アバッキオの妹になるX


 ぼくはカップをソーサーに戻し、視線を宙にやった。目前のプレビシート広場。年中賑わいのある場所だが、今日は何かのコンサートでもやっているらしい。華やいだ様子の人々の他に、警備員の姿も多く見かけることができた。
 そうしたものをぼくはぼんやりと眺めた。学校からは距離があるから煩いばかりの知人もやって来ない。老舗のエスプレッソの味にだって文句はない。けれど多くの事柄がぼくの意識の外側にあった。
 ぼくは視線を落とした。ババはまだ半分以上残っている。なのにフォークは進まない。溜め息ばかりが出てしまう。

「……こんにちは」

 そんなぼくの前に影が落ちた。
 一人分の小さな影。ぼくは顔を上げ、──目を見開いた。

「君、は」

 逆光になっていた。それでもぼくには何もかもがつぶさに見て取ることができた。煌めく白銀の髪も、意思の強さを窺わせる金の瞳も。一見すると冷たく見られがちな容貌が緩み、口許が笑みを形作るのも。

「お久しぶりです、ジョルノ」

 ぼくには友人がいた。終世の友であるとぼくは思っていた。
 けれど彼女は姿を消した。とある事件を機に放校処分を受け、以後まったくの消息を絶った。無二の友はまるで煙か幻かのようにぼくの前から消え去ったのだ。

「名前──」

 ──その彼女がいま、ぼくの目の前に立っている。ぼくの前に立って、かつてと変わらぬ笑顔を浮かべている。
 彼女は「お元気そうで何よりです」と笑みを深め、それから席に着いた。ぼくと同じテーブル、ぼくの前の椅子に。以前のように振る舞う友人の姿にやがて驚きは過ぎ去り、代わりに途方もない喜びが胸のうちに溢れ出た。
 名前は店員を呼びつけると「彼と同じものをお願いします」と言った。それもまた思い出の一場面と相違なかった。彼女はぼくの友人だ。今も変わらず、そしてきっとこの先もずっと。予感は確信に変わり、臓腑が締め付けられるような不思議な感覚を覚えた。

「それにしてもジョルノ……あなたなかなか粋なことをしてくれますね。あんなに嬉しい恋文をいただいたのは初めてです」

 にんまりと笑った名前は悪戯っぽく目を細めていた。友人らしい、気安い語調。冗談めかした台詞すらも懐かしく、ぼくは──「だって、ぼくは、」あぁ、うまく笑えているだろうか。

「君に会いたかった。……もう会えないかと、思っていました」

 表情だけは取り繕えてもその他のことまでは気が回らない。隠しおおせない。
 掠れる語尾。潤む声。そうしたものは本意じゃない。縋るようなことをしたいわけじゃなかった。彼女を責めたいのでも、恨み言をぶつけたいのでも。

「……すみません」

 言ってから、ぼくは目を伏せた。温くなったエスプレッソがさざ波を立てていた。しかしぼくの胸中といったらそれよりもずっと酷い有り様だった。名前に言いたいこと、訊ねたいこと。今日まで冷静に積み重ねてきたそれらが今は見るも無惨。あちらこちらへと散らばって、頭に浮かぶ語といったらとりとめのないもの、不必要な言葉ばかり。
 ぼくは唇を引き結び、頭を垂れた。

「詮索してはいけないとは理解していたんです。君がどうなったかは……なんとなく想像がつきましたから」

「ジョルノ……」

 名前は何事か言いかけて、しかし沈黙を守った。
 その間にも彼女の注文分はやって来て、テーブルの上に並べられていく。食器の触れ合う音。そんなものさえ耳につく。喧騒は遠く、ぼくらの世界は隔たりの中にあった。
 名前からは葛藤の気配が伝わってきた。でもぼくから訊ねることはしなかった。してはいけないことだと理解していた。
 彼女は傷害事件を機に学校を辞めた。そしてその後消息を絶った。あまりにも突然彼女の痕跡が途絶えたのだ。兄の家を出て以来、どのように生活しているのか。彼女のように『普通』の中では生きづらい人間が、どんな世界に身を落とすのか。
 ──想像に容易いことだ。
 名前は手持ち無沙汰といった風で躊躇いがちにカップに手をかけた。そうしてカフェを一口含んで、またソーサーに戻し、すっと目線を上げる。
 それは彼女の動きに釣られたぼくの方も。

「私の方こそすみません。何も告げずに学校を辞めてしまって……。でも私がこれ以上あなたに関わっても益などないでしょうし、」

 下がる眉尻。口許に浮かぶ微苦笑。名前は困ったような顔をして、「……いいえ、」と言葉を切る。いいえ、それだけではないんです、と。

「そんなのは言い訳です。私はただ怖くて、」

「怖い?」

「はい。……お恥ずかしい話ですが、その……もうあなたに顔向けできないのでは、と」

 問い返したぼくに答えると、今度は名前が俯いた。
 震える睫毛。はらりと肩口に流れる銀色。弛む弦は反対に、今までずっと張りつめていた証だ。
 ぼくは今日ここに来るまでの彼女のことを思った。ぼくに声をかけるまで、幾度の躊躇いが彼女の中にあったろう。己を苛む想像に何度足を止めたろう。そのたびにどれほどの勇気を必要としただろう。
 覗く名前の耳は恥じらいに赤らんでいた。

「あのような直情的な……感情に任せた行動を取って、あなたに呆れられたんじゃないかって。あぁ、いえ、ジョルノは優しいですからそんなこと思わなかったというのはわかってます、この間のお手紙からも伝わってきましたし」

 口早に言い募るのは平静さを欠いているから。わかっているのにぼくには何もできない。ただ呆然と名前の告白を受け止めた。──名前がそんなことを気にしているなんて、思いもしなかった。
 ぼくの代わりに怒った友人。関わり合いにならない方がいい、そんな類いの子供たちに反論し、真っ向から立ち向かった女の子。下らない差別や嫉妬、そんなものぼくにとっては今さらどんなキズにもなりやしないのに、なのに何も感じないぼくの分まで怒って、悲しんで、──ぼくの分まで処罰をくだされた親友。

「でも、……やっぱり怖かった。今日も、声をかける時も、……今だって」

 そんな彼女に申し訳ないと思うのは本当ならぼくの役割だ。何もかもを引き受けてしまった彼女、『ジョルノは悪くない』最後までそう言い張って、真相すら呑み込んだまま処分を受け入れた親友に、感謝こそすれ負の感情を抱く方がおかしいだろう。
 なのに名前は。彼女は本当に心底から怯えているのだ、と。所在なげにカップの縁を指先でなぞり、「あはは」と殊更明るい笑い声を上げて頭を掻いた。それはあまりに空虚で、空々しく響いた。

「緊張で倒れてしまいそうです」

「……倒れてください」

 零れ出たのは哀願だった。哀願を溢したのはぼくの唇だった。

「倒れて、ぼくを頼ってください。そうしてくれたってぼくは構わなかった。名前、君なら、」

「ジョルノ……」

 気づけばぼくは名前の手を取っていた。その両手を包み込み、縋るような必死さで願っていた。形振りなど構っていられなかった。そんなことを思う余裕もなかった。ぼくはこの唯一無二の友人を失いたくなかった。ただひとり、ぼくの夢を打ち明けることのできた人。ぼくの夢を笑わず真剣に願ってくれた人。そんな友人に今、ぼくは必死で希っていた。

 ──けれど。

「……ありがとう」

 一度目を丸くした後で。それから名前が浮かべたのはあまりに静かな──静かなばかりの微笑みだった。壁一枚隔てたような、温もりのない静寂がそこにはあった。
 ぼくは言葉に詰まった。言いたいことはあった。伝えたいことも、話したいことも。なのに何もかもが上滑りしていった。何もかもがもう彼女からは隔たってしまったのだと悟った。

「でも私、もう全然大丈夫ですから!」

 しかし彼女はそんな空気すらすぐにかき消し、太陽ほどに朗らかな笑みを刷いた。

「お手紙もいただきましたし、こうしてまたお話しできましたし……満足です、幸せです、果報者です」

 名前は噛み締めるように言うと、ぐいっと勢いよくカップの中身を飲み干した。それからまた顔を上げ、

「ジョルノもどうか気に病まないでくださいね。すぐ手が出てしまうのは確かに私の悪いところですから!それに私……」

 名前の目。澄んだそれは真っ直ぐで、確固たる信念があって。

「私、やっぱり今でも後悔はないんです。夢はさっぱりわからなくなってしまいましたけど、でも……あそこで見過ごすっていうのだけは絶対できなかったから」

 他の何者の影響も受けない。例え誰から引き留められたって、彼女が歩みを止めることはないだろう。その清々しさは気持ちよく、同時にとても危うく感じられた。
 「名前、」ぼくは彼女の名を呼んだ。でもそれだけだった。それ以上は何も言えなかった。ぼくは口を噤んだ。彼女を引き留めるとはぼく自身を否定することだ。ぼくたちは理解者だった。そうであることを望んだ。ぼくも──名前も。

「ま、まぁ悪いことばっかりでもないんですよ?色々……以前はわからなかったことを知る機会も増えましたし、」

 取り成すように言って、名前は「ただまぁ……天国に行けないのだけは残念です」と肩を竦める。それは軽口を叩くのに似た調子だった。けれどぼくの胸は痛んだ。

 ──名前、ぼくが神なら君を救うことだってできたろうに。

「あっ、そろそろ行きますね」

 名前は時計を見やると慌てて席を立った。テーブルに置かれた代金。一杯のカフェ代くらい構わないのに彼女はいつだって律儀だ。
 そしてそんな彼女は雑踏の中駆けていく途中、ふと足を止め、振り返る。何を言うこともできなかったぼくへと。

「ジョルノ!私、絶対に約束は破りませんから!!」

 いつも通りの笑顔を浮かべながら、しかし眼差しだけは真剣に。

「あなたのお父さんのことも、きっと私が見つけ出してみせます!」

 高らかに宣言し、名前は踵を返した。
 それを見送って、ぼくはまた席に着く。空白の横たわるテーブル。ぼくの前にはもう温もりの一片しか残されていない。
 けれど不思議と穏やかな心地だった。そこで初めてぼくは喪失感を抱いていたのだと自覚した。胸に巣食う空虚が埋められてようやくそれを認めることができた。
 ぼくは冷めたエスプレッソを飲み干した。そうしながら未来のことを考えた。これより先、いつか重なり合う二つの道のことを。その時隣にいるのが彼女であったらどんなに心強いだろうかとぼくは考えるのだった。