでなきゃ、こんな傷、すぐに治していた。あなたさえ望まなければ、スタンドさえ使ってしまえば、こんな傷──そこまで考えて、名前は自嘲する。永遠を選んだのは、私だ。
リゾットが包帯を巻き直す。まったく、器用なことだ。後ろから抱き締められた格好のまま、名前は他人事のように眺める。永遠に不自由なままの右足を。
「治ったらジェラートが食べたいわ。それで公園を散歩するの。外はいま春でしょう?きっと気持ちいいわ」
「それはいいな」
「あとは映画も観たいわ。ちゃんと、映画館で。いまは何をやっているのかしら?なんでもいいわ、なんだって楽しめるもの」
「ああ、」
リゾットは頷く。決して否定しない。彼は優しくて、残酷だ。そして、どうしようもなくズルいひと。
でも名前は逆らえない。抗うには、この箱庭は甘美すぎた。